昭和14~16年

 

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  昭和14年

      1月~4月      5月~8月       9月~12月

   昭和15年

      1月~4月      5月~8月       9月~12月

    昭和16年

      1月~4月      5月~8月       9月~12月

 

昭和14年1月~4月     

 

去る12月29日から1月6日まで、9日間、別府市外十文字原(昭和7年に志鶴

氏が十文字号で、8km、8分34秒の日本記録を作ったので有名になった)で

大阪の福田前田軽飛行機の12名、大分中学校の二階堂先生以下20数名、

それに地元の二級滑空士阿部奈良喜氏を加えて練習会を開いた。教官は福前

(註-福田前田軽飛行機)の小田一級滑空士と秋元、阿部二級滑空士。

 

昭和14年(1939)

 

 1月1日から5日間、東京市役所グライダー部は、月島埋立地で田中二級滑空

士指導のもとに練習会を開いた。これが関東における年始グライダー練習の皮切

りであった。

 

 1月2日から6日まで、大阪盾津飛行場で大阪城東商業、大阪桃山中学、美津

濃グライダー研究会、大阪金岡グライダー・クラブ、川西帆走飛行研究会、尼崎

グライダー研究会、それに甲南高等学校学生5名、福知山中学の先生、大槻少尉

など、60名が集って耐寒グライダー練習会を催した。この会は、すでに3年前か

ら、新年早々、毎年開いていて、今度で3回目である。機体はゲッピンゲン1型,

美津濃301、同じく美津濃のセカンダリー 1、プライマリー3、教官は主任、志鶴

氏、副は大牧氏、中野徳兵衛氏、藤原金太郎氏、都築嘉雄氏。この5日間は雨、

雪、風があって天候はよいほうではなかったが、1日も練習を休まず、大変能率

をあげた。

 

 1月4日、満州飛行協会の弘中正利一級滑空士は、大連飛行場の付近でゲッ

ピンゲン1型で3時間25分滞空して満州記録を作った。

 

 1月下旬、かねて文部省が関口隆克嘱託、榊原航空官、航研の山本峯雄氏らの

協力を得、社会教育局の映画技師、雨夜全氏のカメラで作っていた「滑空訓練」

2巻ができ上り、1月16日のトンビ会總会などで公開され、好評であった。希望

者には2巻で約300円の実費で複写する。

 

 2月号、航空時代に飛行協会總務理事四王天延孝中将の「世界一周グライダー

土産話」が掲載された。同中将は昨年8月初めに出発し欧米を視察し、本年1月

初め帰朝した。

 

  2月1日、文部省で、滑空訓練教程草案作製のための第1回委員会が開かれ

た。委員長は航研の岩本周平教授、委員は中央気象台の藤原咲平博士、航空局千

田貞敏乗員課長、甲斐茂吉規格課長、榊原茂樹航空官、青木京航空官、航研山崎

好雄助手、飛行協会加治木智種中佐、厚木中学永野毅校長などで、それぞれの分

科委員会を設け、夏前には草案を完成の予定で努力することになった。

 

 2月6日、去る1月21日から生駒山頂で待機中だった福田前田軽飛行機の小田

勇一級滑空士と美津濃グライダー製作所の中野徳兵衛一級滑空士は、この日約

13m/秒の強風をついて、まず中野氏が美津濃301型で午前7時47分ゴム索発航

で山頂を飛出し、引続き小田氏も六甲2型で吹雪の中に突入した。両機は生駒と

信貴山との間を風雪と戦い快翔し続け、中野氏は5時間8分、最高1,800m、

小田氏は9時間33分、最高々度2,600mの好記録を作った。同じ場所で昭和11年

1月27日、志鶴氏が9時間23分の記録を作ってから満3年で、今度小田氏がこれ

を更新した。

 

 2月11日、わが委任統治領の南洋群島のグライダー熱は昨年から急激に上昇

し、本年早々サイパン・グライダー協会が結成されたが、この日、紀元節の佳日

を卜して、その発会式とグライダー命名式が盛大に挙行された。この会の中心に

なっているのは、南洋庁属の迎亮一氏、サイパン郵便局員で二等航空士だった大

野源治郎氏で、この二人の張り切り方は大変なもので、迎氏は常任理事として、

大野氏は訓練の教官として活躍している。材料入手も容易なことでない南洋の孤

島で、会員が協力して立派なプライマリーを2機も作りあげて飛ばしている。

(航空時代8月号、サイパングライダー協会の沿革と現状、大野源治郎)

 

 2月19日から同26日まで、8日間にわたり、ローマの郊外セッツェ・リットリ

アのグライダー学校で、1940オリンピック競技用グライダーを選定する審査委員

会が開かれ、佐藤九大助教授と守屋東大教授は審査に立合った。この時の様子は

(航空時代6月号、ローマにおけるオリンピア滑空機の審査会、九大助教授、佐

藤博)に詳細報告してある。

 

 3月1日から10日間、甲府の玉幡飛行場で文部省航空評議会主催の第1回気流

調査滑空会が開催された。委員は岩本周平、藤原咲平、甲斐、榊原航空官、青年

航空団の摺沢大佐、梅沢山梨飛行学校長、密田甲府測候所長の諸氏、飛行班は日

本帆連の松下、清水、学生航連の熊谷、祝、青年航空団の沢田、桑本、山梨飛校

の梅沢、篠田、福田前田の小田の諸氏、使用グライダーは、航空局試作の高性能

ソアラー佐藤式TC伊藤式C6、同DⅠ日本式鵬型光式複坐の5機。グライ

ダーを使って学術的気流調査をしたのは日本ではこれが最初であった。

 

 3月15日、航空日本の育ての親である井上幾太郎陸軍大将(帝国在郷軍人会

長、大日本青年航空団長)は甲府市外玉幡の山梨飛行場で、松下弁二飛行士の操

縦する福田前田の並座ソアラー光式6.1型に同乗飛行して、グライダーの快味を味った。

 

 本機は遞信省試作機で、わが国最初の並座式のグライダー、設計者は同製作所

の技術部長高木基雄工学士、機体要目は、翼幅16m、翼面積20㎡、翼型64012、

空重量260kg、搭載量160kg、滑空比21.4、沈下速度0.85m/秒。

 

(航空時代4月号、井上大将のグライダー試乗を見る、渡部一英)

 

 3月16日から同25日まで、東京芝の東京高等工学校グライダー部員21名が大島

三原山で春休みを利用して合宿練習をした。帆飛連の清水一級滑空士が指導し、

伊藤B2型セカンダリーとA2型プライマリーの練習をした。

 

 3月26日から4月4日まで、箱根十国峠で、極東帆走飛行クラブ、帝国商業グ

ライダー部、とんび会主催、帆飛連後援の春期合宿練習が行われ、教官は松下、

清水、利根川各一級滑空士、上級者にはソアリングの要領を教え、中級者には旋

回要領を練習させた。(航空時代5月号、三原山、十国峠における滑翔練習会報

告、日本帆飛連、清水緑)

 

 3月30日、今秋、明治節を中心に5日間開かれる第10回明治神宮体育大会の実

施要網を決める体育審議会特別委員会で、拳闘、ヨット、卓球、カヌー、重量上

げ、送球、職業相撲は競技種目から除外され、またグライダー競技も本年は行わ

ないことになった。一昨年は滑空競技を加えることになっていたところ、開催間

際に、支那事変が起ったため中止となり滑空界を失望させた。しかしその後グラ

イダー訓練の重要性は益々増大し、事情好転にともない本年は必ず開かれると、

グライダー関係者は期待していたが、またまただめになってしまった。中止の理

由は、文部省は中等学校の生徒は神宮競技には加えない方針であること、一般ア

マチュアでは滑空競技に出場する技術のものが甚だ少ないと考えているからだ。

こんな理由でグライダー競技をとりやめにする当事者の態度に、グライダー界で

は大きな不満を感じている。

 

(航空時代6月号、NSFKについて、第6回ISTUS總会に出席して、九大

助教授、佐藤 博)

 

 3月末、文部省で調査したグライダー部をもつ学校の数は、高等専門学校30、

中等学校120校であった。

 

 3月末までに(即ち昭和13年度内に)帝国飛行協会が出したグライダー製作費

補助は110機2万5,820円であった。

 

帝国飛行協会の本昭和14年度事業予算は前年度を踏襲し、グライダー関係約8万

円となった。

 

 4月1日、満州飛行協会ハルビン支部の益井操縦士は伊藤式C2型にのりハルビン

市上空で滞空1時間45分、高度2,500mの満州新記録を作った。

 

 4月22日から3ヵ月間にわたり、青年航空団の昭和14年度の第1回滑空訓練が

千葉県の柏飛行場で行われ、このため新たに募集した団員50名の結成式が、4月

21日、神宮外苑日本青年会館で挙げられた。この滑空訓練の目的は、二級滑空士

の資格と指導者としての技倆を得させること。募集人員は甲種生50名、乙種生50

名。甲種生は中学校および甲種実業学校卒業生で母校の指導者たらんとする者。

乙種生は中学4年以上の学力をもつ者。年齢制限は甲は満18歳以上20歳まで(但

し学校で特に推薦する者は28歳まで認める)乙は満17歳以上20歳まで。甲乙とも

に訓練期間中に徴兵検査を受ける者は除外する。各府県の募集人員割当は、甲、

乙とも各々1名か2名となっている。

 

 本所で自分の工場でグライダーを製作していた白石襄治氏は、最近この工場を

青年航空団の附属工場に提供し、その工場主任となった。

 

 4月10日から1ヵ月間、飛行協会は名古屋市外小幡原飛行場でグライダー指導

員講習会を開いた。4月10日から同18日までを第1次とし、これでは二等以上の

飛行士10名に限定して、まず九五式3型曳航飛行機の練習をさせ、それから第2

次に入るが、これには第1次訓練をうけた者全部の外に二級滑空士10名を加え、

合計20名の練習生に、専ら曳航飛行の訓練をする。この第2次訓練の指導者は松

下、清水の両氏であった。この講習会で初めて曳航電話が使われ、曳航飛行中

に、曳航飛行機と滑空機とが自由に話すことができるようになった。

 

昭和14年(1939)~外国~

 

2月には、FAIは翌1940年オリンピック用制式グライダーを決めるため、ロー

マで審査会を開き、独、伊、ポーランドが出した5機を審査して、ドイツ滑研

の*マイゼ* <page106.html>(四十雀型)を選定し、オリンピア機として各国に

広めた。この年のレーン大会は、第2次世界大戦が勃発する直前に開かれたが、

300km以上の距離飛行が12回、4,500m以上の上昇が3回、3,000m以上が31回、

総滑空時間2,150時間という盛況であった。この直後にドイツはポーランドに攻

め込んだ。広大な領地と、スケールの大きな気象を、存分に使えるソ連は、次第

に距離記録を高めてドイツを圧し始めていたが、昭和14年の夏には、女流滑空士

クレビコバの749kmをはじめとして、目的地飛行602km(単坐)、395km(複坐)

などの大記録を続々作った。

 

 

昭和14年5月~8月     

 

 5月16日、九州大学の佐藤博助教授は2年間にわたる独、英、仏、伊、米の留

学を終え去る12日帰朝し、この日午後4時半から飛行協会講堂で(グライダーを

中心としたドイツその他の国の航空界)につき講演した。

 

(航空時代月号、佐藤博氏の講演速記録)

 

(飛行7月号、「グライダーを中心として観たドイツ民間航空の現状。」青年航

空7月号、題上に同じ、九州帝大助教授、佐藤 博)

 

(5月13日、朝日新聞、ドイツを視る、グライダー学校26、11歳から訓練、風雲

に築く空の王座、社会面記事)

 

 5月31日、東京帝大航空研究会主催の講演会が法25番教室で3時半より開か

れ、航空研究所長和田小六博士の挨拶の後、佐藤九大助教授の(ドイツのグライ

ダー界について)講演が行われた。

 

6月2日、羽田飛行場で試験飛行をしていた*/日本小型飛行機KK製の鷲型複坐ソ

アラー/* <page220.html>が水平錐もみにはいり、操縦者熊谷悌司飛行士と同乗

の高坂憲三航空官はパラシュートで脱出して難を免れた(高度約400mより)熊

谷氏は後、中華航空の操縦士となったが、空中勤務中に殉職した。これはわが国

で初めてのグライダー事故にパラシュートを使ったものであった。

 

(航空時代7月号、「離脱から九死に一生を得る迄」一級滑空士、熊谷悌司。

「生死の境のスリルの想ひ出」航空官、高坂憲三)

 

 6月5日、午後4時から飛行館地階、中央亭で、佐藤九大助教授を囲み、「ド

イツのグライダー界についての技術的座談会」が催され(協会主催)参会者約50

名、盛会であった。

 

 7月1日、東洋麻糸紡織会社々長、寺田元之助氏は帝国飛行協会に滑空学校建

設の資金として5万円を寄付した。同氏は明治14年の生れ、明治33年大阪高商の

出身である。

 

 7月6日、飛行協会の理事会では、本年2月、ローマで開かれたオリンピック

用グライダーの審査会に出席した佐藤九大助教授の提案により、オリンピック用

として選定されたドイツ滑空研究所(DFS)設計のオリンピア型ソアラーの購入を

決定し、ドイツ、ワッサークッペの山麓ポペンハウゼンのシュライハー製作所に

発注した。

 

 7月16日から同21日まで、6日間にわたり、飛行協会、帆飛連、大毎、東日主

催の第3回全日本帆走飛行競技大会が生駒山と盾津飛行場で開かれ、14名の選手

と14機が参加したが、生憎天候が思わしくなく、成績は期待したほどのものが得

られなかった。綜合点1位、清水六之助、2位福田秀雄、3位沢田兼一、種目

別、大黒喜一(1時間8分)、距離清水六之助(佐藤式TC型、盾津深草間33.26km)

であった。

 

 7月28日から3日間、冨士山麓朝霧高原で飛行協会、朝日新聞社主催の第2回

全日本学生グライダー競技会が開かれ、14大学、15高専より、セカンダリー53

名、ソアラー13名、合計66名の選手が参加した。東条英機陸軍航空總監、航空本

部長は3日間熱心に競技を見、陸軍航空總監賞を出したが、これはソアラーのウ

インチ曳航競技の1位、同志社大の牧野伊兵衛氏がもらった。

 

 8月1日から同30日まで1ヵ月間、朝霧高原、冨士滑空場で、文部省、飛行協

会、青年航空団主催の學校教員指導員滑空訓練会が開かれ、全国の中等、高専学

校の先生に小数の学生を加え、全員110名が訓練をうけた。この講習会は今まで

にない大がかりなもので、学科講師陣も一流の大家をそろえ、岩本周平東大教

授、藤原咲平博士、田中館博士、佐藤九大助教授、乗員課長千田大佐、甲斐規格

課長、松浦器材課長、佐田、榊原航空官等、指導員陣は、監督摺沢大佐、主任松

下弁二氏、沢田、利根川、祝、大西各滑空士、それに青空の一、二級滑空士十数

人が助手として活躍した。

 

 8月5日より3日間にわたり、大阪の美津濃ビルで、佐藤九大助教授が講師で

滑空機設計製作技術研究会が、滑空機工業組合の主催で開かれ、各グライダー製

作所の設計主務者、グライダー製作の経験をもつ学校代表者たちが熱心に受講した。

 

 8月31日、三溝桃介一級滑空士は、北海道札幌飛行場で、伊藤プライマリーに

乗り、ゴム索2本を縦につなぎ、40mの鋼索をたし、自動車で45歩に相当する索

引力を与えて発航し高度20米に達した時、過大な速度に耐えかねたか、翼の張線

が切れ、右翼が折れて飛び墜落死亡した。一説では、この以前に翼桁に異状が

あったともいうが、よくは判らない。

       

昭和14年9月~12月  

 

 9月17日、神奈川県丸子多摩川滑空場で飛行協会主催の滑空ディスプレーが

あったが、安房菊次一級滑空士が、セカンダリーのウインチ発航で旋回している

時、50mほどの高度から錐もみに陥り、1旋転して観衆の目前に墜落、重傷を負

い、間もなく死亡した。強風で気流が甚しく悪い時に、横風を受けつつ緩速旋回

をして錐もみに陥ったものと思われる。

 

 9月17日から同21日まで、9日間にわたり朝鮮航空連盟主催の全鮮滑空大会が

開かれた。日本帆飛連の志鶴滑空士(ゲッピンゲン1型)大牧飛行士(クレム25)は各地の飛行場でグライダーの曲技を公開し、佐藤九大助教授と志鶴滑空士は講演をした。日程は17日京城、18日平壌、19日新義州、21日大邱。平壌から新義州に向かう途中で荒天のため曳航索が切断し不時着したので、新義州は講演会だけになった。曳航距離1,450km。

 

 10月9日から同15日まで、阿蘇大観峯で、飛行協会、青年航空団、九大航空会

が共同で阿蘇グライダー研究会を開いた。参加者は田中丸(九大)、清水(帆

連)、大黒(飛協)、小川(青航)、河辺(青航)、西島(青航)、尾崎(青

航)、上原(青航)の8名、機体は九帝七型佐藤式TC、名古屋式105型、日本式鷹型 が2機、合計5機で、成績は、田中丸(九帝七型)7時間9分、河辺(鷹型)5時間19分、清水(TC)5時間18分、田中丸(九帝七型)3時間12分、2時間21分、小川(名古

屋式)2時間17分、尾崎(鷹型)2時間11分、清水(TC)1時間26分、高度は

清水、小川各々1,600m、会期中の滑空時間合計は30時間6分に達するという好

成績をあげた。技術指導は九大佐藤助教授、運営指揮は青年航空団福岡県支部副

長高橋大佐であった。

 

(青年航空12月号、「阿蘇グライダー研究会を語る」九大助教授佐藤博、青空副

団長堀丈夫中将、福岡支部副長高橋大佐、飛協嘱託加治木中佐、大毎航空部員志

鶴忠夫一級滑空士、帆連清水一級滑空士、九大航空会田中丸一級滑空士、青空本

部助教授小川健爾一級滑空士、青空団員、河辺忠夫一級滑空士、上原峯次、尾崎

健吾、西島貞人、平松時善一級滑空士等)

 

(航空時代11月号、「意義に冨める阿蘇グライダー大会を評す」鷲見譲次。「阿

蘇大観峯に翔る」清水緑)

 

 11月3日、かねて満州飛行協会ではプライマリー50機、セカンダリー20機、ソ

アラー20機の大量購入を決め、その註文を日本のメーカーに出すことになってい

たが、本協会は発展的に解消して、この日満空務協会が創立された。またこの月

には満州航空会社附属工場においてMG3型と呼ぶゲッピンゲン1型と同様なソアラーを試作した。

 

 11月15日、文部省では滑空訓練指導者陣を作るために、松下弁二一等飛行

士、一級滑空士、祝實之、小島康夫の二級滑空士を嘱託にして、学校滑空訓練の

実務に当たらせた。

 

 11月中旬、全印度グライダー協会からわが国の飛行協会に、指導者の派遣かた

を依頼してきたが、適当な候補者がなくて断った。

 

 印度には、全印度グライダー協会がアラハバットを中心として各地に練習場を

もち、1940末までには2万5,000人の滑空士を養成する目標に向って活発に活動

していたところ、欧州戦勃発のため、英国その他から来印して指導していた人た

ちが皆本国に引上げたので忽ち支障をきたした。そこで同協会代表のマラビア氏

はアラハバット駐在の日本總領事を介してわが飛行協会に指導者の求人を頼んで

きたわけである。

 

 12月17日、台湾国防義会嘱託、早坂文之助二級滑空士は、台南飛行場でウイン

チ曳航上昇中に、ウインチ自動車事故のため、牽引力がなくなり、同時に索が離

脱しないままで旋回したため、錐もみになり墜落即死した。

 

 プライマリー、セカンダリー級の訓練は、飛協、文部関係、青空、学連、帆連

で年中ほとんど絶え間のないように行われた。ことに文部省が積極的に滑空訓練

の奨励にのり出してからは中等学校、大学、高専の学校滑空訓練はいよいよ盛ん

になってきたので、文部省当局はこの健全な成長のために、滑空訓練教程を作っ

てこの夏に各府県に配布した。この年には滑空部をもつ中等以上の学校は400校

を超え、滑空士は一級約70名、二級約380名になってきた。

 

(航空時代、昭和14年12月号「、阿蘇帆走飛行研究会の目的と成果」九大航空

会、一級滑空士、田中丸治広)

 

12月下旬、グライダー・メーカーとして有名な前田建一氏は、事変勃発後間もな

く出征し、軍曹として中支に転戦して武勲をたてていたが、このほど召集解除と

なって晴れの帰還をし、以前経営していた福岡市の前田工作所を復活拡大して、

グライダーの製作を開始する計画である。

 

 12月1日、大阪の福田軽飛行機KKが陸軍航空技術研究所の注文で作っていた

光式6.2型複座ソアラーが完成し、この日、同社の小田勇一級

滑空士が搭乗し、篠田飛行士操縦の立川式R38型練習機に曳航されて大阪飛行場

を出発して立川陸軍飛行場に到着、航技研に納入された。

 

 12月初め、美津濃グライダー製作所の主任中野徳兵衛氏は少尉で応召したの

で、後任は吉川精一滑空士が当たることになった。

 

○航空知識、昭和15年1月号

 

「ドイツグライダー研究所(DFS)について」九大助教授佐藤博

 

昭和14年12月27日

 

帝国飛行協会總務理事 堀 丈 夫

 

九大助教授 佐 藤  博 殿

 

(オリンピア・セイルプレーン図面の件)

 

 拝啓永らく御高配を願ひ候オリンピア・セイルプレーン図面複写出来致候に付

2部拝呈仕候間御受納下され度候

 

 追て民間団体に頒布致候際の誓約書等書類写1通御参考までに同封仕候、本図

面は貴官に対し無償進呈仕候

 

尚オリンピア・セイルプレーンは1月20日頃山陽丸にて横浜着の予定に候

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

  昭和14年12月20日 帝国飛行協会

  DFSオリンピア・セイルプレーン図面頒布に関する覚書

 帝国飛行協会が日本における民間航空を代表し加盟せる国際航空連合会(略称

FAI)においては、さきに1940年度オリンピック大会のグライダー競技に出場

すべきグライダーの要目を決定し、これに基き各国において製作せるものを

FAI滑空委員会において詮考の結果ドイツ滑空研究所(DFS)マイゼ型を

もって1940年度オリンピック大会用型式に決定、これをDFSオリンピア・セイ

ルプレーンと改称せり

 

 右のオリンピア・セイルプレーンに関し帝国飛行協会はドイツ飛行協会より回

章(別紙写)に接したるを以て、本機1機を註文すると共に、右図面の譲渡をド

イツ飛行協会に請求し、図面1揃の譲渡を受けたるを以て、之を複写し本会並に

航空局において適当と認むる団体に次の誓約書を提出せしめ、之が厳格なる履行

を条件とし実費を以て頒布するものとす、頒布すべき図面、附属書及実費次の如し

 

 1、設計図  253枚

 

   仕様書   21枚

 

   規 格  240枚

 

   設計要綱(九大助教授 佐藤工学士訳)1冊

 

右1揃1部実費 金50円也(但し図面には翻訳を付せず)

 

 2、製作団体に対しては1ヶ所に2部を交付するものとす

 

 3、図面その他に翻訳を付して交付する場合の実費は追てこれを定む

                                    

        以上

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

   誓 約 書

 

 帝国飛行協会において複写せられ候DFSオリンピア・セイルプレーン図面1

揃2部を実費にて譲受け候に就ては之が使用に関しては、オリンピック・アマ

チュア精神を尊重しドイツ飛行協会の申出に基づく左記事項を固く遵守仕候、万

一違反せる場合は、如何様にも御処分相受け申すべく候

 

 1、本図面を一切他に譲渡すべからざることは勿論、譲渡の目的を以て複写せ

ざること

 

 2、本図面により製作する場合は、その用途機数等を貴会に届出で認可を受く

ること

 

 3、商業上の目的を以てDFSオリンピア・セイルプレーンを製作せざること

 

      4、新聞雑誌等の広告においてDFSオリンピア・セイルプレーン

の文言を使用せざること、

     但し帝国飛行協会より特に許可ありたる場合を除く

 

     5、DFSオリンピア・セイルプレーンを製作せる場合は誓約書附則

による記号及び塗装を実施すること

 

 昭和1 年  月  日

 

帝国飛行協会 御中

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 附 則

 

1、このオリンピア機にはすべて、その型式標示としてDFS Olympia

 と明記すること

 

2、搭載量(パイロットとパラシュート)85キロとして、トリム・プランを作ること

 

3、DFSオリンピアはドイツの国内で製作されるものは、アイボリー色で仕上

げている、他の国で作られるものも、これと同色にするようにすすめる

 

 航空局では昭和15年度は大いにグライダーを奨励しようと、今までの試作奨励

費の外に項目を設けて、大蔵省に予算要求をしていたのが50万円認められた。こ

れは飛行協会に交付して、グライダー界の振興に使われることになる。

 

 また文部省も15年度から積極的に中等学校生徒のグライダー訓練を実施するこ

とにして、すでに指導部の陣容を整えつつあり、またこれに必要な予算も、不十

分ながら幾分認められたので、いよいよ活発な動きをみせることになるだろう。

 

       

昭和15年1月~4月   

 

昭和15年(1940)

 

 1月19日、美津濃グライダー部の新進テストパイロット、吉川精一、一級滑空

士は、美津濃301型ソアラー(九大佐藤助教授設計)で朝7時44分、生駒山頂を

ゴム索発航し、零下10度の寒風と戦い、ついに滞空10時間、絶対高度2,810m、

獲得高度2,320mの記録を作った。記録の証明をしたのは当時の大阪飛行場長、

松尾静磨航空官(現日本航空会社々長)であった。(航空時代3月号、「日本

新記録を樹立して」美津濃グライダー研究会、一級滑空士、吉川精一。)

 

「いよいよ雲が多くなってきた。もう5時間以上飛んでいる。コンパスをにらん

で雲の中に突こむ。出るたびにほっと一息つく。今度は大ぶん厚いのがやってき

た。もう逃げる余地がない。コンパスと速度計をにらんで突入する。相当な積雲

らしく、盛んにがぶられる。容易に出られそうにもない。大きくガクリとゆられ

たと思うと、コンパスが風車のようにくるくる回りだした。ブリルにはいったか

と思ったが、どうも回っているようにも思われない。速度計はふらふら上下して

いる。少し押えたら針の動きがとまった。機体の姿勢がわからない。80km/時で

西へ西へと突込んだ。もう奈良の上にでもきているかもしれない、だめだったら

奈良の練兵場へ降りようと考えた。やっと下界が見えた、高度は1,000m、下は

山中で、信貴山が前方に見えた。それからは雲がこわくて、80km/時でぐんぐん

突込んで飛んだ。雲の中で大ぶん神経が疲れたのか、操縦桿を握る力も次第にな

くなるような気がしてきた。手放し飛行を思いだして、70km/時で手を放すと、

機体は60から80km/時の間をピッチングしだした。後へもたれて計器板を睨んで

いる、眠いというより気を失いそうである。それがとても気持ちがよい。ガクリ

とブリルに入って、ハッと目を醒ます。すっかり眠っていたのだ。ああ恐ろしい

と思った。一寸の間気が張るが、またすぐ眠くなる。わあわあ大声をだす。日は

沈んだ。とうとう1日中空で過した。盾津飛行場は暗くて見えない。心配になっ

て着陸を決心した。高度2,400mで山を離れ盾津に向う。飛行場の上空でまだ

2,000mの高度があった。布施へ行って帰ってくると、暗くて目測がつかない。

横滑りで高度を落として、やっと着陸した。」

 

 2月2日、飛行協会がドイツから購入した1940オリンピック制式ソアラー

(マイゼはドイツからイタリア、イタリアから海路横浜に到着した。

 

 2月3日、福田軽飛行機の岡本徳子二級滑空士は一級に昇進した。日本最初の

女流一級滑空士である。

 

 2月8日、(航空時代4月号、日本最初の夜間-)

 

 吉川滑空士の10時間の記録はグライダー界に大きな刺激を与え、福田軽飛行機

の矢野重幸一級滑空士は、この日午前2時47分、闇をついて生駒山頂からスター

トしたが、間もなく風が弱ったため、48分間の滞空で降りてしまった。しかしこ

れは夜間滑空としては最初の試みであった。続いて10日には、飛行少年団の大和

沢三滑空士が、第2陣として、また真夜中に生駒山上から飛出したが、これも、

状況利あらず、滞空15分に終わった。

 

 2月12日、ピアノで有名な東洋金属木工KKで進藤鈔氏(川西航空機技師)設計

のアカシヤ式巻雲2型ソアラーが完成し、この日航空局のテストを終わった。

本機は支柱付ガル翼の単座ソアラーで要目は、翼幅12.8m、機長6.3m、翼面積

13.65㎡、翼断面ゲ535、空重量140、搭載80、全備220kg、翼面荷重16kg/㎡、

滑空比20、沈下速度0.08m/秒、着速46km/時。(航空時代3月号)

 

 2月17、8日、結氷1尺の諏訪湖上で、上諏訪グライダー研究会の氷上練習

が、プラ1、セコ1機を使って行われた。昨年もここで同じ催しがあり、それが

日本で初めての氷上グライダー練習だった。日本アルプスの雄大な姿を眺め、大

氷原は坦々鏡の如く、着陸のショックはほとんどなく、気流は絶好、滑空の気分

は壮快極まりなしとのことだ。

 

 3月3日から13日まで、11日間、文部省航空評議会主催の第2回気流調査滑

空会が甲府玉幡飛行場で行われ、總指揮は陸軍気象部長、新妻少将、飛行班長は

松下弁二(文部省滑空訓練指導官)以下参加全員35名、使用機は九五式3型飛行

機2機、光式6.1型複座ソアラー、光式ゲッピンゲン1型ソアラー3機。

 

 3月20日から4月20日まで、1ヵ月間、飛行協会は、東京深川飛行場の同協会

格納庫で、グライダー製作講習会を開いた。受講者は、各地方から集まった14名

の二級滑空士で、プライマリーの製作、修理、管理の技術を講習した。

 

 3月30日、飛行協会では、ドイツから購入したオリンピア・マイゼの初飛行を

東京洲崎の深川飛行場で、関係者を招いて行った。また福田軽飛行機KKで航空局

の試作命令で作った国産マイゼも、この日、ドイツ機とならんで比較飛行をし

た。さすがにグライダーの總本山ドイツが誇るオリンピア機だけに、美事な機体

で、関係者一同感嘆するのみであった。本機は計器一式つきで4,800円、送料が

700円、合計5,500円であった。

 

 航空局からオリンピア機の試作命令を受けたのは福田飛行機の外に、伊藤、日

本小型、美津濃、アカシヤ木工の5社であり、オリンピアの図面と現物が入って

きたことによりわが国のグライダー製作技術は飛躍的に進歩してきた。

 

 3月の終わり、東大航空研究所物理部に長く勤めていた山崎好雄氏は、体育官

補として文部省入りをし、グライダー関係の仕事をすることになった。先には飛

行機パイロットの大先輩であり、グライダー・パイロットでもある松下弁二氏を

はじめとして、数名の滑空士を迎えた文部省が、またグライダーの製作方面の先

輩である山崎氏を加えて、学校滑空訓練本部の陣容を強化しつつあることは大い

に注目に価する。

 

 またこのほど学校滑空訓練中央連盟というのができて、文部省内にその本部が

置かれた。

 

 4月26日、文部省では学校滑空訓練用として文部省型初級滑空機の型式を決

定し発表した。日本滑空機工業組合は、これまではプライマリーは550円と販売

価額を協定していたが、文部省標準型プライマリーが示されると、材料費が昂騰

している今日、前の協定価額では全然利潤をみることができないので、文部省と

組合間で交渉の末、文部省型プライマリーは580円に改定した。

 

~外国~

 

* ソ連の第15回全聯邦グライダー競技大会で6月11日に距離(速度)競技が行

われ次の成績をあげた。150km指定コースの速度競技、1位サフツォフ(2時間

32分)、90km指定コース速度競技1位プロホーロワ(女流滑空士)2時間4分。

これは朝川君の96km、2時間12分とほとんど変わりはない。

 

和15年5月~8月   

 

  5月1日から6月9日まで、40日間、飛行協会と青年航空団は、甲府飛行場

で、滑空訓練指導員養成講習会を開いた。松下弁二主任教官はじめ諸教官、30名

の講習生非常な張りきりかたで、毎日午前4時から早朝訓練をやり、飛行機曳航

訓練まで実施するほど好成績をあげた。

 

  5月19日から6月4日まで、飛行協会は帆走飛行連盟、東日、大毎と共催

で、紀元2600年の奉祝事業の一つとして、過般ドイツから購入した  オリンピ

ア・セイルプレーン による日本一周曳航飛行を行った。清水六

之助滑空士操縦のオリンピア機を、大黒喜一飛行士操縦、加藤幾太郎機関士同乗

の九五式3型練習機で曳航し、コースは東京羽田、小名浜、米沢、仙台、盛岡、

青森、弘前、能代、酒田、新潟、小千谷、高田、福光、金沢、敦賀、京都、鳥

取、米子、広島、松山、高松、姫路、大阪、名古屋、浜松、三保、羽田、全コー

ス約2,900km、各着陸地で清水滑空士は曲技滑空と講演をし、全国各地の人々に

グライダーに対する認識を広め、興味を起こさせた。

 

  5月中旬、福田軽飛行機KKは、  文部省式プライマリー1型

を真先に製作した。本機のデータは次の通りである。翼幅10.3m、機長5.65m、

主翼面積13.8㎡、翼型ゲッチンゲン532、縦横比7.8、空重量90、搭載量60、全備

150kg、沈下速度1.1m/秒、滑空比11.6、座席の前方に支柱のあるグルナウのプラ

イマリーに似た型式のものである。 

 

 文部省標準型プライマリーを学校で購入する時知っておくべき要領は(1)これ

を作っているメーカーは滑空機工業組合員の5社だけである。(2)本機の価額は

1機580円と公定してある。(3)機体の検査関係の仕事、堪航証明書申請手続、

協会の補助金申請など、メーカーに頼めば無料でやってくれる。(4)飛行協会の

機体製作費補助金は、プライマリー機では1機につき200乃至300円。(5)ゴム索

(公定価額1本139円)を購入するには、文部省体育課内滑空訓練係に、ゴム索

配給許可申請書を出すと、文部省は航空局に手続し、航空局から、どの店で現品

を買うようにとの通知を購入者に出すことになっている。

 

  5月の半ば、飛行協会は紀元2600年奉祝記念事業の一つに、関東地方に大滑

空場を設置する計画をたて、土地を探していたが、いよいよ茨城県石岡町外の櫟

林に決定し、約30万坪の土地の買収も終わり、伐木に着手した。協会がここを選

定した理由は大体左の4つと考えられる。(1)東京より余り遠くない、即ち、常

盤線、石岡駅より、6km、または同線羽鳥駅より2km、何れも上野から約1時間

半の行程。(2)周囲に小山があって訓練に便。(3)地価が安い、石岡町長の尽力

で約15万円の安値で土地を買入れた。(4)同地方の民心が大変淳朴である。協会

はここに中央滑空訓練所を設置するつもりで、必要な校舎、グライダー格納庫、

工場などを本年中に建てる予定である。 

 

 (航空時代、5月号、グライダー軍曹の戦地土産、  前田式105型 プライマリー

成る、構造簡易な驚異的試作品)

 

 (帝国飛行協会が炭焼直営)協会が石岡町の付近に30万坪を買収した時、櫟の

立木は売主の方で伐採し、根は協会の所有になるという契約であった。協会では

滑空場を作るために抜根機で根を抜き、これを木炭にして売り、整地費の一部に

当てることにした。この計画が洩れると、この仕事を請負わしてくれと運動にく

る者が大勢押し寄せてきて、煩にたえないので、いっそのこと炭焼きを直営にし

ようということになり、その作業を満蒙開拓の青年を訓練している内原訓練所の

訓練生に委託することにした。30万坪全部櫟林なので、根ッこを全部木炭にする

と凡そ3万俵になる計算で、しかも大へん良質の木炭だということである。  

 

 なお、内原訓練所では、グライダー訓練の有益なことを認め、石岡の中央滑空

訓練所ができたら、内原の訓練生も滑空訓練に加えてもらうことに決まった。

 

  6月1日、大阪府立泉尾高女では全生徒1,000名中、750名で航空婦人会処女

団を結成し大阪府に  文部省型プライマリー 1機を献納、その命名式(白百合号)

を行った。

 

 6月9日、大日本飛行少年団では千葉県松戸飛行場で、滑空日本満10周年公開

滑空訓練大会を開いた。参加校は帝国商業、足立学園、逗子開成中学、木更津中

学、神奈川商工実習校、佐原中学、東葛飾中学、茨城工業、飛行少年団の9つ、

綜合得点は飛行少年団280点(番外)、開成277点、帝商275点、木更津269

点、・・大変盛会であった。

 

 6月19日、東京で開かれた全国工業学校長会議に出席した250名の先生を立川

飛行場に案内し、陸軍航空技術学校を参観させた後、文部省主催で各種グライ

ダーの飛行を見せ大いにグライダー知識を注入した。

 

 6月22日、東京で開かれた全国体育主事会議の会期3日間のうちの1日をさ

き、出席者一同、折から滑空訓練講習会が開かれている甲府飛行場に赴き、一同

プライマリー訓練を体験した。

 

 6月30日、千葉県学校滑空訓練連盟の結成式が千葉市であげられた。会長は県

知事、副会長は学務部長が就任した。これは今春文部省内に設けられた学校滑空

訓練中央連盟に加盟するもので、千葉県下48の中等学校をメンバーとしている。

この他に地方連盟の結成を準備している県は30ほどあるが、連盟結成のトップを

切った栄誉は千葉県が担うことになる。

 

 7月15日から8月23日まで、40日間、文部省は東京府下拝島で中等学校教員に

二級滑空士の技倆を授ける目的で、40名の講習生を合宿訓練した。教官は松下弁

二指導官、小田勇、利根川勲、小島康夫、原田覚一郎の5名、成績優秀な者には

ソアラーもやらせる。

 

 7月15日から40日間、文部省、飛行協会主催のグライダー製作講習会が、大阪

市立都島工業学校で開かれ、中等学校の先生約60名が参加し、会期中にプライマリー

  文部省型 を10機完成し、閉会式には、そのうちの5機で編隊グ

ライディングを行った。文部省、飛行協会のグライダー製作講習会は、これで3

回やったことになるが、関西ではこれが初めてであり、しかも従来のに比し、こ

の会は期間も長く、また大規模なものであった。講師は文部省の山崎好雄氏、福

田軽飛行機の葉啓聰氏の2人であった。

 

   7 7月19日 わが国唯一人の 女流一級滑空士、福田軽飛行機の岡本徳子嬢は、

大阪飛行場で新セカンダ リー機を試験飛行中、西南の強風に流され、日本航空の

格納庫の屋根に衝  突し両翼を折り、7米の高さから地上に顛落して、背骨を屈曲し、

全 治 4週間の負傷をした。

 

 7月26、7、8日の3日間、飛行協会と朝日新聞社共催の第3回全日本学グラ

イダー競技大会が霧ヶ峯で行われた。本年は高専および大学生でセカンダリー以

上の技倆をもつ者の中から約120名を選び出し参加させるようにした。これの前

に7月12日から24日まで学生航空連盟のグライダー合宿訓練が、やはり霧ヶ峯で

行われた。大会第3日目には東久邇大将宮殿下がお出でになった。成績はセカン

ダリー優勝者、外山總雄(法大)、坂本隆茂(神戸商大)、ソアラー、ウインチ

発航、1位、荒井浩(法大)、2位、松本良三(立大)、ソアラー、飛行機曳

航、1位、篠原次郎(明大)、2位、牧野伊兵衛(同志大)。(航空時代9月

号、「第3回全日本学生グライダー競技大会を観る」長谷川直美。)

 

 九大の佐藤博、助教授は7月31日付で教授に昇任した。

 

(航空時代8月号、特集、日本滑空界の10年誌)

 

 8月10日から15日まで6日間、飛行協会、帆走飛行連盟、大毎、東日共同主催

の第四回全日本帆走飛行競技大会は紀元2600年奉祝記念の行事として冨士宝永山

(2600m)をスタート点としオリンピア機によって日本最初の距離競技を行うこ

ととし、8月10日に山麓御殿場西部板妻飛行場で開会式を行い、それから参加機

を皆で宝永山に運び、選手や関系者一同は5合5勺の石室で待機していて15日に

なって山上からスタートした。成績は気象条件に恵まれず予期しただけはなかっ

たが、1位、小田勇71キロ、特別、志鶴忠夫70、3位、吉川精一66.6(番外)、

2位、沢田兼160.4、3位、大久保正一、56、4位、清水六之助52.5キロ。

 

(航空時代9月号、「長距離帆走飛行競技大会詳報。宝永山飛行を顧みて」大河

原元)

 

 8月23日から9月1日まで10日間、満洲空務協会主催の第3回全満州滑空大会

が開かれ(新京西飛行場で)日本からも学生航連の武久昌次、飛行協会の小川健

爾、朝鮮航連の朝川龍三、各二等飛行士、一級滑空士の3選手が参加した。また

九大の佐藤博教授も指導のため参加し、大会の指導をし、講演をした。参加者機

体はソアラー15、セカンダリー15、プライマリー10機、曳航用飛行機6機、参加

全員150名、曳航機操縦者、ハルピン支部の別府景光一等飛行士、一級滑空士、

奉天支部の權田善吉一等飛行士、一級滑空士、撫順支部の久保田太一等飛行士で

あり、今までにない大がかりのものであった。大陸特有の好気象昇件に恵まれ、

次のような、すばらしい成績をあげた。曲技滑空、1位、武久、2位、朝川、3

位、小川、高度競技1位、小川(1,300m)、2位、武久(1,050m)、3位、朝

川(1,010m)。距離1位、朝川(指定コースの周回距離96km)、2位、武久

(55km)、3位、藤原金太郎(42.5km)、滞空1位(朝川)4時間42分)、2

位、小川(4時間28分)、3位、武久(3時間13分)

 

8月30日、距離競技に指名された選手は武久、藤原、朝川の3君、コースに関す

る指達は「飛行場より94度、吉林街道の大営城子上空2,000米で離脱、飛行場に

帰り、西南方向に孟家屯に向い、余裕あれば大屯に向う。大屯以南は絶対に飛行

しないこととし、飛行場に帰着すべし。」審判委員の佐藤九大教授から「しっか

りやり給え」と渡された携帯食量とキャラメルを受け取った3選手は、この指定

コースが乗り切れるだろうかと幾分不安そうな顔つきで晴れ渡った空を見上げ

た。0時11分藤原君( トンボ型 )、0時29分武久君(鳳型)、2時22分朝川君

(トンボ型)の順にスタートした。まず藤原機が3時過ぎ帰ってきた。高度は約

600m、これから寛城子方面に向ったが高度は400mに落ちた。1時間以上も

弱いテルミークの中で粘っていたが、高度は幾らも得られない、3時50分、つい

に機首を飛行場に向けた。このころ朝川機が姿をみせた。だが高度は500m

ほどしかない。もうだめかなと思っていると突如彼のトンボはエレベーターの

ように上昇しはじめ、みるみるうちに1,000mの高度を獲得した。

彼は悠々と次の目的地孟家屯に向い、40分後に飛行場に帰ってきた。しかし高度

は400mしかなく、着陸を決心したようにみえた。その時何となく弱々しそうに

飛んでいたトンボは急に生き返ったように急旋回に移った。彼はまたも忽ちのう

ちに1,000mまで上昇し、再び南方に針路をとった。次の目的地の百家子までは

上昇風に恵まれたが、帰りはもうテルミークも弱ったようで、高度も減るばかり

で、彼は第2着陸地の南飛行場に向い、5時37分に着陸した。朝川機の翔破コー

スは、大営城子→新京西飛行場55km、西飛行場←→孟家屯駅間往復18km、西飛行場→

百家子12.7km、百家子→南飛行場10.5km、總飛行距離96.2km(東洋新記録)所要

時間2時間12分。本大会における滑空時間合計41時間4分、1時間以上の飛行10

回、2時間以上7回、3時間以上3回、という好成績をあげた。(航空時代11月

号、全満滑空大会詳報、大会の總指揮に当たった満洲空務協会、航空科長、弘中

正利)

 

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 日本女流滑空士は一級岡本徳子嬢1人だったが、今度、松平和子二級滑空士が

一級に昇格した。また二級には福島良子嬢がいたが、今度日向美智子嬢が二級に

なり、一級が2人、二級が2人、合計現在4名になった。

 

  8月27日、豊橋市外高師原で滑空訓練をしていた愛知県の西尾中学の先生眞

瀬悌三氏はセカンダリーで自動車曳航中、索が離脱しなかったため墜落死亡した。

 

   8月28日、東京深川飛行場で、航空日制定記念グライダー大会が行われた。

 

 

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 ソ連の第15回全聯邦グライダー競技大会で6月11日に距離(速度)競技が行

われ次の成績をあげた。150km指定コースの速度競技、1位サフツォフ(2時間

32分)、90km指定コース速度競技1位プロホーロワ(女流滑空士)2時間4分。

これは朝川君の96km、2時間12分とほとんど変わりはない。   7月21日、読売

新聞社の企画の日本グライダー倶楽部の発会式が二子玉川の読売飛行場で

開かれ、同日から会員80名の滑空実習が始まった。このクラブは「一般の国民を

してグライダーの研究及び練習を行わしめ、航空思想を普及発達させると共に

団体訓練並に空中観念の涵養を計る」のが目的で、A会員はプライマリー練習生

(4ヶ月を1期とし、約30回練習させる)、B会員は滑空士免状所有者で高級滑空

の練習をさせる。機体は伊藤C7、ソアラー、同B2、B6セカンダリー各1機、プライマ

リー4機。

 

昭和15年9月~12月  

 

 9月8、9日、東洋金属木工会社グライダー部主任、大久保正一、一級滑空士

は鳥取の浜坂砂丘で、自から設計製作した ハング・グライダーの初試験を行い

成功した。(航空時代10月号)

 

 また9月には萱場式無尾翼グライダー1型が完成した。これは前の 木村秀政

H.K式  とは大分変わっていた。(航空時代10月号、グラフ)

 

 9月20日、遞信省は民間航空団体の統合に関する声名を行い、統合措置要綱を

発表した。

 

 10月1日、右の要綱に基づき、日本学生航空連盟、日本帆走飛行連盟、大日本

青年航空団が発展的解消を行い、帝国飛行協会を母胎として設立された大日本飛

行協会の傘下に統合した。この協会の名誉会長は内閣總理大臣公爵近衛文麿氏、

会長は貴族院議員田辺治通氏、副会長は陸軍中将堀丈夫氏であった。

 

(民間航空団体の統合)

 

  昭和15年9月20日、遞信省発表、航空勢力拡充による高度国防国家完成に寄

与すべき民間航空団体強化の必要は、つとに感ぜられ、慎重審議これが統合の準

備を行いつつあったが、現下内外の情勢は民間航空における新体制を確立するの

要、特に切なるものあるにかんがみ、本日の閣議においてその大綱を定め既存航

空諸団体の発展的解消に伴い、帝国飛行協会を母胎とする単一有力なる実践団体

を結成せしめ、これを大日本飛行協会(仮称)とし国民航空確立への力強き推進

たらしめんことを期せり。

 

(民間航空団体統合措置要綱)

 

(1)、財団法人帝国飛行協会に、その他の既存航空団体を整理統合し、かつこれ

を改組拡充して大日本飛行協会(仮称)を設立するものとす、

 

(2)、大日本飛行協会は滑空機および飛行機の操縦および技術の訓練ならびにこ

れが指導、国民各層を対象とする航空知識の普及、その他航空の発達に必要な諸

事業を行うものとす、

 

(3)、政府は大日本飛行協会の事業運営に関し適当な補助金を支給し、その他所

要の援助を与うるものとす、

 

(4)、大日本飛行協会の経費は政府の補助金、会費、寄付金等をもってこれに充

つるものとす、

 

(5)、大日本飛行協会の指導監督に関しては関係官庁間において特に緊密なる連

絡を保持するものとす、

 

(6)、政府は将来大日本飛行協会の事業が整備拡充した場合において、さらにそ

の組織事業等に関し法制的根拠に基く支援を与えて、これを強化する如く措置す

るものとす、

 

(7)、政府は大日本飛行協会と同種の団体を容認せざる如く措置するものとす、

 

(8)、大日本飛行協会に統合せらるべき団体は航空知識の普及および飛行機また

は滑空機の操縦訓練を目的とする民間団体とす、

 

 (大日本飛行協会の事業ならびに業務)

 

(1)、飛行機操縦および整備訓練(主として軽飛行機)(1)操縦訓練は差当り

主として高等専門学校および大学の男子学生々徒を対象とす、(2)整備訓練は右

に順応して実施す、

 

(2)、既習操縦者の技倆保持、主として在郷操縦者に対し軽易に飛行機操縦の

機会を与え、軍部等における技倆保持に協力す、

 

(3)、滑空訓練

(1)高級滑空機および主として青年層を対象とする滑空機による訓練を実施し、

全国に滑空班を新設増加す、(2)滑空に関する研究とこれが普及ならびに指導員

養成のため中央滑空訓練所を新設し、もって臨時指導員の養成を行う、(3)文部

省学校滑空訓練およびこれが監督者養成を支援す、

 

(4)、航空思想普及のための催物の主催または援助、新聞雑誌、放送による宣

伝、普及飛行、模型飛行機および落下傘の普及

 

(5)、民間航空事情の調査研究、航空図書の刊行、

 

(6)、航空機試作の奨励、援助、表彰など航空の奨励上必要な諸事業、

 

 10月2日、( 駒鳥型プライマリー完成 )朝日新聞社が全国中

等学校に寄贈しようとするプライマリー機の原型を、福岡市の前田航研工業KKに

依頼して試作中だったが、この程完成したので10月2日、福岡市外の香椎滑空場

で公式テストを行ったところ、好成績を示し関係者一同を喜ばした。本機の設計

製作に大変尽力した航空局の駒林榮太郎航空官にちなんで「駒鳥型」と名をつけ

た。本機の模型風洞実験は航空試験所で行い、性能、構造の諸計算は九大の佐藤

博教授が行った。

 

 10月10日、大阪盾津飛行場で、 オリンピア型 3機の直列曳

航飛行テストが行われた。アカシヤ製オリンピア(大久保滑空士操縦)この後に

美津濃製オリンピア(吉川滑空士操縦)この後にドイツ製オリンピア(大黒滑空

士操縦)と縦に一列につなぎ、これを九五式3型練習機(井上善一飛行士操縦)

で曳航した。これはわが国で最初のグライダーの3機曳航であった。

 

 10月17日より同20日まで、大日本飛行協会の最初の催しとして、大阪盾津飛行

場で、紀元2600年奉祝滑空大会が開かれ、初級訓練は関西地区の中等学校11校に

より、中級訓練は大日本飛行少年団員により、高級訓練は小田勇、吉川精一、大

久保正一、大黒源四郎、大西栄太郎、武久昌次、沢田兼一、清水六之助の8滑空

士により実施された。あいにく気象条件が悪くて、よい成績が得られなかった

が、奈良県立郡山中学の先生で最近一級滑空士になった大西栄太郎氏が19日に、

弱いテルミークを巧みにつかんで1時間27分の滞空をして1等になった。大西氏

は小田、吉川、大久保その他の古強者を向うにまわして、この栄冠をかち得、中

等教員のために万丈の気を吐いた。高級機の競技は飛行機曳航で高度1,000mで

離脱したが、テルミークが弱くて、離脱高度以上に上昇した者は1人もなかった。

 

 10月、福田軽飛行機自慢の光帆走飛行隊は小田勇滑空士の指導により数名の

一、二級滑空士を出して活躍しているが、今度さらに100名の隊員を募集した。

航空時代11月号、隊員募集広告によると、

 

 本飛行隊はわが国最大の滑空機製作工場たる福田軽飛行機KKの従業員をもって

組織する団体で、隊員は将来グライダー及び軽飛行機の設計、製作、操縦に必要

な技能を修得させ、工場員の幹部候補生たらしめる。

 

 最初の3ヵ月間初級滑空訓練をし、後各自の成績により、中級、高級訓練に進

ませる。

 

 年齢 16歳より25歳まで

 

 学歴 小学校卒業以上

 

 定員 100名

 

 宿舎 隊内の合宿に収容する

 

 待遇 3ヵ月間の訓練期間中、月手当30円を給し、その後本俸を支給する

 

 申込 履歴書を持参または郵送のこと

 

 締切 昭和15年12月15日

 

指導員、小田勇一等飛行士、一級滑空士外一級滑空士2名、二級滑空士3名、

 

使用機、九五式3型1、三式陸練1、 光式3.1型  <page107.html>ソアラー3

機、 光式2.1型  <page72.html>セカンダリー5機、同1.3型プライマリー10機。

 

 

 11月2日、昭和13、14年度とも懸案のまま、色々な理由で実施に至らなかった

明治神宮奉納、国民体育大会の滑空訓練大会が代々木練兵場で開かれ、中等学校

15校、光帆走飛行隊、上諏訪滑空団、新潟滑空団と陸軍少年航空兵の特別参加で

19団体、約200名が初、中、高級の各訓練に力一杯の演技を繰り広げ、数万の観

衆に大きな感銘を与えた。

 

(航空時代12月号、「神宮大会滑空訓練特集」大河原元、松下弁二、生田千年

雄、各団体監督)

 

 (文部省における滑空訓練の沿革)

 

 昭和15年10月28日、太平洋戦争の進展にともない、学生生徒の航空訓練の強化

が必要になり、この日に滑空訓練教程草案が発行された。

 

 昭和19年5月には、学徒航空訓練強化についての通牒が体育局長から地方長官

あてに出され、学徒航空訓練実施要綱が示された。その目的は航空要員増強に

あった。

 

 この要綱の内容はまず次の如くである。

 訓練を実施する人員は、学生生徒の約15パーセントを目標として、中学校(国

民学校高等科を含む)に対しては、プライマリー訓練、(1、2年はプライマ

リーの分解組立、地上滑走、1m以下の滑空練習、訓練時間約50時間。3年はプ

ライマリーの分解組立、5m以下の滑空練習、訓練時間約90時間、4、5学年は

プライマリー分解組立、7m(可能な場合は斜面20m)以下の滑空練習。訓練時

間約90時間で三級滑空士の技倆に達することを目標にする。なお以上の時間数の

外に、つとめて30日程度の継続訓練をする。)

 

 大学、高専、師範、青年師範の学生、生徒に対しては、プライマリーならびに

セカンダリー訓練を課し、二級滑空士程度の技倆に達することをめざし、プライ

マリー訓練時間は中等学校の時間数に準じ、セカンダリー訓練は40日程度の継続

訓練により行う。なお高度の適性者に対しては高級滑空訓練(一級滑空士程度)

および飛行訓練(中間練習機の基本操縦術)を実施する。

 

 学徒のグライダー訓練は、19年8月15日付で出された学徒航空適性強化体錬の

通牒で一そう拍車がかけられた。

 

 滑空訓練教程

 

 (綱領)男子中等学校ニ於ケル滑空訓練ノ本旨ハ協同一致ノ精神ヲ体得シ心胆

ヲ錬リ体位ヲ向上シ併セテ航空思想ノ涵養ト理科的知識ノ実際化ヲ図ルニアリ

 

 (總則)

 

 生徒ハ須ラク規律ヲ重ジ喜ンデ命令ニ服従シ協同ヲ尚ビ進ンデ自ラ責任ヲ盡ス

ノ良習慣ヲ得ルト共ニ之ヲ移シテ日常ノ生活ニ及ボスベシ

 

 徒ラニ形式ニ流レテ事故ヲ起シ或ハ演技ノ末ニ走リテ競技化スルガ如キハ共ニ

訓練ノ本旨ニ悖ル

 

 滑空訓練ノ実施ニ当リテハ学校長ノ周密ナル統卒ノ下ニ指導者ハ率先躬行以テ

生徒ヲ教導シ生徒ハ衷心指導者ニ信倚シ関係教職員ハ各自夫々ノ立場ヨリ之ニ協

力シ全校ヲ通ジテ精神的結合ヲ緊密ニシ斯訓練ノ真価ヲ発揮スルニ力ムベシ

 

 滑空訓練ニ於テハ国防ノ要義特ニ航空ノ重要性ニ関シ理解セシムルト共ニ国防

上ニ於ケル滑空訓練ノ意義ヲ自覚セシムルヲ要ス

 

 10月、福岡のグライダー製作所、前田工作所は今度、前田航研工業と改称し、

大阪市東区伏見町2ノ18に出張所を設けた。

 

 10月1日、日本帆走飛行連盟の清水一級滑空士は、同連盟が発展的に解消し、

大日本飛行協会の傘下に加わったので、この日付で東京日々航空部を依願退社

し、大日本飛行協会の中央滑空訓練所(石岡に建設中)の教務員に任命された。

また極東帆走飛行連盟の利根川薫一級滑空士も同時に中央滑空訓練所の教務員と

なった。大日本飛行協会の訓練本部の滑空部長には青年航空団の理事であった摺

沢大佐が任命された。

 

10月初め、前田航研工業の最新作、 前田式703型 ソアラーができた。

カンチレバー、ガルウイングのスマートな機体で「今までのはまあどれも

ほとんど失敗でした。しかしその失敗は今度の703型で十分生きてきているつも

りです」と氏が語るほど、本機は自信に満ちたもののようである。翼幅15m、翼

面積14.3㎡、空重量152.6kg、搭載量77.4kg、全備230kg、翼面荷重16kg/㎡、滑

空比26.5(65km/時で)、沈下速度0.6m/秒、失速速度38km/時。(航空時代11月号)

 

 11月29日から12月9日まで、山陽帆走飛行クラブでは防府市外の大平山でソア

リングの練習をした。この間12月1日、同クラブの指導者、一級滑空士、平松時

善氏は旭航式峯風1型ソアラーで大平山(標高630m)からスタートし、12m/秒

の強風中を4時間14分の滞空をし、続いて12月8日、同クラブの堀川勲二級滑空

士が同じく峯風1型ソアラーに乗り、午前11時20分、12m/秒の北西風をついて離

陸し、烈しい寒さと戦いつつ午後7時40分まで8時間20分飛びつづけ、最高々度

2,000mまで上昇した。終りの1時間半は完全な夜間飛行で、地上の焚火を頼り

にして飛んだ。これは日本での夜間ソアリングの新記録であった。(航空時代、

昭和16年1月号、「處女地大平山の帆走飛行記」一級滑空士、平松時善、二級滑

空士、堀川勲、山陽帆走飛行クラブ代表者、山本登)山陽線の三田尻駅から東北

の方を見ると、一番高くて、穏やかな姿の山が大平山(標高631m)であり、こ

れは西へ向って半円形の屏風のように立っているから、東風でなければ、どの方

向の風でもソアリングができる。ソアリング・コースは小刻みに使えば約2km、

大きく使えば約4km、防府市から頂上まで約4kmの近い所にある。東海道線、山

陽線を通じて、一番鉄道に近くて、一番格好のよい山が大平山で、山陽帆走飛行

クラブを防府市に作った理由もここにある。12月8日、強い風の音に目をさま

し、急いで支度をして、重いパラシュートを背中に、大平山上へと急いだ。疲れ

てはいけないと途中幾度も休みながら上がったので、頂上に着いたのはもう9時

過ぎだった。前日立てておいた吹流しが千切れるばかりに吹いている。シャツを

4枚、ジャンパー、もも引、スキーズボン、靴下3枚に飛行靴、手袋2枚、痩せ

た身体も丸く太って坐席に押し込まれ、午前11時20分、平松時善(子爵)の号令と

同時に軽いショックを身体に感じたと思うと山頂を出発し、昇降計示度3から

4m/秒、そのまま揺られながら上昇を続けた。大平山から東北に連る峯に沿うて

飛ぶと大平山の西斜面をなめてくる風の影響か、ひどく気流が悪く㊉㊀5m/秒で

上下左右にガブられる。高度計は700mあたりを上下するばかりで、なかなか上

昇しない。そこでまた大平山に引返えそうとしたが、向い風が強くて一向に前進

しない。やっとのことで北西斜面にとりついて800mに上った。ここでしばらく

粘っていたが、やはり浮き沈みをくりかえすばかりで、一向らちがあかないの

で、北方にのびる新らしい斜面にとりついてみようと考えた。時計をみると正午

で、かまぼこを頬張りブドー酒を飲む。そして機首を北方に向けて80km/時で突

進した。バリオメーターは㊉2を示し、ついに1,500mまで上った。しばらく頑

張っていると2,000mになったので調子にのってあちらこちらうろついているう

ちに、今度は160mまで下がってしまった。出発からまだ3時間しかたつていな

い。あちらこちら上昇風を探して歩く。突然機がグラグラっと揺れて、昇降計は

思い出したようにプラス3m/秒を指した。遠い雲が段々下に見えてきた。機は一

点に整止して微動だもしない。高度は2,000mを上下している。やっと5時間を

過ぎた。まるで冷蔵庫に入れられたように寒い。大平山から北方5kmのあたりま

で行ってみたが高度は大して下がらない。そこで今度は西の方に4kmばかり出か

けてみたところ、高度は下がる一方、1,200mに下がったので、また元に戻って

1,900mに上がった。時計を見ると5時半で、西の空が真赤に焼け、街の灯がパ

ノラマの豆ランプのようであった。7時を過ぎると風は大分弱まったようだ。い

よいよ着陸を決心して着陸予定地に向かう。力いっぱい「降りるぞー」と声を張

り上げ、着陸場の中央あたりに2ヵ所に焚かれた焚火の中間めがけて進入した。

足腰がひどく痛み、頭痛がし、指先が軽い凍傷にかかっていた。

 

 12月17、8日、福田軽飛行機KKでは遞信省航空局の試作命令で HT3型 

>中型旅客機の60パーセント実物模型グライダーを作りその試験飛行を、

この両日大阪第2飛行場で小田勇滑空士の操縦で行った。この種の実験用

グライダーを作ったのは日本ではこれが初めてである。HT3型は航空局が日立

航空機に試作させている双発中型旅客機(乗員2名、乗客8名)である。航空局

の実物模型滑空機の試作目的は「飛行機模型の風洞実験は、飛行機のグライダー

としての性能を測定するものなるが、これに対し寸法効果の的確なる影響につい

ては、今日なお相当に疑問の点あり。加うるに実物にありては、このほか更にプ

ロペラの影響を加入するため、その複雑性は二重三重となるも、これが的確なる

解析は航空機設計上の重要事項の一なり。よってグライダーとしての実物実験に

よりて寸法効果とプロペラの影響とを分離せしめて、相互の影響を解析せしむる

ことを目的とする本試作は、わが国では嚆矢のことなり」つまり実物模型グライ

ダーに人が乗って飛行することにより、風洞実験のデータを補正し、操縦性の研

究をするのが目的である。(航空時代16年1月号)

 

 12月22日から同28日まで1週間、中央乗員養成所では、飛行機操縦の基礎教育

に滑空訓練を入れるので、教官8名に正規の滑空訓練法を講習させるために、航

空局から佐田航空官、文部省から松下指導官、小島滑空士、山梨航空技術学校の

篠田滑空士、光帆走飛行隊の小田滑空士らが教師となり、乗員養成所教官の講習

会が開かれた。使用機は 光式6.1型  複座ソアラー、 オリンピア 、 光式3.1型 

(ゲッピンゲン1型)であった。

 

 青年航空団が解消して大日本飛協に合併されたので青航の機関誌「青年航空」

は「滑空日本」と改題して12月号から発刊された。1部20銭である。

 

 

 12月2日、東日航空部(日本帆連)にいた近藤完一級滑空士は、この日から千

葉県松戸の中央乗員養成所にグライダー係員として勤務している。

 

 12月初旬、冨士山飛行などで優秀な成績をあげた遞信省試作機の国産オリンピ

ア機は破損した伊藤飛行機製を除いて、他の4機は中央乗員養成所に召集される

ことになり、福田軽飛行機製、日本小型製、美津濃製、東洋金属木工製それぞれ

松戸に送られた。

 

 スパン12.15m、翼面積16.4㎡、自重250kg、搭載量100kg、全備350kg。

 

12月2日から同29日まで、大日本飛行協会では、州崎飛行場で職員の技倆保持の

ため飛行訓練や整備作業を行った。飛行機訓練に参加したのは、清水、利根川、

天野の一級滑空士と土屋、佐野、筒井の3氏で教官は沢田兼一、小川健爾の両一

等飛行士。滑空訓練を受けたのは発展的解消をした青年航空団からきた一、二級

滑空士11名、教官は清水、利根川、沢田の一級滑空士であった。

       

昭和16年1月~4月   

 

昭和16年(1941)

 

 1月1日、大毎、東日は大日本飛協と共催で次のような企画を社告で発表した。

 

(中級練習用滑空機設計募集規則)

 

1、設計募集の趣旨

 

 わが国の滑空界は最近とみに隆盛の傾向を示しているが、高度国防国家建設を

基本国策とするわが国現在の情勢に鑑み誠に慶賀にたえない。本設計募集計画の

主催者たる大日本飛行協会、東京日日・大阪毎日新聞社では最近における内外の

情勢に即応し、わが国滑空界のより以上の普及大衆化と、技術、精神の向上をめ

ざし、現在最も普及せる初級滑空機より直ちに訓練に入り得、かつこれによって

直接高級な滑翔機訓練に入り得る中級練習用滑空機を普及せしめ、もって従来初

級練習修了者の大部分が、そのまま訓練を中止せざるを得ない状態にある現状を

改善することを目的として本計画を実施することになったもので、広く満天下の

技術者より理想的な日本的中間練習用滑空機設計が寄せられんことを期待するも

のである。本募集計画において主催者が希望する理想的設計は、以下の「設計要

綱」に示すような条件により設計せらるべきである。特に強調したいことは、次

の3点である。

 

 (1)、初級練習終了者が直ちに訓練に入り得、かつこれ1機種のみの訓練で滑

翔機訓練に進み得るもの。

 

 (2)、初級練習終了者または初級機製作、組立経験者が製作し得、もって操縦

技術のみならず製作技術をも修得し得るもので、従って製作費も低廉ならしめ普

及を容易ならしめ得るものであること。

 

 (3)、従来の中間練習用滑空機は、その構造上運搬に不便で、特に汽車の運賃

100円以上を要し、また訓練のため高地への運搬に著しく不便を感じているのを

改善したものであること。

 

 2、募集要項

 

 (イ)、応募締切、昭和16年3月末日。

 

 (ロ)、入賞発表、昭和16年11月3日。

 

 (ハ)、賞金、1等(1設計)3,000円、佳作(2設計)各1,000円(何れも事

変公債)。

 

 (ニ)応募設計宛先、東京市麹町区有楽町、東京日日新聞社技術研究部。

 

 3、設計要領

 

 (イ)翼幅12m以下、翼縦横比9以下のこと。

 

 (ロ)乗員の標準重量は60kgとす。

 

 (ハ)最小沈下速0.85~0.95m/秒とす。

 

 (ニ)最大滑空比13~16の間なること。

 

 (ホ)中級練習者に対し適度の安定性、操舵性あるもので、各舵の利きが互に

均衡を保っていること。

 

 (ヘ)強度は「日本航空学会編、航空工学便覧762、3、4頁の第1種機に適

合すること。

 

 (ト)国産材料を使用し製作費低廉なこと。

 

 (チ)構造簡単で既製部品より製作修理を容易ならしめること。

 

 (リ)分解、組立容易なこと。

 

 (ヌ)運搬容易、運賃低廉なこと。

 

 4、設計図内容

 

  応募者は左の図面、計算書、仕様書を提出すべし(図面は審査の便宜上なる

べく詳細に記載すること)

 

 性能計算、安定計算、強度計算、

 

 三面図、主翼関係図、胴体関係図、

 

 尾翼関係図、降着装置図、操縦装置図、

 

 金具図、

 

 仕様書、      以上

 

昭和16年1月 主催  大日本飛行協会  

 

           東日、大毎新聞社

 

 (函館から東京へ中等学校の先生の滑空訓練)

 

 1月3日から、新誕生の函館滑空協会所属の同市付近の中等学校の先生24名

は、冬の北海道では滑空訓練は思うようにできないと松戸の滑空場まできて練習

し、引続き9日から15日まで東京洲崎飛行場で訓練をした。函館滑協の訓練部長

で、この一行の団長の函館中学の水上正広校長も索引きをやり、同中学の小野先

生は53歳のOBであった。一同規律正しく、張り切って文部省の指導官らを感心

させた。

 

(田中丸・九帝七型海岸上昇風で7時間20分)

 

 1月12日、九州帝大航空会の田中丸治広一級滑空士は 九帝七型ソアラーに

乗り、福岡市外奈多海岸の高さ15mの砂丘を朝10時25分出発し、高度20乃至

50mを保ち、海岸線に沿う3kmのコースを80余回往復し、7時間20分滞空し、

午後5時45分、海岸の砂浜に着陸した。海岸上昇風による日本滞空記録である。

(航空時代2月号、「玄海灘の海風と闘う7時間20分」九大教授佐藤博、一級

滑空士田中丸治広)

 

 12日夜明けと共に出発しようと、早朝から七型を整備したが、残念にもゴム索

を曳く人手が足らず、村の子供をよび集めて、ようやく10時25分に出発すること

ができた。風は約14mであったが、西風で斜面には少し斜めに吹きつけている。

出発点は水面から僅かに15mの高さしかないので、用心して出たところ、離陸と

同時に強い上昇風に乗って第1旋回を終わると50m位上昇した。やがて高度は次

第に増し、平均して150m位保てるようになったので、海岸線に沿うて段々と

コースをのばしていった。出発後2時間ほどたつと風は10m位になったが、風向

は少しづつ北により、斜面に正対して吹いてきたので高度を保つのもよほど楽に

なった風が強くなると海岸から100m位海上に出たほうが、気流がよく、上昇速

度も2m/秒を示すことが度々あった。午後3時ごろには、霰まじりの雲が強風を

ともなってきて、300m以上の高度になったのに驚いた。注意していると、この

時は海面の一部が濃くなって、水平線の彼方から近づいてくるのが判るので、風

に機首を向けるようにして待っていると、バリオメーターより一足先に押し上げ

られるように感じる。次の瞬間に針はプラス2mを示してグングン上昇してゆ

く。この強風のくる時にはきっと鳶が数羽機のすぐそばを悠々と飛び、中にはグ

ライダーを追越していくのもあった。彼らの後についていってみると間違いなく

高度がとれるので、今さらながら彼らの感のよいのに感心した。このようにして

鳶を道しるべにして助かったことがしばしばあった。日没が近づくにつれ、風も

夕陽と共に落ちるように感じられ、高度を保つのに骨が折れるようになった。こ

うなると悲しいことに高度差が小さいので、どうすることもできず、5時45分、

あっけなく砂浜に着陸した。7時間20分という記録そのものは、何も取りたてて

いうほどのものではないが、しかし僅か15米ほどの高さの何でもない海岸でも、

至極簡単に5時間や10時間の飛行ができるものだということを実証した点では、

決して無意味なものではなかったと思っている。昭和14年の阿蘇山の7時間飛行

の時は、時間のたつのが非常に長く感じたが、今度は高度が低いので砂文字通信

や声援が大変よく判り、ちっとも退屈も疲労も感じなかった。こんな愉快な飛行

は今までに初めて経験したので、海岸線に恵まれたわが国では、これから海岸滑

空を盛んにしたいものである。

 

 1月13日、光帆走飛行隊教官、小田勇、秋元正男両一級滑空士は、生駒山で季

節風を使って快翔を続けていたが、午後3時ごろ西風が北風に変わり、さらに風

が止んでしまったので、それまで2,000mも高度をとっていた小田機はついに生

駒山の西側に不時着の止むなきに至った。滞空8時間30分で、日本記録にはなら

ないので、近く再挙を図る予定である。

 

 1月中旬、日本小型飛行機KKで作っていたモーター・グライダー、 日本式蜂

 ができ上がり、近く飛行テストをうける筈である。これは、わが国最初の

モーター・グライダーで、要目は、スパン15m、翼面積15.5㎡、自重257kg、

乗員75kg、燃料9kg(12ℓ)、全備341kg、エンジンAVA4気筩、水平対向、

空冷2衝程、28馬力(このエンジンはプ・ド・シェルのものと同一)翼面荷重

20.8kg/㎡、馬力荷重11.4kg/馬力、破壊荷重係数8、(飛行機として)

水平速度134km/時、着陸速度62km/時、離陸滑走、無風時70m、

航続約1時間。上昇時間、1,000mまで14分、2,000mまで32分半、3,000m

まで59分、実用上昇限度3,000m(絶対4900m)(エンジンを止め、グライダー

として)最少沈下約1m/秒、滑空比20.3(73.2km/時で)ヤジローベエのような

一本脚の単車輪だから離陸滑走を始める時には、グライダーのように翼端を

持って走らないといけない。バタバタとオートバイのような音をたてて走り出した。

 

(朝日新社聞が中等学校にプライマリー200機を寄贈)全国男子中等学校生徒の

滑空訓練は近く正科になるはずであるが、まだグライダーを持たない学校が多い

ので、朝日新聞社では大日本飛行協会の賛助のもとに、1校1機を目標にして、

プライマリー200機を順次各学校に寄贈する計画を立てた。詳細は逐次発表され

るはずである。

 

 (大阪信太山に大滑空場計画)

 

 大阪府では大国防訓練場の建設を計画し、府下信太山を中心に約5万坪の大滑

空場を造る計画を立てている。工費約50万円、工事は3期に分け、地均し工事な

どは学生生徒の勤労奉仕によるはず、今年の夏から着工の予定で、格納庫、宿舎

など3棟のほか、自動車訓練場も併置する予定である。

 

 (航空時代2月号)ドイツは英国侵入のため、軍隊輸送用のグライダーを製造

中と伝えられている。中正夫氏は「ドイツの驚異、軍隊輸送グライダーの技術的

研究」と題する論文を出している。

 

 1月26日、大阪美津濃グライダー製作所の常国隆滑空士は午前7時25分、生駒

山上滑空場を出発( 美津濃301型 で)12m/秒の西の季節風に乗って快翔を続け、

午後5時59分、薄暮の盾津飛行場に着陸し、滞空10時間33分30秒、高度3,600m

(非公認)の記録を作った。(航空時代、4月号、「高度記録3,600m、美津濃グライダー

研究会、城東職工学校滑空部冬期耐寒訓練参加記」二級滑空士、常国隆)

 

 7月25分山上より出発。30人の友が苦労してかつぎあげた301型に、自分1人

が乗って飛ぶのだ、友よありがとうと感謝しつつ飛びだす。初めは調子をみるた

め、頂上から1kmぐらい前にでて旋回した。速度を55km/時まで落とす。高度は

1,200から1,800mの間を上下した。約50分ほどおくれて金機が出発した。西の方

に盾津の上まで出たが高度は下らない。高度1,900mを保って布施の上にでた。

これから信貴山に向う途中、㊀2で落とされ、高度800で、やっと信貴山にとり

ついた。80km/時出して信貴山の前方に2kmほど出ると、ごくっと強くつきあげ

られた。テルミークだなと、直ちに旋回に入ると㊉2で上昇し、2,800mになっ

た。60km/時の速度の旋回をやめて、70km/時で前進しても、やはり㊉2である。

速度を55km/時に落として依然として㊉2の上昇を続けた。機はほとんど一点に

静止したまま高度3,000mになった。昇降計はゼロを示している。そのまましば

らくたつと雲が出てきた。70から80km/時の速度で雲に入ったり、よけたりして

いると高度は2,800mになった。前方から大きな白雲がくるとみる間に、逃げお

くれて入ってしまった。パチパチと霰が風防にはじきかえった。あたりは一面真

白だ。十分高度があるから下に逃げようと、150km/時で突込んだが、10分ほどた

つても抜けられない。昇降計は依然として㊉2であった。これでは上に逃げなく

てはいけなかったのだと、速度を60km/時に落とす。しばらくしたらコンパスが

ぐるぐる回りだした。全然方角がわからぬ。昇降計は㊀4、いよいよだめだ。高

度は1,800m、忽ち1,000m落とされたわけだ。高度は600mでやっと雲から抜け

出した所は、生駒の東側、宝山寺の上100m、これで着木かと思ったが、神に祈

念して、速度を55kmに落とし、昇降計ゼロでわずかずつ前進しているうちに、

やっと700mになった。今だとばかり70km/時出して生駒の前に出たら㊉2にな

り、ほっと一息ついた。12時10分だった。生駒―飯盛山―石切部落―布施―信貴山、

高度2,200m。堺まで行って引返えす。生駒山上は風速10m/秒。再び信貴山のほ

うに移動、高度2,800m。大和川の上空で昇降計は㊉3、シメた、これで積雲に

とりつけると、旋回を始めた。3,000mで雲の下に出た。相変らず㊉3だ。前の

雲より強力で上ってゆくのが身体にこたえる。いつのまにか雲の中に入り、しば

らく回っているうちに雲の上に出た。高度3,600m。それから2時間ちかく雲上

飛行であった。

 

 1月26日、常国氏より45分おくれて、午前8時10分、生駒山頂を飛び出した金

光漢二級滑空士(飛行少年団大阪本部教官、二等飛行士)は アカシヤ式巻雲1

型 で生駒、信貴、飯盛山の間を縫うて飛び続け、夜にいり7時50分、焚き火を

頼りに盾津飛行場に着陸した。滞空11時間40分、常国氏の日本記録は2時間の

後破られた。南波航空官証明。(航空時代3月号、「生駒山を中心とする耐寒滑翔

記録」大日本飛行少年団大阪本部、二級滑空士、二等飛行士、金光漢)

 

 25日の午後から5、6m/秒の西風が吹き始めた。気象台に聞くと、これから3

日間ぐらいは7、8m/秒の風が吹き続けるだろうとのことで、26日早朝から飛ば

すことに決めた。この朝6時半の山上での風速13m/秒、地上では7m/秒とのこと

だった。8時10分出発すると直ちに上昇風に乗り、生駒の斜面を4、5回往復す

るうちに2,000米の高度になった。気温は-10度、雲量6位、ほぼ雲と同じ高さ

なので、できるだけ雲に入らぬように逃げていたが、逃げきれずに雲中に入ると

5分間以上も出られず、方角を失って閉口した。やがて2,500mまで上がると、

雲は脚下を過ぎ、全く高度を失わずに40分間を雲上でソアリングした。出発後5

時間ほどたつたころ、急に寒くなりキャビンのセルロイドが息でくもり、薄い氷

が張ったようになるので、時々タオルで拭いた。足も冷いので、フート・バー

は、ほったらかしで、時々両足をすり合せて暖をとった。この時、旋回はエルロ

ン操作だけで十分だった。もっとも旋回といっても、風向に対して機首を30乃至

40度ふり向けるだけである。気流はよく好調であるが、寒いのでカロリー食を食

べ、航空酒を飲む。これで身体もホカホカと温り気持も楽になった。昇降計が故

障して弱ってしまった。高度計は徐々に下っている。1,000mでしばらく飛ん

だ。信貴、生駒、飯盛山を何十回も往復する単調な飛行であるが、高度が余り高

くないせいか、大した寒さではない。西斜面を照らす太陽熱上昇風か、風は大ぶ

ん落ちたようだが、ソアリングには差支えない。やがていよいよ夕凪になったの

か、機体は沈みかけたので、航空灯台のほうに行ってみると、熱上昇風があるよ

うで、高度800mで、この付近を往復した。狭い範囲で旋回の回数も多くなり

中々忙しい。すっかり夕闇につつまれ街は灯の海、空は一面の星であった。山の

峯付近を飛びさえすれば高度は保持できた。潜熱上昇風だろう。暗くなって2時

間もたつた頃、7時半ごろから次第に沈みかけた。高度は600mだった。いよい

よ盾津飛行場の焚き火めがけて山を離れた。飛行場にきて高度があるので左横滑

りをしながら、炊き火の近くに着陸したのが7時50分であった。

 

 2月7日、日本最初のモーター・グライダー、 日本小型飛行機KKの蜂型 

(同社技術宮原旭氏設計)の試験飛行が東京飛行場で行われ、好

成績をあげた。操縦は同社の吉原清治飛行士。

 

 2月7日、福岡の前田航空工業KKの河辺忠夫一級滑空士は、  前田式703型 

 かもめ号で、午前10時27分、久留米市外耳納山の発心山頂より発航し、夜間に

入っても悠々飛び続け、翌8日、午前0時8分、筑後川原、太郎原に着陸、13時間

41分8秒の輝かしい記録を作り、半月足らずの間に金滑空士の日本記録を更新

した。なおこの飛行は約7時間の夜間滑空をした点でも注目された。

 

(航空時代、4月号、「日本滞空時間記録13時間41分、夜間帆走7時間体験記」

九州航空会 前田建一、一級滑空士 河辺忠夫)

 

 10時26分55秒、何ともうまく出るには出たが、風は弱いらしく、昇降計はやっ

とプラス0.5を指している。出発点の上を2往復すると、山頂(標高670m)から

100mばかり上がれた。そろそろ羽根をのばして上昇風を探るべく、西方鷹取山

のほうに向う。吹きたまりの上ではプラス2mほどの所がある。鷹取の上では高

度1,000m、引返して高良山の上にくると1,200mになった。今日の天気では、こ

れ以上はだめのようだ。12時、時々断雲が流れてくる。気温は0度。少し気分が

悪くなって、とうとうあげてしまった。約2時間ばかり苦しんだ。すっかり胃の

中が空になると少し気分が回復しかけた。気分転換に宙返りを2回連続したら、

一ぺんに気分がよくなった。2時、3時、何の変化もなく快翔を続けた。山上の

一点で煙が上がっている。山火事のようだ、様子を見ようとスポイラを開き、

170km/時で突込む。昇降計はマイナス8の所で止まった。知らせようと出発点に

引返して、大声で叫ぶが、一向に意味が通じないようだ。また現場に引返すと、

10人ほど人がきて消していた。もう山火事に用はないので、スポイラを締め、速

度を落とすと、またプラス2で上昇した。少し風がでたのか、一ぺんに1,200m

まで上がった。4時、5時、だんだん気温が下がり、マイナス7度になった。足

先には真綿を沢山巻いていたので助かったが、かかとが冷えて感覚がなくなっ

た。5時半には陽が地平線に沈みかけ、真上には月が出た。6時過ぎると太陽は

すっかり沈み月が輝き出した。筑紫野は既に暗くなり、村や町の灯が瞬き始め

た。山脈に沿うて往復するのだが、出発点付近は高度が下がるので、東側の鷹取

山付近をソアリングする。月光でわずかに山の稜線が見えるだけだ。20分おき

に、出発点にかえり、翼端灯を点滅すと、吹流しの下でランプを振って応答し

た。8時過ぎには風が落ちて1,100mより上がろうとしない。筑後平野の村の

灯、久留米の街の灯がぼんやりとみえる。零下8度、からだの調子はよい。9時

すぎ、ふと有明海の方を見ると、地平線と平行に赤い火が、ずいぶん長く2ヵ所

に連っている。不知火だ。1時間位見ていたが、いつのまにか忘れてしまった。

11時過ぎると大ぶん冷えてきた。座席内のベビーライトが消えて、寒暖計が見え

ないが多分マイナス10度以下に下がっているだろう。耐寒酒を飲むと、からだが

すこし暖まった。高度はもう900mに下がった。11時半ごろには、山頂100m以上

には保てなくなった。もう幾らも滞空できそうにないが、吹きたまりで1時間ぐ

らいは頑張れるだろうと、200~300mの湾曲斜面で8字飛行を忙しく繰り返す。

こうしてとうとう12時になったが、もう山頂すれすれまで下がり、いよいよ着陸

を決心し、山上の焚火に向って大声で「着陸するぞ」と叫ぶと、了解したらしく

盛んにランプを振っている。出発点より東方に斜面をつたって高良山のま上にく

ると、筑後川、太郎原の着陸場の焚火が見えた。高度600mで斜面を離れた。高

度400mで着陸場に入った。筑後川は月明で白く映った。

 

  2月12日、萱場製作所が日本小型飛行機KKに注文して作らせていた鷲見譲次

氏設計の萱場式5型無尾翼グライダーは羽田空港でウインチ曳航で試験飛行をし

たが好成績であった。操縦は第1号機同様、萱場製作所の島滑空士だった。

 

 2月22日、大日本飛行少年団教官、金光漢滑空士は、その11時間40分の記録が

河辺滑空士の13時間41分によって破られたので、再挙を計画し、 アカシヤ巻雲

2型  <page112.html>ソアラーに夜間設備を完備し、この日の午前7時半、生駒

山上からスタートし、快翔を続けたが、風向が北に変わって飛行継続が困難にな

り、午後2時半ついに盾津飛行場東方の田の中に不時着し、翼、胴体を破損し再

挙は惜しくも挫折した。

 

 2月22日、美津濃の吉川精一滑空士は2月の初めから、日本帆走距離記録の樹

立をめざして六甲山上で待機し、まず六甲で高度をとり生駒にとりついて高度を

得、東進して宇治山田市外の明野飛行場に到着の計画を立てていたが、この日、

午後2時7分、六甲の裏側に向かって発航、高度2,000mを獲得、さらに高度を

増すように努力していたが、風向が北に変わったために、阪神パークに降りてし

まった。機体は美津濃製  オリンピア  <page106.html> であった。

 

 航空局、器材課長、松浦航空官は、福岡飛行場長時代からグライダー界の発展

に尽力されたが、今度、航空試験所第2課長に栄転した。また規格課長の甲斐航

空官は、文部省式プライマリーの設計に尽力した委員の一人だったが今回、旅順

工科大学教授に栄転した。後任は、このほど欧米視察から帰った駒林航空官が規

格課長と器材課長を兼務する。またわが国のグライダー界のために尽し、日本滑

空機工業組合の生みの親の南波航空官は、このほど台北飛行場長から4年ぶりで

内地に帰任し、大阪第2飛行場長に栄転した。

 

 中央乗員養成所では昨昭和15年末、教官たちに滑空訓練講習をしたが、目下さ

らに地方乗員養成所の教官、助教となるべき人たちに滑空訓練を実施しているの

だから、4月にこれらの人々が地方に赴任すれば、この方面の活動は一そう活発

になるものと思われる。

 

 (中等学校教員の滑空訓練講習会、各地で開催される)

 

○東京府体育連、飛協、参加40名、茨城県鹿島滑空場、3月21日から4月5日ま

で、利根川、上村秀二郎指導。

 

○大阪府、40名、豊里滑空場、3月27日より4月7日、原田覚他指導。

 

○京都府体連、飛協支部、40名、玉水滑空場、4月1日、同10日、沢田兼一指導。

 

○兵庫県学務部、飛協支部、40名、明石藤江滑空場、3月1→10日、槙田千三指導。

 

○静岡県、飛協支部、50名、箱根十国峠、3月23→4月2日、小川健爾指導。

 

○奈良、和歌山県学務部、飛協支部、36名、玉水滑空場、3月27→4月3日、大西

栄太郎。

 

○徳島県滑協、飛協支部、教員18、生徒18、徳島飛行場、3月27日→4月4日。

 

○茨城県、飛協支部、40名、石岡中央滑空訓練所、3月24日→4月2日。

 

○福岡県学務部、35名、諏訪弥太郎指導、名島埋立、第1回1月、第2回4月。

 

○学生航連、滑空部、150名、水戸飛行場、3月後半、古林少佐指導。

 

 

○東大滑翔研究会、20名、戸田橋滑空場、3月23→30日、沢田兼一指導。

 

 3月16日、今まで朝鮮の各グライダー団体の統率機関だった朝鮮航空連盟が発

展的解消し、朝鮮国防航空団として生れ、この日、京城の遞信事業会館で結団式

をあげた。本団は基本金50万円の財団法人とし、各道庁所在地に支部をおき、国

防国家体制確立に寄与することになる。本団の本年度最初の事業として、3月6

日から4月5日まで4週間にわたって、京城飛行場で、指導者養成のための講習

会を開いた。全鮮の一、二級滑空士免状所有者23名が参加し、朝川竜三滑空士ほ

か3名が指導に当たった。

 

   4月5日、石岡の大日本飛行協会の中央滑空訓練所が開所した。初代所長に

は同協会の訓練部長の摺沢大佐が任命された。普通科の修業期限は3ヵ月半、こ

の科は5日の開所と共に始まったが、引続き高等科、研究科が置かれることに

なっている。第1回の普通科訓練生は、地方支部の滑空訓練指導者養成のため

に、30歳前後の中等学校卒の適任者を地方支部で推薦した60名であった。面積30

余万坪の大滑空場の西方10kmの所には筑波山がそびえている。飛行場の東側には

格納庫、本部、宿舎、工場、食堂、三角屋根の大構堂が美しい庭園を囲んで建ち

並んでいる。

 

 4月23日から5月2日まで、福岡県では大日本飛行協会支部と共催で、福岡市

外名島埋立地で、中等教員グライダー訓練講習会を開いた。参加者は福岡県30

名、鹿児島県22名、使用機はプライマリー6機。佐藤九大教授、前田航研工業社

長を学科講師に、諏訪、田中丸両一級滑空士を教官とし、52名を2班に分けて訓

練を実施した。

       

昭和16年5月~8月   

 

 5月12日、日本滑空機工業組合では、飛行館で加盟の6社の代表が集まって総

会を開いた。最近はグライダー界が盛んになり、6社とも、注文が殺到して現在

の生産能力では消化しきれず、生産を増すのに新しい組織が要求されるように

なってきた。また新しい適正価額の検討も必要になっている。

 

 5月12日、松下弁二氏の文部省体育官任官を祝して、航空時代社の主催で祝賀

会が帝国ホテルで開かれた。わが国で最初のグライダー専任の体育官ができた。

当日の参列者は、主賓の松下氏、佐田、石原、鈴木、木村秀政、秋田良明、郡

捷、生田千年雄、利根川、清水の諸氏、それに主催者側から渡部航時社長。

 

 5月18日、大日本飛行協会では、大阪生駒山上の滑空場完成を記念して、大

毎、朝日協讚のもとに記念滑空訓練大会を催した。当日は大日本飛行協会総裁宮

の台臨のもとに、午前10時からグライダーについての説明放送があって、午後0

時40分から訓練開始、初、中級機の訓練、ソアラー5機が飛行機曳航で飛来、山

上で離脱、2機は山上に着陸、3機は曲技をした後盾津飛行場に帰った。参加団

体は大阪府立航空工業、大阪貿易学校他、飛協の清水、利根川、朝日の武久、福

田軽飛行機の小田、秋元、東洋金属の大久保、関西飛行訓練所の牧野、藤倉各滑

空士が妙技をふるった。生駒山上滑空場の広さは長さ400、幅120m。

 

 6月7日、大日本飛行協会の石岡、中央滑空訓練所の開所式が行われた。仝所

は昨昭和15年5月末、伐木、抜根、整地を始め、50万円の巨費をかけ、延べ1万

9,800人の汗で広袤30万坪を拓き、東洋一の滑空場を完成した。施設は、東京工

大、後藤一夫教授設計の三角屋根の阪谷講堂200坪、本部150坪、宿舎135坪、工

場96坪、倉庫96坪、食堂51坪、その他自動車庫、油庫、洗面所等(15棟、1,131

坪)である。11時半より阪谷講堂で式が行われ、その後、清水、利根川、沢田、

天野諸教官による、曳航飛行や曲技滑空が行われた。

 

 6月初め、美津濃グライダー製作所では津野藤吉郎技師設計の 水上グライ

ダー  <page73.html>が完成し、近く戸田橋(板橋)付近で試飛することになっ

た。同機は翼幅13.30m、全長6.60m、翼面積17㎡、自重145kg、搭載重量65kg

で、沈下速度0.9m/秒、滑空比15.1、滑空速度45km/時である。

 

 (中央滑空訓練所)グライダーはプライマリー9機( 文部省型 

<page55.html>6機、 日本式鳩型  <page58.html>3機)、セカンダリー8機( 

伊藤式B2型  <page70.html>2機、 日本式トビ型  <page74.html>2機、 光式

2.1型  <page72.html>4機)、ソアラー7機( オリンピア  <page106.html>2

機、 伊藤式C2型  <page98.html>1機、 青航式鷹7型  <page116.html>2

機、 日本式鷹型  <page111.html>1機、 光式6.2型  <page101.html>複坐1

機)合計24機である。曳航用飛行機は九五式3型陸上練習機4機。

 

 6月16日、タイ国青年にグライダー指導のため新日新聞社の三菱MC20(朝

雲)で新野百三郎団長、川崎、長友操縦士、武久滑空士、嶋崎、早川、土屋機関

士一行7名が羽田を出発、6月24日のタイ革命記念日に、 日本式ハト型 

<page58.html>プライマリー、同 トビ3型  <page74.html>セカンダリー、同鳳

型ソアラー、合計3機のグライダーとウインチドラム、曳航索などを同国に寄

贈、約2周間にわたりグライダー訓練を指導した。

 

 大阪の福田軽飛行機ではタイ国に滑空機22機を輸出することになった。その内

訳は 光式3.1型  <page107.html>ソアラー2機、 光式2.1型  <page72.html>セ

カンダリー8機、 光式1.3  <page56.html>プライマリー12機である。

 

 文部省では、全国中等学校生徒に対する滑空訓練を奨励、指導しているが、学

徒の集団道場をかねて、長野県八ヶ岳山麓野辺山高原二ッ山丸山を中心に、予算

22万円を投じ、50万坪の大滑空訓練場を建設することに決定し近く着工する。

 

 文部省では去る6月2日、同省内で開催された体育運動主事会議において、各

道府県より集まった50名の主事に対して、「滑空訓練は中等学校で大変盛んに

なってきたが、これは高度国防国家建設のために有益なことであり、文部省で

は、初級滑空機の型式を制定し、滑空訓練教程草案を作って、滑空指導者の養成

にのり出しているので、今後、この一層の普及発達に努めてもらいたいとの指示

を行った。

 

 文部省の中等学校教員夏期滑空講習会は7月20日から8月30日まで40日間、全

国4ヵ所で開催した。(関東地方)、茨城県石岡町中央滑空訓練所、(近畿地

方)、滋賀県八日市町、陸軍飛行場、(九州地方)、福岡市外元岡村飛行場、滑

空機製作講習会は前年と同様、大阪市立都島工業学校で催した。

 

 前田航研工業では、グライダーは戦闘機同様な組立工場のスペースを要し、し

かもその値段はプライマリーなど戦闘機の100分の1にも足りない。それゆえ、

グライダー工場では敷地、倉敷料その他を戦闘機の100分の1以下に低下させな

いと滑空機工業は成り立たないとの考えのもとに、小倉市の傷痍軍人職業補導所

の120名の所員にグライダーの製作講習を始めたが、続いて家庭工業として成立

させるよう計画を立てている。

 

 ( 光式2型単座モーター・ソアラー  <page142.html>完成)航空局の試作命

令で大阪の福田軽飛行機KKが作っていた光式研究機(2型)が完成し近く試飛行

を始める。同機はスコット空冷25馬力、スパン13m、全長6.95m、全備300kg、

飛行機としての巡航速度75km/時、最大117km/時、航続距離500km、上昇限度

3,100m、ソアラーとして沈下速度1m/秒である。

 

 (満州国のグライダー界)満州国では滑空訓練を中等学校生徒に準正課として

課することになったので、その元締である交通部航空司でも、草地乗員股長(註

-隊長)を中心に、30名の会員がグライダー部を設立した。

 

 また満州国大陸科学院でも、滑空部、模型部、航空部を設立した。

 

 (航空時代7月号)「前田式竹製折りたたみプライマリーの紹介」「空中列車

部隊」藤本有典、去る5月19日、ドイツ空軍の地中海のクレータ島(英ギリシャ

軍)をグライダー部隊を利用して奇襲占領した時の情報。

 

 (高松の滑空大会)大日本飛協香川県支部主催、大毎後援の滑空訓練大会が7

月6日午後1時から高松飛行場で開かれ、高松市内の全中等学校生徒、国民学校

児童、一般市民が参観し、大毎志鶴滑空士の曲技滑空があり盛会であった。

 

 (東京府下青少年滑航空普及大会)大日飛協東京支部・東京府体育課の主催で

7月16、7の両日、府下男子中等学校生徒、国民学校児童、公私立青年学校生徒

など、各校代表約1,600名を集め、滑航空普及大会を開催。初日は午前8時から

軍人会館で府下国民学校児童を集めて、講演と模型飛行機の見学実習、第2日は

所沢飛行部隊で午前9時から中等、青年学校の生徒が陸鷲の猛訓練を見学、石原

政雄少佐から飛行機につき、中央気象台の藤原咲平博士から航空気象について講

演を聞いた。

 

 (台湾の滑空指導者講習会)台湾グライダークラブは全島の学校教員20名を集

め、7月10日から8月25日まで45日にわたり、台北飛行場で、滑空訓練を実施し

た。使用機はプライマリー10機、セカンダリー4機。

 

 なお、6月末に台北州中等学校滑空連盟(台北工業ほか7校参加)ができ、台

湾国防義会の武中政治郎一級滑空士を教官に、毎土日曜、台北飛行場で熱心に練

習している。

 

 (霧ヶ峯の全日本滑空大会)新日新聞社、大日本飛協主催の第4回全日本滑空

大会が8月1日から3日間、霧ヶ峯で開かれ、関東、関西、東海から学生150名

が参加することになっていたが、時局に鑑みて、この大会は中止になった。

 

 (産業戦士にグライダー訓練)東京市荒川区の成工社金属品工場、飯塚製作

所、関東パイプ製作所などでは、滑空部隊を結成し、日曜日に荒川滑空場で平松

一級滑空士指導で訓練を始めている。大日本産業報国会では、このような組織を

広く全国100万の産業報国青年隊員に及ぼすべく、8月10日から9月1日まで茨

城県東茨城郡鯉淵村の満州鉱工青少年技術生訓練所で開かれる全国産報青年隊中

堅1,000名の集団練成会の期間を利用して、滑空訓練や模型飛行機製作などで空

の知識を涵養することになった。

 

 (中央滑空訓練所の第1期生巣立つ)大日本飛行協会が大きな抱負をもって茨

城県石岡町に設立した中央滑空訓練所の第1期生40名は3ヶ月の講習を終了して

7月18日巣立った。同訓練所は8月中、文部省の講習会に使い、9月からは第2

期生の訓練を始める。

 

 (とんび会7月例会)は7月19日午後6時から、田村町飛行館食堂で開かれ、

松下体育官は文部省の夏期講習会につき、志鶴滑空士から生駒の全日本帆走飛行

競技大会につき、清水滑空士から中央滑空訓練所につき、福島滑空士から鹿島の

極東帆走合宿訓練につき、読売の矢野滑空士から日本グライダー・クラブの活

動、鷲見工学士から無尾翼グライダーについてのそれぞれ有益な話があった。

 

 (文部省学校教員滑空訓練講習会)

 

 操縦科はセカンダリー訓練を実施し、概ね二級滑空士の実力を得させ、適任者

には高級訓練を実施し、一級滑空士の実力を得させる。製作科はプライマリー機

製作の技術を修得させる。操縦科は次の3ヶ所。茨城県石岡町、中央滑空訓練

所、7月20日より9月2日まで40日間、参加50名。滋賀県八日市町、陸軍飛行

場、参加41名。8月1日より9月9日まで。福岡市外、元岡村、大日本飛協、九

州飛行訓練所、8月10日より9月18日まで、参加45名。製作科は、大阪市立都島

工業学校、7月20日から8月26日まで40日間、参加72名。

 

 (朝鮮咸興滑空訓練場の開設)咸興道では咸興飛行場を滑空訓練場にすること

になり整備を進めているが、8月下旬から訓練を始める予定である。

 

 ( オリンピア機  <page106.html>の事故続出)オリンピア高性能機は飛行協

会がドイツから購入したのをはじめ、我国のグライダー・メーカー、福田、日本

小型、アカシヤ、伊藤、美津濃の各社、それに飛行協会の白石襄次氏らにより6

機が作られたが、伊藤機がイの一番にスポイラが飛び出した事故で破損したのを

手始めに、2番目に日本小型機が、それに続いて福田機が、次々とそれぞれの配

属先で壊れ、飛行協会の「虎の子」のドイツ製も曳航中の事故で破損した。しか

し幸にして何れも搭乗者は無事だった。このために8月の生駒大会に参加でき

る オリンピア・マイゼ  <page106.html>は3機に減ってしまった。

 

 (福田軽飛行機のテスト・パイロット)

 

 小田一級滑空士、一等飛行機操縦士は中央気象台入りをし、三保飛行場で気象

観測飛行に従事する。

 

 (航空時代8月号)ポーランドの滑研のステプニウスキ、「グライダー多機曳

航による航空輸送の研究」

 

 アメリカの第4回西部グライダー選手権大会が4月下旬カリフォルニア州の

アービンで31名の選手が参加して行われた。参加機は26機、總滑翔距離2,574マ

イル(4,118km)總飛行時間246時間51分、總飛行回数324回、

 

 (全日本帆走飛行大会は中止)大日本飛行協会、大毎東日主催の第5回日本帆

走飛行競技大会は8月8日から17日まで10日間、大阪陸軍飛行場と生駒山滑空場

で開くことになり参加者は満州国から2名の特別参加を合せて15名、滑空機はオ

リンピアその他12機で距離、高度の2種目について競技する。まず8日から3日

間練習飛行をし、10日に公開飛行、その後競技に移り、大阪陸軍飛行場を中心に

6日間にわたって行う即ち仝飛行場から第2飛行場への目的地飛行、阪神防空飛

行場までの往復飛行を3日間、それから距離競技を3日間行う予定であったが、

本大会も時局に鑑み中止のやむなきに至った。

 

 (大阪朝日新聞社の滑空機展覧会)6月14日から27日まで、大阪朝日会館でグ

ライダー展を開いた。レオナルド・ダ・ウィンチからの西洋滑空発達史、これに

ならんで表具師幸吉や二宮忠八氏らの日本滑空史、ソ連、伊、英、米、佛など各

国のグライダー界の現勢、グライダーの科学、写真や図板、模型、ジオラマ、実

物などを沢山陳列し、素人にもよく判るようによくできていた。

 

 (7月23日、霧ヶ峯グライダー研究会)一級滑空士、田中喜善氏は、この日午

後1時26分ゴム索発航し、斜面上昇風に乗って5時間40分ソアリングし、3年前

の武久昌次滑空士の2時間40分の霧ヶ峯記録を更新した。

 

 (8月5日、福田軽飛行機の 光式研究機2型  <page142.html>動力滑空機)

は大阪第2飛行場で小田勇滑空士により試飛行した。(航空時代9月号、「光式

研究機2型、動力滑空機完成。」)本機は逆かもめ型低翼、片持単葉機、2本

脚、さきに製作された日本式蜂型の中翼、単脚と好対照をみせ、蜂がいかにもソ

アラーらしいのに引きかえて、これは軽飛行機といってよいほどである。

 

 (東京市航空青少年隊)東京市青少年団では200万人の団員を擁しているが、

9月初旬に航空青少年隊を組織することになった。その第一歩として、指導者養

成のため、青年学校教員を主として各区から選抜された35名に8月19日から石

岡の中央滑空訓練所で10日間訓練する。青年隊は青年学校から30名よりなる班を

二つ、20名の分隊一つ、即ち2班1分隊(80名)を各区ごとに編成して滑空訓練

を行う。少年隊は1区国民学校3年生以上の児童をもって30名を1班とするもの

6班以上を編成し、模型航空機の工作をさせる。

 

 (大阪にも空の青少年隊)大阪青少年団でも、大阪航空青少年隊を組織し、9

月に結成式をあげる。市内15区の青年団員中から、500名を選んで4個小隊を編

成し、大淀、守口、関西の各滑空場で滑空練習を行う。少年隊は模型飛行機によ

り、青年隊に入隊する基礎教育を施すもので、その隊員は約1,000名の予定である。

 

 (青年学校にグライダー75機を配布)

 

 兵庫県青年学校職員滑空訓練講習会では国防協会神戸地方支部、大日本飛行協

会県支部の寄付による9万余円で、文部省型 <page55.html>プライマリー75機

の製作に着手し、神戸市の10機をはじめとして、各都市ごとに1機乃至3機を無

償で配布することにした。

 

 (北海道、帯広で長期滑空訓練講習会)が8月21日から開かれた。指導者は東

武平一級滑空士、栗原、深島二級滑空士、受講者は全道の中等学校教職員30名、

仙台より3名。

 

 (滑空機の新公定価額)資材の値上りに伴いグライダーの新値段を検討中で

あったが、8月22日に関係者が有楽町の工業会館に会合プライマリー800円、セ

カンダリー1,400円に決定した。30日商工省告示で発表された。

 

 (津野式水上グライダーの初飛行)が8月24日、戸田橋滑空場で、製作者津野

氏自ら操縦で行われ好成績を収めた。この水上グライダー 空研式2600年型 

<page73.html>、水陸両用グライダーの要目は、全備220kg、翼荷重12.9kg/㎡、

最良滑空比17.2、最小沈下速度0.87m/秒、滑空速度50km/時、着水速度43km/時。

(ゴム索曳航、10~15m高度、距離300~400米、4回、)

 

 (中央滑空訓練所の機構改革)8月下旬に次の4科を設け、それぞれ科長を任

命した。器材科(白石科長)、教務科(天野科長)、研究科(清水科長)、庶務

科(桜井科長)

 

 (厚木中学、渥美武六先生の「初歩滑空訓練教本」が8月末、東京学友社から

発行された。)著者は厚木中学の滑空部長で、よき指導者として知られ、文部省

の「滑空訓練教程草案」をよく頭に入れて実地訓練によって得た体験を活かして

いる点が目立っている。巻末に滑空部という章を設けて、学校の滑空部の運営に

ついて述べているのは親切な企てである。定価80銭、B6判、113頁。

 

 (中等学校の正課に滑空訓練)文部省では軍事教練の強化に伴い、9月初めに

中等学校の第3学年(年間30時間)、4年(同40時間)、5年(30時間)滑空訓

練を正課として実施することに決定。

       

昭和16年9月~12月  

 

 (9月1日より6日まで、 前田航研ク-1  <page143.html>のテスト)

 

 陸軍航空技研の注文で福岡の前田航研工業KKが設計製作していた8人乗り滑空

機「ク-1」の初飛行が太刀洗で実施され、好成績を示した。指揮官は航技研の

飛行課長甘粕三郎中佐、テストパイロットは古林忠一少佐、造修監督官は野田親

則中尉(現日本航空技術部長)で、会社側パイロットとして九大、滑研、田中丸

滑空士が最初の飛行をした。曳航機は九五式1型練習機で、同機操縦者は中西大

尉であった。本機は輸送用大型グライダーの曳航練習用に造られたもので、複座

以上の大型のグライダーは、これが日本で初めてのものである。スパン17m、翼

面積30㎡、空重量650kg、搭載量550kg、全備1.2トン、翼荷重40kg/㎡、滑空比

16、沈下1.65m/秒、最大曳航速度180km/時。

 

 本機は以来、前田、国際航空機その他の工場を合せて約100機生産納入した。

なお本機は日本最初の大型グライダーとして、大型輸送用グライダーの設計指針

となる多大の資料を提供したので、昭和18年末に、同機の設計、製作に当たった

前田航研社長、佐藤九大教授、田中丸一級滑空士に対し、陸軍大臣より陸軍技術

有功賞が授与された。

 

 (生駒山滑空記録に5,000円の賞金)9月20日の第2回航空日に、鶴見少将を

名誉理事長とする生駒山滑空訓練研究会が、生駒山滑空場で発会した。そしてこ

の第2回航空日から翌昭和17年の第3回航空日までの1年間に、滞空時間、高

度、距離の3種目にわたり生駒山で日本最高記録を作った者に、大日本飛行協会

賞と副賞5,000円(愛国公債)を授与するとの懸賞を発表した。

 

 (津野式水上グライダー <page73.html>の離水試験)が9月28日、戸田橋ボー

トコースで行われ、日本機動艇協会のモーターボートで曳航され約1km水上滑走

後離水し、3mの高度で滑空した。曳航速度は40km/時、索長150m、ボートの速

度が55km/時になれば完全な離水上昇がなされることが判った。

 

 ( 光式研究機2型  <page142.html>モーター・グライダーの上昇試験)が、

10月13日、大阪第2飛行場で、小田一級滑空士の操縦で行われた。本機の上昇能

力は計算では2,500米mとなっているが、本試験では3,150mまで昇れた。まだ昇

れるが、寒気がひどくなったので降りたのだという。地上風速4m、滑走75mで

離陸。午後2時41分。500mの時、(2時50分)1,000m(2時59分)、

1,500m(3時9分)、2,000m(3時20分)、2,500m(3時33分)、

3,000m(3時44分)、3,100m(3時46分)、3,150m(3時49分)

 

 (石岡でテルミーク上昇1,600m)10月19日、中央滑空訓練所で 伊藤式C2

型  <page98.html>に搭乗し滑翔練習中であった花島三郎滑空士は高度200mでテ

ルミークに入り、800mまで上昇し36分滞空した。次いで10月16日正午に同所の

清水六之助教官はオリンピア機で1時間7分のテルミーク飛行をしたが、この

時、15分間の雲中飛行で1,600mの高度に達した。

 

 (中央滑空訓練所で索の離脱確認装置)を考案した。この装置は従来、しばし

ば索をつけたまま旋回したために事故を起していたのを防ぐ目的で考案したも

の、構造が簡単で、価額も安い。近く各関係方面に図面と設明書を配布するはず

である。

 

(朝日新聞社主催の滑空機展)8月から東京を振り出しに日本全国都市を巡回し

た。9月19日から25日まで、福岡玉屋デパートで開かれた同展は、期待にそむか

ず「科学する空の教室」で、早朝からすばらしい人波が押し寄せた。会場の中央

には久留米明善中学出品の実物プライマリー、前田航研出品の竹製リブの実験で

は、1本のリブに中学生が3人ぶら下がってもびくともしない。一回りするとジ

オラマ、写真、ポスターによって構成された立体的解説で、グライダーの生い立

ち、滑空原理、列国の現勢、初歩操縦の要領まで、グライダーの綜合知識が、巧

みに会得させられる。最後に、九大の佐藤教授特別出品のドイツグライダー界の

参考品の数々に目を楽しませる。

 

 (11月1日、第12回明治神宮国民体育大会、滑空訓練部演錬)は午前9時から

石岡の大日本飛行協会中央滑空訓練所で開かれ、函館、千葉、神通、新倉の各中

学、東京府立航空工、都島工、第一神戸工、熊本県立、下関商工、青森県立商、

大阪貿易、松山商、および東京、大阪、福光航空青少年隊の15チームよりなるプ

ライマリー訓練、各地の飛行訓練所所属の高専、大学や一般滑空士よりなる中

級、高級機訓練を行った。総員328名は聖恩の旗を奉迎し、堀大会会長、摺沢大

会委員長を始め、陸軍航本、文部省、航空局の関係官指導のもとに、プライマ

リーは3組に編成され、セカンダリーは360度旋回、高級機は特殊飛行など、数

万の観衆の前に繰り広げられ、地元は空前の盛況であった。

 

 (11月の半ば 日本小型の「ちから」  <page149.html>完成)

 

 本機は海軍の特殊輸送用滑空機の乗員訓練、特に高速度曳航練習用として造ら

れたもので、空技廠で計画し、日本小型飛行機KKに試作を命じた。前後席、複坐

の無制限曲技機で、終極荷重係数14、スパン11.25m、全長8.8m、高さ1.8m、

翼面積18㎡、アスペクトレシオ7、自量326kg、搭載量190kg、全備516kg、翼荷

重29kg/㎡、滑空速度100km/時の時の滑空比18、沈下速度0.9m/秒、最大曳航速度

290km/時、九三中練で曳航、97艦攻では2機曳航できる。本機は日本で最初の

複座無制限曲技グライダーである。あるいは世界で初めての複座無制限曲技機か

も知れない。(世界の航空、第5号に写真)

 

 ( 海軍特殊輸送機「MXY5」  <page219.html>グライダー)

 

 8月に兵員11名、その他の小火器輸送用のグライダーの設計が空技廠の山本晴

之技師を中心にして始められた。本機は九六式陸攻または一式陸攻で2機曳航

し、離陸滑走800m以内という要求だった。途中から日本飛行機KKが仕事を引受

け、約10機試作した。主翼はヂュラルミン2桁構造、木金混合骨組で、羽布張

り、接着はビニール剤を用い、投下車輪とし、着陸は橇だけで行う。翼幅18m、

全長12.5m、高さ3.7m、翼面44㎡、自重1.4トン、搭載量1.1トン全備重量2.5ト

ン。本機は昭和19年になり、また数機製作した。

 

 (12月8日) 大本営陸海軍部発表、帝国陸海軍は今8日未明、西太平洋にお

いて米英軍と戦闘状態に入れり。

 

 大本営海軍部発表、帝国海軍は本8日未明、ハワイ方面の米国艦隊並に航空兵

力に対し、決死的大空襲を敢行せり。帝国海軍は本8日未明、シンガポールを爆

撃し、大なる戦果を収めたり。帝国海軍は本8日早朝、ダバオ、ウェーク、グワ

ムの敵軍事施設を爆撃せり。

 

 (12月12日) 初級機組立部分品一式の最高価額が550円と決まった。こ

の部分品は航空局指定のもので、昭和12年遞信省令第40号、滑空機規則で定めら

れた検査に合格したものである。

 

 (中等學校の滑空部の増加)昭和10年初めて男子中等学校に滑空部が設けられ

た時は6校にすぎなかったが、12年には15校、以来1年間に150から200校の割合

で増加し、本昭和16年末には602校に達した。

 

 (中央気象台附属気象技術官養成所報国団航空研究班)で年末に注文の練習機

も出来上り、練習方針も決定した。団長は和達主事、航空研究班長は台長藤原博

士、鍛練部長三宅教授、指導者小田勇一級滑空士、部員220名、練習場は松戸滑

空場、毎土、日曜練習、使用機鳩型プライマリー2機。

 

~外国~

 50人乗りの軍用グライダー

 

 ワシントンからの東日外電によると、プラーグの飛行機工場では、ドイツ陸軍

の注文で50人乗りの軍用グライダー1,000機建造中で、軍事専門家は、これは英

本土進入用のものとみている。ドイツはグライダー部隊を2個師団3万人、英本

土に上陸させる計画のようである。ドイツは以上の他に、20名乗りのグライ

ダー、破壊用具と8名の乗員を運ぶグライダー、それに大型の貨物運搬用グライ

ダーなどを作っているといわれる。

 

 (航空朝日、5月号、「滑空の聖地、九州グライダーを語る座談会記事」)

<http://www.vsha.jp/photo/kouasa-Gzadankai-2.pdf>   PDFファイルです。少

し時間がかかります。拡大して見てください。

 

 (米国エルマイアのグライダー大会)ニューヨーク州エルマイア・ハリスヒル

で7月前半に開かれた第12回全米大会では、参加30機、73選手、発航回数ハリス

ヒルから788回、飛行場から322回、總滑空距離5,149km、距離飛行1等デッカー

(ミニモア)360km、高度1等マックセイ4,385mだった。