昭和10~13年

 

                    目   次

 

昭和10年(1935)

 

 1月1日から5日間、霧ヶ峯グライダー研究会では、筑波鉄道、報知新聞社の

後援で、筑波山上でグライダーの公開飛行を行った。吉原、鵜飼の両氏が交々

霧ヶ峯六(日土)号と伊藤式四号で山頂から6回スタートし、最高13分15秒の滑

空をした。

 

1月19日、飛行館で開かれた航空学会の第4回講演会では(滑空機の加速度につ

いて)東大航空科講師、榊原茂樹氏。(滑空機の抗捻力主桁の捩り試験につい

て)航研技手、山崎好雄。(滑空機の練習について)日本光電管研究所、白石襄

治。の講演があった。

 

  2月11日、浦和の上村秀二郎氏らが主唱者となり日本滑空少年団ができ、川口

市船戸原で発会式が行われた。霧ヶ峯グライダー研究会が援助して、当日、プラ

イマリー練習や公開飛行をした。 

 

   2月24日、霧ヶ峯グライダー研究会は再び筑波鉄道と報知新聞社の後援で筑

波で公開飛行をし、吉原、鵜飼の両氏が4回飛んだが、順風に恵まれず、比較的

平凡に終わった。

 

   3月17日、霧ヶ峯グライダー研究会では上井草運動場に、平地練習場開きを

した。これからは毎日曜、祭日に東京地方の会員がここで練習できるようになる。

 

    4月1日、帝国飛行協会は、※「グライダー飛行証」を発行した。

  なおこの月には京都市立第一工業学校にグライダー部ができた。

   4月28日、霧ヶ峯グライダー研究会は3度目の筑波山気流調査滑空を行

い、鵜飼氏は新造のセカンダリー、筑波1号で24分、吉原氏はプライマリー、日

土二号で22分飛んだ。この日は高松宮殿下が林陸相のお伴で筑波山においでにな

り、グライダーの飛ぶのをご覧になった。

 

 一,二,三級グライダー飛行証規定

 

(三級グライダー飛行証)6ヶ月以内に30回以上の飛行を終了し、その内、滞空

時間22秒以上の飛行を3回以上行い、更に滞空時間30秒以上の滑空を1回行った者。

 

(二級グライダー飛行証)三級合格者が、20回以上の飛行を終了し、このうち45

秒以上の飛行を3回以上行い、更に滞空時間1分以上で、S字形旋回飛行を1回

行った者。

 

(一級グライダー飛行証)二級合格者で、20回以上の飛行を終了し、その内、5

分以上の飛行を10回以上行った後、8字形旋回飛行及び出発点着陸を各1回行

い、その後、出発点より高く5分以上の飛行を1回行った者。

 

  5月12日、大毎、東日新聞社の提唱による「日本帆走飛行連盟」が結成さ

れ、盾津飛行場で記念グライダー大会が開かれ、志鶴、清水、山本の諸氏が交々

軽快巧妙なグライディングを公開した。(会長は荒蒔義勝陸軍中将)この連盟の

結成当時の参加クラブは僅か9つにすぎなかったが、これから各地にグライ

ダー・クラブが生れて、この年末には28クラブが参加してきた。

 

(日本民間航空史話、日本帆走飛行連盟の創立とヒルトの来日、松下弁二 参照)

 

  5月19日、志鶴氏は九帝五型「阿蘇号」で生駒山上ケーブルカー駅横の狭い

空地から奈良県の方に向ってゴム索スタートし、大きく左に回って生駒を越し、

盾津飛行場に着陸した。これが生駒でグライダーを飛ばした最初であった。

なお志鶴氏は帆走連盟結成の直前に、大毎航空部嘱託となった。

 

   これに続いて同連盟の関東支部は、箱根十国峠の「盗人厩」で練習会を催

し、清水六之助教官がセカンダリー機で気流調査滑空をした。

 

 6月6日、日本帆走飛行連盟は、盾津陸軍飛行学場で、グライダーの自動車曳

航テストに成功した。志鶴氏搭乗の九大の*阿蘇号* <page91.html>の機首に直径

3mm、長さ200mのワイヤ・ロープを連結しこの他の端を自動車につけて、ちょう

ど凧をあげるようにグライダーを引上げるのである。阿蘇号は高度70~80米上っ

た所で曳索から離脱し自由滑空して着陸する。これがわが国で初めてのグライ

ダーの自動車曳航だった。

 

 6月18日、日本帆走飛行連盟ではグライダーの自動車曳航に引き続き、グライ

ダーを動力付の飛行機で曳航飛行する、いわゆる「空中列車」のテストに成功し

た。大毎航空部員、松下弁二飛行士搭乗の一三式陸上練習機(国粋義勇飛行隊第

23号機)の尾橇と、志鶴忠夫氏搭乗の阿蘇号の機首を、太さ3mm、長さ150mの

ワイヤロープで連結した空中列車は午後3時29分、盾津飛行場を離陸し、梅雨晴

れの青空を、250mの高度を保って一路大阪へ向かった。城東練兵場から天守主閣

の南を横切り、北浜、道頓堀の上空を過ぎて、再び盾津飛行場に帰り、上空で阿蘇号

は曳航索を離脱し、3時55分着陸した。飛行時間は26分だった。これはわが国、最初の

グライダーの飛行機曳航だった。

 

 6月20日、羽田飛行場で朝日新聞社、航空部長、河内一彦一等飛行士搭乗の

朝日式1号ソアラーを、小俣飛行士の乗った石川島R3型練習

機で曳航テストをした。曳航索はやはり150mであった。一時はソアラーが

125km/hもの速度を出し、高度もグングン上って、飛行機の上に重なるような姿

勢になったことがある。

 

学生航空連盟に滑空部が設けられたのは、このころのことである。

  朝日式1号ソアラーは、※東京ガス電気工業会社の村山、川口両技師の設計

で、朝日航空部員が協力して作ったものである。※(これは日立航空機会社の前

身)村山尭氏は現在、防衛大学、航空学科教授。

 

 6月下旬、かねて筑波山で待機中だった報知新聞社の吉原清治飛行士は、南々

西の強風に乗って風返し峠から飛びだし、1時間01分の好記録を作った。これは

関東で最初の1時間を超したソアリングであった。

 

 7月21日から8月9日まで、20日間にわたり、日本帆走飛行連盟関東支部は、

東京日々新聞社と共催で、上越上の原高原で、大きなグライダー講習会を開い

た。この参加者募集の広告をみると次のようなことが書いてある。

 

 参加資格は15才以上の壮健な男女子に限る。本講習を終了した技術優秀な方

は、帝国飛行協会の規定するグライダー飛行証の交付手続を主催者側で申請します。

 

(講師)帝国飛行協会總務理事、陸軍中将、四王天延孝。東京グライダー研究会

長、男爵、奈良原三次。日本帆走飛行連盟相談役、東京帝大講師、榊原茂樹。日

本帆走飛行連盟理事、東大航空研究所、山崎好雄。東京グライダー研究会理事、

伊藤音次郎。東大航空研究所、伊藤喜代平。

 

(指導員)一等飛行機操縦士、安岡駒好。同、黒沢健。同、武中政次郎。二等飛

行機操縦士、今井仁。一級グライダー飛行証所持者、清水緑。助手、肥田木文

雄、早川静雄。

 

(参加金)1円、(講習料)2円

 

1コースが10日間で、2期20日間に約100名の受講者があった。

 

 8月25日から9月10日まで、九大航空会は、佐藤博助教授指導のもとに、新た

に製作した「九帝七型」ソアラーの飛行実験を、阿蘇大観峯付

近の外輪山で行った。このあたりは内部盆地から約450mの高さの、十数kmにわ

たる南に開く円弧状の連丘になっているから、これに南がかった風が吹けば、絶

好のソアリングサイトになる。       

 

 九帝七型ソアラーは、佐藤博助教授指導のもとに、設計は鷲見譲次、高木基雄

君らにより、製作は造船科の実験工場で石川、田中丸両君の手で、川崎忠三郎、

松岡康光君らの督励のもとに行われた。着工は昨夏のことだったが1年の日子を

費やして、この年の8月初めに完成した。ソアリングの練習に適し、簡単な曲技も

できるように設計され、次の要目のものである。スパン13m、翼面積13.4㎡、

翼縦横比13対1、翼型ゲッチンゲン535、空重量120kg、乗員パラシュート80kg

として、全備重量200kg、翼面荷重15kg/㎡、滑空比19.5対1、この時の滑空速度

60km/時、沈下速度0.75m/秒、着陸速度45km/時。

 

 9月5日、大連島付近から北上した台風のため、8月25日来、連日雨と、この

地形には最も不利な北風に悩まされていたが、やがて台風は四国に上陸し、関西

地方を荒らして北に去り、この日になると、その尾にできた小さな不連続線のた

めに、風は北から東にそれから南へ回り始めた。そこで直ちに出発準備をして、

午後3時01分、大観峯の西約1kmの外輪山上、標高940mの地点から志鶴忠夫教

官操縦の九帝七型をスタートさせた。機は前面の断崖上に出ると、たちまち約

100m上昇し、なお次第に高度を増しつつ斜面に沿う1.5kmのコースを往復飛行を

続けた。出発点の風速は約5m/秒、かなり突風的だった。こうして出発点上、平

均160mの高度で、4分ほどの周期で46回の往復旋回を続け、約2時間飛行した

時、雲が低くなって外輪山の頂上を包み、機は時々雲の切目から姿を現わすだけ

だったが、高度は少しも低下していなかった。雲中で時々激しい雨に打たれなが

ら約1時間飛んでいたが、そのうちに風は次第に弱まりソアリングに不利にな

り、また夕暮も近づいたので、斜面を離れ、6時05分、山麓の山田村の水田(標

高492米)に着陸した。この時は小雨でほとんど無風状態であった。全飛行時間

は3時間04分、飛行中の最高上昇は出発点上250m、離陸地点間の高度差448m、

距離7km。

 

 9月8日、この3時間飛行の翌日、6日にはまた次の台風がラサ島の南に現れ

て北西に進み、7日に琉球を横切って支那海に入った。そのため8日には前回よ

りもっとよい南風が吹き出した。この日は、前の所より、やや東に寄った標高

845mの所から、志鶴氏搭乗の九帝七型は、午前11時28分スタートした。機は最

初の1分間に100m、次の4分間に200mの上昇をし、なおも次第に高度を増しつ

つ大観峯の西側の連丘に沿うて8字旋回を続けた。スタートしてから2時間50分

ほどの時、南から激しい驟雨がやってきたので、機は大観峯を50mたらずの高度

で越して、その東側の斜面の上に移動しここでまた強い上昇風を捕えて、たちま

ち大観峯の上300米の高度を得てソアリングを続けた。そのうち雨はついに大観

峯に及んできたので、機はこれをよけて、峯の南を迂回して出発点上に帰ってき

た。出発後3時間半ほどたつていて、高度は出発点上約400mであった。出発点

の上を約10分間旋回しているうちに、この日の最高々度、出発点上550mに達し

た。折から又々襲ってきた雹を交えた猛雨をさけて、南西にのびる斜面に移動

し、ここでしばらく高度を保ち、雨が通過したらまた元の位置に戻るつもりで

あったが、情況利あらず、段々と高度を失い、ついに帰れる望みがなくなったの

で、近くの外輪山の最低所の二重峠(標高683m)をわずか20mの高度を残して

越えて、外輪山の外側に出た。これが離陸後4時間のことだった。これからはほ

とんど無風状態で、西方に直線滑空を続け、午後3時40分、熊本県菊池郡北合志

村小原(標高120m)の稲田に着陸した。全飛行時間4時間12分、最大上昇は出

発点上550m、離着陸地点間の高度差725m、この距離18.5km、飛行範囲23km。

 

(日本航空学会誌、3巻10号、昭和11年2月、九大教授橋本賢輔、九大助教授佐

藤博、「阿蘇外輪山における帆走飛行実験」)

 

(航空時代、昭和10年11号、九大助教授、佐藤博、「九帝七型とその四時間飛

行」志鶴忠夫、「阿蘇帆走飛行の実験を語る」)

 

 この飛行実験の準備から後始末までは松岡康光、高田茂俊、橋本公平の諸君の

労を煩わし、福岡飛行場長、松浦四郎航空官は例年のように飛行試験に立会われ

指導激励を与えられた。本飛行実験は日本帆走飛行連盟の支援のもとに行われ、

また帝国飛行協会は飛行終了後、九大航空会に対し技術奨励金を交付した。  

(300円)

 

 10月2日、陸軍および日本帆走飛行連盟の招聘で、ドイツからグライダー界の

第一人者、ウォルフ・ヒルト氏が曳航飛行士カール・バウア氏、技師ハンス・

シュトルツ両氏を伴い、ゲッピンゲン1型練習用ソアラー、同3型高性能ソアラー、

曳航用のクレム軽飛行機を携え、この日の朝東京駅についた。10月7日、飛行館

で帝国飛行協会主催でヒルト氏の講演会が開かれ、同26日、所沢陸軍飛行場で

ヒルト氏の初公開飛行が催された。これを皮切りに所沢、上田の飛行場で陸軍の

航空将校に薀蓄を傾けてグライダーの高級滑翔技術を講習し、また12月6日から

同12日まで、大阪盾津飛行場で民間のグライダー人のため、日本帆走飛行連盟の

主催で講習会が開かれた。そのため彼は12月4日、ゲ式1型に乗り、バウアの

クレムに曳航されて羽田を出発し、途中名古屋に着陸、1泊し、翌5日に盾津に

着陸した。これは日本で初めての東京・大阪間の長距離グライダー曳航であった。

12月13日、ヒルト氏は日本のグライダー界に尽した功労により勲五等瑞宝章を

授与された。

 

(航空史話 358頁、「ヒルトの来日」松下弁二、参照)

 

 10月18日より同23日まで上田飛行場で、これから月末まで所沢で、11月に入り

20日間、再び上田飛行場で指導した。この間、霧ヶ峯、菅平、箱根十国峠の滑空

場を視察した。

 

 10月30日、大阪におけるヒルトの講習会に使うために九大から送り出され、25

日大阪に到着していた九帝七型を盾津飛行場で、同機初めての飛行機曳航テスト

を行った。曳航機は大毎松下弁二飛行士搭乗の国粋義勇飛行隊の一三式陸上

練習機、九帝七型は志鶴忠夫氏搭乗、曳航索は3mm、150mワイヤロープ。

 

 11月3日、松下氏(一三陸練)の曳航で、志鶴氏(九帝七型)は800mで離脱、

宙返り、上昇反転、急降下などの曲技を行い、日本製のグライダーによる最初の

高等飛行テストに成功した。

 

 11月19日、ヒルト氏は近藤兼利少佐と共に午後、名古屋駅着、小幡ヶ原の名古

屋飛行学校で名古屋グライダー研究会員のプライマリー練習を指導して、同夜は

名古屋市に1泊。20日正午大阪着、午後盾津飛行場に行って、格納庫の前に、す

き透る蝉の羽根のような翼を休めている九帝七型ソアラーを眺めて「これはすば

らしい、僕が曲技に使っているゲッピンゲン1型とそっくりだ、むしろこの方がよい

かも知れない」と愛嬌をふりまき、それから七型に志鶴氏が乗って、大毎の松下

飛行士操縦の一三陸練で曳航され、500mで離脱して宙返り、上昇反転、錐揉み

などの曲技をしてみせると

「彼はグライダーの天才だ、僕が上田で一寸曲技の要領を教えただけなのにもう

すっかり呑込んでしまった」と大満悦だった。眼前に連なる生駒山を眺めて、

「この連山の下に、こんなよい飛行場があるのだから、ソアリングには絶好の場

所だ。」同日夕方6時から、大毎講堂で同氏の講演会が開かれた。

 

 11月21日、日本空輸の旅客機で午後3時太刀洗飛行場着、福岡市柳橋ビル3階

の前田建一氏のグライダー工場を視察、同夜は九大松浦總長の招宴に臨み、二日

市に1泊、22日は11時熊本着、自動車で阿蘇大観峯に上り佐藤助教授や北田正三

氏より、この9月の始めの志鶴氏、九帝七型の4時間飛行の模様を聞き熊本に帰

り、午後4時、帯山練兵場で大阿蘇グライダー会員の練習を見て、5時過熊本駅

着、二日市に1泊、23日朝、太刀洗発の旅客機で大阪に帰った。

 

 12月6日から大阪で日本帆走飛行連盟主催のグライダー講習会が開かれるの

で、ヒルト氏はゲッピンゲン1型に乗り、バウア氏(クレム機)の曳航で4日に

羽田を出発し名古屋に途中着陸し1泊し、5日午前10時半、小幡ヶ原飛行場発、

午後0時5分盾津飛行場に到着した。グライダーでは全く処女空である東京・大

阪間420kmを空中列車で翔破し、わが国航空史上空前の壮挙を完成した。

 

 この朝ヒルト氏の空中列車を迎える盾津飛行場では、湧き上る感激のどよめき

に包まれ、午前10時26分ヒルト氏名古屋出発の報に、大毎松下機および、「和製

ヒルト」とうたわれた志鶴飛行士の愛機ニューポール24型の両機が直ちに飛び

立って、空中列車歓迎のために東の空に飛び去ってゆく。場内を埋める大観衆が

悉く東の方、生駒の連峯に区切られた灰色の空を見つめている、と午前11時52

分、山頂航空灯台北の山肩に乱舞する胡麻のような歓迎機につづいて、クレム

L-25型機に曳航されたゲッピンゲン1型の颯爽たる雄姿が見えた。「来たぞ、

バンザイ」地上にドッと上がる歓声のうちに、空中列車は、高度800m、生駒の

嶺を離れるやたちまち、索を離脱し、グライダーと飛行機とが別々に離れ、ヒルト

氏のゲッピンゲンだけが、大空を渡る鳳のように中天に浮かぶ。まるで夢のようだ。

大きく上空で旋回するうちに、グッと機首を下げてダイブするとみたとたん、

高く舞上がって鮮やかな宙返り、上昇反転、さては横転、逆転の妙技!低空30米

で大胆な宙返りをして、歓衆に冷汗を握らせたヒルト氏は、格納庫の屋根すれすれ

に旋回して、本社旗をちぎれよとばかり打ち振る観声の群の眼前にピタリと機を

着陸させた。(昭和10年12月6日の大阪毎日新聞)

 

 12月6日、午前11時半より大毎会議室で開講式、引つづきヒルト氏は蘊蓄を傾

けて滑空の理論と実技について講議を始めた。聴講者は、九大(志鶴、高田、土

橋)、日本空輸研(池田)、アジア航空学校(服部)、大阪飛行機研(馬道)、

日本軽飛行機(武中、島)、霧ヶ峯グライダー研(鵜飼、武久)、東京帆走飛行

(清水、利根川)、早大(信岡)、阪大(小原)、大毎(羽太、松下、岡)、九

大の佐藤博助教授が通訳に当たった。

 

 12月7日、午後6時半、東京神田の学士会館大集会室で、日本航空学会の第10

回講演会が開かれ、下記の講演があった。

 

1,阿蘇外輪山における帆走飛行実験(40分、16ミリ映画)

 

        正会員、九州帝大教授、工学士、橋本賢輔

 

   正会員、九州帝大助教授、工学士、佐藤博

 

2,帆走飛行について(1時間、16ミリ映画)

 

ホルンベルグ滑翔学校長、ドイツ工学士、ウォルフ・ヒルト

 

 12月8日、日本帆走飛行連盟、大毎主催で帆走王ヒルト氏名残の公開滑空飛行

大会が、大阪東郊の盾津飛行場で行われ、2万の観衆は氏の妙技に魅せられて、

驚嘆の眼をみはるばかりであった。午後1時、ヒルト氏は福知大毎航空部長に紹

介されてマイクの前に立ち、日独航空親善を説き、直ちに愛機*ゲッピンゲン1型

ソアラーに乗り込み、ウインチ曳航で離陸し、大凧のように軽々と舞上るとみる間に

高度70米で曳航ワイヤを離脱、突如機首を下げて逆落しに突込むかとみると、

大きく弧を描いて舞上り入神の宙返り1回、2回、格納庫前の観衆の頭上めがけて、

さっと突かかる物凄いスピードに観衆がアッと叫ばうとするとたんに、もうヒルト氏は

青空に舞上がって、機体を乙に斜めに構えて、あっぱれな着陸姿勢。スス‥と地上

2、3寸を約50m滑って招待席の前にぴったり着陸。

 

 さらに1時49分、再びゲッピンゲンを操縦し、飛行場の東北隅からバウア氏操縦の

クレム軽飛行機に曳航されてスタート。いよいよ氏ならではの至芸の曲技滑空が

始まった。長さ100m、太さ3mmの曳航ワイヤに結ばれた

このヒルト・バウア両コンビの空中列車は上空を大きく旋回、高度700mで離脱

したゲッピンゲンは、ひらひらと鮮やかな錐もみ、急ダイブ、連続宙返り3回、4回、

びゅんと上昇したまま機首を中天に向けてぴたりと空中に静止しながら、尾翼を

ぶるぶるとふるわす妙技に、観衆の熱狂は最高潮に達した。かくて2時10分に、

東京帆走飛行研究会の竹中政治郎飛行士のウインチ曳航滑翔を行い、最後に

日独航空親善の壮挙を地で行くヒルト氏と九大志鶴飛行士の競翔を、ヒルト氏の

発議で行うこととなった。2時23分、場の東北隅に並んだヒルト氏のゲッピンゲン、

志鶴氏の九帝七型は、それぞれバウア氏のクレム曳航機、本社松下氏の一三

陸練曳航機に曳かれて離陸、同じ高度をそろえて2列の空中列車が見事な陣列、

ヒルト氏の列車が右折、志鶴氏の列車が左折して別れて大きく旋回、引続き東の

空で会合した2つの空中列車がまたも列んで高度400mで、ともに曳航索を離脱

した。両機は申合せたかのように宙返る。ヒルト氏仕込みの志鶴氏も、なかなか

師匠に負けていない。互に秘術を尽して宙返り、横転、逆転、反転の高等飛行を

演じた後、まずヒルト氏、続いて志鶴氏が着陸、狂わんばかりの拍手と歓声の怒涛

がまき起った。

かくて午後2時40分、空前の盛況裡に、このわが航空史に永遠の輝きを残す公開

滑空大会を終わった。(昭和10年12月9日、大阪毎日新聞による)

 

 ゲッピンゲン1型、3型については、日本民間航空史話、戦前のわが国のグライダー、

佐藤博を参照のこと。

 

 ヒルト氏一行は、10月2日東京到着以来、2ヵ月以上の間、わが国のグライ

ダー界のために東奔西走尽力してくれ、12月16日神戸出帆の浅間丸で帰国した。

 

  この昭和10年は、以上のようにわがグライダー界にとっては一大躍進の年で

あったが、一方残念にも、一人の尊い犠牲者を出した。10月20日、名古屋市外小

幡ヶ原飛行場で、元島喜徳二等飛行士はプライマリーで、ゴム索発射で離陸の

際、ショックでフートバーから足を踏みはずして機をストールさせ、7m/秒の突

風に、約6mの所から地面に激突して死亡した。航空局では、この種の事故の防

止策として、今後はグライダーのフートバーには、絶対に踏みはずすことのない

ような完全な足かけをつけるように指令した。これはわがグライダー界の最初の

犠牲者であった。

 

 本昭和10年度内に、帝国飛行協会が出したグライダー製作費の補助は48機分、

合計1万3,050円、またグライダー飛行証は、一級1名、二級6名、三級52名

に達した。

 

~外国~

この昭和10年(1935)のドイツのレーン大会は幸運の強風テルミークの訪れで空

前の大成績を収めた。61機が513回の飛行をし、その滑空距離は合計3万5,000km

に達した。300km以上の飛行が16回、400km以上9回、そして4人が同時に504km

の世界記録を作った。この頃から目的地飛行が盛んになり、この夏には、若いグ

ライダー教官クラフトはホルンベルグの滑空学校からケルン市まで333km飛ん

で、目的飛行の世界記録を作った。

 

昭和11年(1936)

 

 1月27日、日本帆走飛行連盟では滞空時間レコード樹立をめざし、連盟委員、

志鶴忠夫氏は佐藤式九帝七型ソアラーに搭乗し、午前7時35分、松下大毎

飛行士操縦、小島機関士同乗の国粋義勇飛行隊機に曳航されて、盾津飛行場を

離陸、河内平野上空を旋回して、7時52分、生駒山上300m(出発点上約1,000m)

の上空で、曳航索を離脱し、生駒山嶺を中心に快翔を続け、正午過ぎには、同氏が

昨年の9月阿蘇山で作った日本記録、4時間12分を破り、極寒零下8度の、山上

400mの冬空を鳶のように飛翔、折から降りしきる吹雪にもめげず、地上約1,000m

を保ち、雄雄しくも日本新記録の樹立をめざして飛び続けた。かくて午後4時半ごろ

からは生駒山頂の航空灯台から遥かに南へ針路をとり、同5時8分信貴山上空に

達し1旋回後、機首を盾津飛行場のほうに向け、5時10分同飛行場の上空に現れ、

高度を300mに落し旋回の後、余裕綽々鮮やかに宙返りなど高度飛行を行って、

5時15分、無事着陸、実に9時間23分という輝かしい大記録を作った。

 

 志鶴氏が格納庫の前に見事に着陸すると、航空局大阪出張所長、玉宮航空官、

福知大毎航空部長その他の沢山の人々が絶讚の声を浴びせながら九帝七型機を取

り巻く。大空の酷寒に紫色にはれあがった顔の志鶴氏は目をしばたたきながら

「おお寒かった!」とこわばって笑えぬ顔をゆがめながら、福知航空部長に助け

られて操縦席から出て、直ちに皆から顔や手にマッサージを受け、格納庫横の休

憩所で暖をとりながら語った。「何よりも寒いのには閉口しました。寒風に顔を

さらして、風速15mぐらいの吹雪交りの猛風と闘うのですから、飛び出して1時

間もしないうちに顔は凍えて全く感覚がなくなるし、それに腰骨が痛くなるの

で、右手は操縦桿を握り、左手で座席を突張り、腰を浮かせたようにして飛んで

いました。たいてい高度は地上1,000mから2,000m、この間を飛んでいたので

す。向風の時は速度計は70km/時以上になっているのに、機は全然前進しないこ

とがありました。生駒と信貴山の間を、何べんも往復し、ケーブル電車が上下す

るのを何回か見ました。辛かったが、この好記録が得られたのは、何といっても

好気象条件に恵まれたからです。もっと頑張りたかったのですが、日没に近づい

たので降りたわけです。グライダーは風さえ続いてくれれば、何時間でも楽に飛

ぶことを今さらながら体験することができました。持っていったウイスキーも、

ちょっぴり飲んだだけで、氷砂糖も三つばかり口に入れただけです。ただ飛行機

と違ってグライダーは爆音もなく、目的地に急ぐのでもない全くの長時間飛行な

ので、退屈で淋しいものだから、しょっちゅう軍歌などを口ずさんでいました。」

 

(航空時代、昭和11年3月号、「吹雪の生駒上空でグライダーの大記録を作った

体験記」大毎航空部員、日本帆走連盟理事、志鶴忠夫。「志鶴君に協力して」大

毎航空部員、松下弁二。「志鶴君とグライダー」九大助教授、佐藤博。「志鶴君

と佐藤さん」渡部一英。)参照

 

  2月1日、志鶴氏は大毎航空部員になった。

 

 2月17日、わが国商業界のグライダーによる空中宣伝のトップを切るものとし

て、昨年来、福岡市の遞信省指定グライダー工場の前田工作所で製作中だった

玉屋デパートのグライダー玉屋号ができ上り、17日午後2時から太刀洗飛行場で、

久保田飛行士搭乗、国防普及会の内田飛行士操縦のアンリオ28型軽飛行機に

120mの曳航索で曳航され、良好な成績でテスト飛行を終わった。この空中列車は、

19日には、選挙粛正の宣伝ビラ数万枚を積み朝8時18分太刀洗を離陸し、高度

350mで福岡市の上空を旋回しつつ、粛選ビラの花吹雪を散らし、9時15分太刀洗

に帰還した。さらにこの日の午後は久留米、柳川、大牟田各市の上空から粛選ビラを

散いた。玉屋号はスパン12m、機長5.6m、翼面積16.5㎡、全備210kg。

 

 3月29日、大阪毎日、東京日日、両新聞社は、東京―大阪間無着陸、帆走飛行

に1万円の懸賞金を出すことを発表した。社告全文次の如し。

 

 東京・大阪間無着陸帆走飛行に懸賞

 

 昨年5月に本社提唱の日本帆走飛行連盟の結成をみてより満10ヶ月、その間、

西は生駒山、東は箱根山の気流調査飛行をはじめ日本最初の曳航飛行(空中列

車)の実験研究を試み、さらに昨年10月にはドイツの帆走王ヒルト氏一行を招聘

して学術技術の講習に妙技の公開飛行によってグライダーに対する認識を新たに

し、本年に入っては去る1月27日、本社員志鶴飛行士によって9時間23分に亘る

帆走飛行の滞空記録を作る等、本邦グライダー界に多少の貢献を捧げ得たと信ず

るものである。しかるにグライダーによる長距離飛行に関しては本邦にまだ1人

の経験をも見出すこと能わず、帆走界の恨事とされているに鑑み、本社はここに

長距離帆走飛行の実施を奨励し、優秀なる技術者および機体の出現を助成する目

的をもって、現在の世界記録500kmを目標とし、東京―大阪間(425km)の無着陸

帆走飛行に対し左の如き懸賞を附して、これが実現の1日も速やかならんことを

斯界のために期待する次第である。

 

 金1万円也 東京―大阪間最初の無着陸帆走飛行実施者に贈る

 

 期限 昭和14年3月末日迄(詳細の規定は追って発表する)

 

大阪毎日・東京日日新聞社

 

 この大懸賞の発表は、わが国のグライダー界に大きなセンセイションを起こし

たが、3ヵ年の期間内には残念ながら、飛行を試みた者はなかった。

 

 4月2日、日本帆走飛行連盟では、大阪盾津飛行場で、日本最初のグライダー

2機曳航飛行のテストに成功した。大毎大蔵飛行士操縦、小島機関士同乗の一三

式陸練の尾部に連結した100mのワイヤには松下飛行士操縦のゲッピンゲン1型、

80mのワイヤには志鶴飛行士操縦の九帝七型が連結され、11時52分出発、高度

300mで場の上空を旋回し、両グライダーは相前後して曳航索を離脱し、高等飛行

をくり返して着陸し、わが滑空界の画期的壮挙に成功した。

 

 4月23日、福岡市、前田製作所で作っていた久留米市、日本足袋会社のグライ

ダー「アサヒクツ号」が完成し、石橋社長兄弟、佐藤九大助教授ら立会のもとに、

太刀洗飛行場で自動車曳航で、久保田飛行士操縦のもとに数回にわたり、試験

飛行を行い、好成績を収めた。

 

 5月7日、日本帆走飛行連盟、大毎、東日新聞社では全航程4,000kmの日本一

周曳航飛行を実施し、この日、松下飛行士操縦、小島機関士同乗の一三式陸練が

志鶴飛行士操縦のゲッピンゲン1型を曳航して、大阪盾津飛行場を出発し、次の

コースをまず東回りをした。大阪―津―名古屋―豊橋―三保―三島―東京―尾島―東京―

霞ヶ浦―小名浜―仙台―盛岡―青森―能代―大郷―酒田―新潟―冨山―金沢―大阪 続いて

次のコースで西回りをして6月14日に大阪の城東練兵場に帰ってきた。大阪―広

島―福岡―熊本―都ノ城―佐伯―松山―善通寺―大阪。以上の各地に着陸し、グライ

ダーの曲技を公開して、全国にグライダーの認識を広めた。

 

 5月8日、神奈川県の厚木中学校でグライダー部が設置された。これは中学校

としては日本最初の滑空部であるが、中等学校としては第2番目のものである。

第1番目は京都第一工業学校グライダー部、昭和10年4月である。

 

 6月19日、朝鮮總督府遞信局航空課の飯塚、山内両氏などの発起で朝鮮最初の

グライダー団体「朝鮮グライダー・クラブ」が結成されこの日から京城飛行場で

初歩練習を始めた。

 

  8月26日から6日間、日本帆飛連、大毎東日共催の第1回グライダー講習会

が大阪盾津飛行場で開かれ、全国23グライダー団体から選ばれた45名が受講し

た。本講習会と同時に、同じ場所で所沢の陸軍飛行学校からも教官立山少佐以下

のグライダー班が約10日間にわたり訓練飛行を行った。ところが講習会第2日の

27日午後、国粋義勇飛行隊の小林飛行士操縦、東日の大多和飛行士同乗の一三式

陸練で浜松グライダー・クラブの谷口飛行士操縦のゲッピンゲン1型を曳航上昇中に、

グライダーが急に上昇して、飛行機の尾部を吊り上げたため、飛行機は垂直降下の

姿勢で田中に墜落、小林、大多和の両氏は犠牲になった。グライダーは飛行機が

垂直姿勢になった瞬間にロープが離脱し、無事飛行場に帰着した。この大きな

事故は講習生一同に大きなショックを与えたが、一同励まし合って、予定通り講習会を

続行した。ただ、この講習会の最後を飾るため30日にはわが国で最初の全日本帆走

飛行競技会を開く予定であったが、これは中止した。

 

 9月2日から3日間、朝日新聞社主催、遞信省、陸軍航空本部、帝国飛行協会

後援の全日本グライダー大会が長野県霧ヶ峯で開かれ、第1部(プライマ

リー)75名、第2部(セカンダリー)22名、第3部(ソアラー)5名、合計102

名の選手が参加した。プライマリーでは篠田氏、セカンダリーでは上西氏、ソア

ラーでは鵜飼氏、ソアラーのウインチ発航では大久保氏が1等になった。これは

わが国で最初のグライダー競技会であり、霧ヶ峯の頂上は全く観衆で埋まり、大

盛会であった。大会に引続き霧ヶ峯で飛行練習をしていた法政大の竹久氏は9月

6日、朝日式ソアラーでウインチ発航上昇中地上で索を切ったのに気づかず、

150mの索をつけたまま飛んでいて、これが電線にからみついて墜落、負傷した。

 

 9月27日、財団法人、満州飛行協会が、このひと月ほど前に設立され、この日

に新京飛行場で発会式が行われ、大阪朝日、大阪毎日から派遣された飛行機やグ

ライダーの祝賀飛行があった。大毎の志鶴氏はそれから10月にかけて満州各地で

グライダーの曳航飛行を行った。

 

 10月28日、東京洲崎飛行場で、東京高等工学校グライダー・クラブ員、猪原

氏はセカンダリーで旋回練習中、操舵を誤り地面に突込み、頭を強打して亡く

なった。

 

 昭和11年(1936)のベルリン・オリンピック大会には、オープンゲームとし

て、ベルリン・テンペルホフ飛行場で、ドイツ、イタリア、オーストリアその他

6ヵ国の選手が集って国際グライダー大会が開かれ、ベルリンからヨット競技会

場のキールまでの336km目的地飛行では、ハンガリのロッターが1等になった。

レーン大会では36時間記録を持っているシュミットが13時間半のレーン最高記録

と250kmの目的地距離記録を作り優勝した。

 

 この昭和11年中に新造され、帝国飛行協会の補助金を受けたグライダーは38

機、飛行証の交付を受けた者は、一級5名、二級42名、三級135名であった。

 

 11月14日から1週間、報知主催のグライダー記録飛行会が筑波山で行われ、

15名の参加者があったが、天気が思わしくなくて、滞空時間と高度では入賞者が

なく、距離では竹中氏の12.5kmが1等になった。

 

昭和12年

 

昭和12年(1937)

 

 2月14日から11日間、帝国飛行協会は甲府飛行場で第1回グライダー指導員講習会を開いた。教官は陸軍の近藤中佐、石原、山本両大尉、古林中尉で、この講習会は、系統立ったグライダー訓練を与える権威あるものであった。

 

 3月10日、頓所好勝氏(現航空局検査官)は、わが国で最初のハング・グライダーを作り長野県下高井郡延徳村で試験滑空をした。これに続いて4回ほど実験をしたうちで最好調のは時間7秒、高度10米、距離70米に達した。

 

 4月3、4、5の3日間、大阪府教護連盟では府下の中学校の先生にグライダー訓練を体験させ、その重要性を認識させようと、盾津飛行場で、日本帆走飛行連盟の松下、山本勲、志鶴氏らの指導でグライダー練習会を開いた。

 

  4月9日、帝国飛行協会では、昭和11年度の航空界の貢献者として、佐藤博九大助教授、毎日の志鶴忠夫飛行士、朝日の新野、長友、永田3氏に田中館副会長 から有功章が授与された。佐藤氏は多年グライダーの設計研究に没頭、その設計になるグライダーは年々日本記録を更新し、志鶴氏は佐藤氏設計のグライダーを 操縦して記録を作り、昨年頭には生駒山で9時間23分の劃期的記録を樹立した。新野、長友、永田の3氏は昨秋、わが国で最初の日・シャム(注-日本・タ イ)親善飛行をした功績による。

 

 4月11日、清水六之助氏は、箱根十国峠で伊藤式B2型セカンダリーに乗り、斜面上昇風を捕えて1時間32分滞空した。これはセカンダリーの滞空記録として、昭和16年末まで保持されていた。

 

  4月15日、九大佐藤博助教授は、文部省在外研究員として2ヵ年間ドイツに留学を命ぜられ、この日神戸出帆の郵船、箱根丸で出発した。グライダーの本場ド イツで、その研究を進め、ヒルト氏などに会ってグライダー大会や工場、研究所を視察し、さらに東京オリンピックグライダー競技に備えて各国の関係者を訪ね て連絡をとる予定である。

 

   4月25日、朝鮮で初めての全鮮グライダー大会が京城飛行場で開かれた。

 

   5月5日、井上幾太郎陸軍大将を団長に、堀丈夫陸軍中将を副団長とする大日本青年航空団の発団式が明治神宮で挙行され、「滑空訓練から軽飛行機へ」をモットーとして空の要員養成に邁進することになり、各地で滑空訓練会を催し、多数のグライダー・パイロットを養成した。

 

 5月23日から5日間、日本帆走飛行連盟と帝国飛行協会共催の第1回全日本帆走飛行競技大会が盾津飛行場で開かれ、19名の選手と8台のグライダーが参加した。ソアラーでは清水氏、セコでは大久保氏が1等になった。

 

  6月1日、滑空機規則が施行され、これで初めて政府発行の滑空士免状が交付されることになった。滑空機の乗員免状は一級・二級の2種、機体も甲・乙の2種 に分けられた。この昭和12年度のうちに免状を交付された者は一級滑空士30名、二級滑空士50名、堪航証明書が交付された機体は甲種18機、乙種102 機であった。

 

  6月20日、清水六之助氏は、生駒山上から伊藤C2型ソアラーで発航し、大阪市上空まで出かけて飛行中に、熱上昇気流を捕えて高度1,800mまで上昇し、滞空1時間43分の記録を作った。これはわが国で最初の本格的な熱上昇風飛行であった。

 

 8月10日から1ヵ月にわたり、大日本青年航空団の第1次訓練が霧ヶ峯で行われた。

 

 この年の第9回明治神宮体育大会からグライダー競技を正式競技種目に入れることになって、7月30日から7日間、霧ヶ峯でこの競技会を開く予定であったが、本昭和12年の夏に支那事変が勃発したために、これは中止になった。

 

  8月末から9月初旬にかけて、九州帝大航空会と九州航空会が共催で阿蘇大観峯で研究飛行会をした。指揮は橋本賢輔九大教授と前田建一氏、初めのうちは天候 が思わしくなくて不振であったが、9月5日になって好転しかけ、松本定飛行士が前田BS機で1時間あまり飛んでからは調子づき、翌6日には平松時善飛行士 が九帝七型機で3時間4分、また翌日7日には松本氏が5時間56分、平松氏もまた5時間2分を飛び、ゴム索発航による日本滞空記録を作った。

 

  10月3日、満州飛行協会主催の第1回全満グライダー競技大会が新京の南飛行場で開かれた。

 

   こ の年で注目すべきことは滑空機工業界が大きな躍進を示したことである。関東では千葉県津田沼の伊藤飛行機製作所がグライダーの製作に力を入れ、東京蒲田の 日本小型飛行機研究所も優秀なグライダーを製作し、関西ではアカシヤ木工株式会社、美津濃運動具店、福田前田軽飛行機製作所などが進出してきた。さらに航 空局は高性能グライダーの生産を促進するために、伊藤、日本小型、福田前田の3社に奨励金を交付して単座、複坐の高性能グライダーを数種試作させ、一方飛 行協会も、この昭和12年度内に約80機のグライダー製作補助金を出した。こうして本年度内にグライダー団体は約60、機体はプライマリー91、セカンダ リー11、ソアラー18、合計120機に達した。

 

 

昭和12年(1937)~外国~

 

ド イツでは青少年特技隊の一つとしてナチス飛行団ができ、現役の空軍少将クリスチャンゼンをその總司令に任命した。この大組織のもとに数万の青少年にグライ ダー訓練を主体とする基礎的な航空教育を施したため、ドイツのグライダー界は、驚くべき程度に強化拡充された。昭和12年の夏にはドイツ航空協会主催で、 初めての国際グライダー競技会がワッサークッペで開かれ、6ヵ国から選手40名、グライダー28機が参加した。1、2、3位ともドイツの選手が占めたが、 ポーランド選手もドイツ同様351km飛んだ者もあり、また英国選手も複坐で10時間近く滞空した。この大会の様子は、佐藤九大助教授が、同年8月23日 の大阪毎日新聞に「レーン高原の国際競技大会を見る」盛大なドイツのグライダー界と詳しく報道している。この国際大会につづいて18回レーン滑空大会が開 かれたが、この大会では目的地飛行に重点が移って、これには普通の距離飛行の2倍の点を与えた。200、300キロの目的地飛行が続々と行われ、大会中の 総飛行距離は4万6,000kmに達した。この昭和12年には、ソ連は652kmの距離記録を出して、それまでドイツが独占していた世界記録をうばった。 当時ソ連はグライダー学校15、グライダー2550機、滑空士7万5,000名をもっていた。

 

昭和13年(1938)

 年頭、極東帆飛クラブと「とんび会」共催日本帆飛連後援で、東京州崎飛行場で自動車ウインチ曳航法の練習会を開いた。相当な技倆保持者ばかり30名が参加し、練習回数は286回に達した。

 

1月23日台 南州国防義会航空団の発会式が台南飛行場で行われ、これに引続き1週間、グライダー講習会が開かれた。参加46名。日本帆走飛行連盟の清水、小田の両一級 滑空士がこの指導に行った。この講習会の終了後、30日台北で清水氏は前田式BS(アサヒクツ号)に搭乗、塚原飛行士操縦のアンリオ式軽飛行機の曳航で公 開飛行をした。

 

 2月に文部省は全国の地方長官にあててグライダー普及方針の通牒を出し、中等学校にこの普及を促進した。

 

 2月25日、萱場製作所の依頼で伊藤飛行機株式会社が製作していた日野熊蔵中佐が原設計をしたH・K式無尾翼グライダーが一応完成した。これはわが国で初めての無尾翼グライダーであった。スパン10m、最大翼弦2m、空重量85kg、沈下速度0.85m/秒。 

 

 2月27日、わが国最古参のグライダーマンで霧ヶ峯グライダーの草分けの一人の鵜飼輝彦氏が出征中に病にかかり大同の野戦病院で陣没した。わが国グライダー界のため惜むべき人物を失った。 

 

 3月に入ると、次回の東京オリンピックにグライダーが正競技種目に加えられるとのニュースが入り、滑空界は俄かに活気づいた。これはこの月、カイロで開かれたIOC会議で決められたことであった。

 

 3月16日、朝鮮航空連盟が結成され、まず在京城の各グライダー団体が加盟した。

 

 3月19日、満州飛行協会の弘中正利飛行士と阿部飛行士のコンビは、奉天―大連間(355km)の無着陸、往復曳航飛行に成功した。往路は3時間20分、帰路は3時間かかった。

 

 3月21日から10日間、盛岡市外観武ヶ原で盛岡グライダー研究会が日本帆飛連の後援でグライダー講習会を開き、帆連の大牧滑空士が指導に行った。
 

 3月25日から31日まで、箱根十国峠で静岡県の中等学校教員グライダー講習会が帝国飛行協会と日帆飛連の共催で開かれ、参加者60名、清水一級、近藤二級滑空士が指導。

 3月30日から5月15日まで46日間、台湾国防義会航空部は、志鶴、小田両一級滑空士を招いて、指導者の養成を目的とした本格的なグライダー講習会を、台北飛行場で開き、教員7名、官公吏17名が受講した。

 4月1日から1週間、箱根十国峠で帆飛連のグライダー講習会が開かれた。これは二級滑空士以上に本格的なソアリングを練習させるのが目的であった。(航空時代、昭和13年5月号に詳細報告)
 

   4月6、7の両日、飛行協会と関東各府県主催の関東地方選抜中等学校滑空競技大会が東京、戸田橋滑空場で行われ、参加11校、選手200余名で、1位は神 奈川県の厚木中学校であった。プライマリー競技だけであったが、中等学校だけの競技会は、これがわが国最初のものであった。志鶴氏の曲技滑空もあり、少年 パイロットたちを喜ばせた。

 

 4月18日、兵庫県下中等学校教員のグライダー講習会が明石滑空場で、2週間にわたり山本滑空士の指導で行われ、14名が受講。

 

 4月21日、新潟市のグライダー講習会に帝国飛行協会から指導に行っていた仲山滑空士は、会場の新潟商業の校庭でプライマリー機のテスト中に墜落し重傷を負い死亡した。原因は昇降舵の操縦索のつなぎ違いだと判った。

 

 5月16日から6月6日まで、飛行協会主催、帆飛連後援の第4回グライダー指導者講習会が開かれ、多数の一、二級滑空士ができた。

 

 5月21日から、スイスの首府ベルン市で国際滑空研究委員会(ISTUS)の第6回總会が開かれ、※日本代表として佐藤博九大助教授が出席、東京オリンピックにグライダー競技を加えることについての協議があり、次のような決定がなされた。

※佐藤助教授は「日本滑空界の現状」をドイツ語で講演。

 

  東京大会のグライダー競技は、東京の近くの飛行場において行う。グライダーの発航は飛行機曳航によって行う。競技種目は70から100kmの目的地距離競 技のみとし、曲技は採点が困難なために行わない。競技には単一機種を使用する。そのため各国でオリンピック用として試作したグライダーは、1939年2月 1日より15日までの間に、ローマで選抜テスト飛行会を開き、1機種を選定する。この機体の設計に当たっては次の規格を守ること。

 

 1940オリンピック用制式グライダー設計規格

 

1、主翼スパンは15mを超えぬこと。

 2、構造材料は木材(合板、スプルース)鋼金具。

 3、適度の耐水性ある構造にすること。

4、垂直降下の最大速度を200km/時に制限できるようなダイブ・ブレーキを備う。

5、座席は脊丈1.8mの乗員を標準として作ること。

6、脚部はソリのみとし、車輪はつけない。

7、座席には脊負い型のパラシュートを備える。

8、胴体の坐席部分での外側の幅は0.6mとする。

9、機体の空重量は最大限160kgとする。

    10、搭載重量即ち(乗員、パラシュート、計器)は95kgとする。軽い 乗員はバラストを積み、搭載量が95kgになるようにして飛ばねばならぬ。それゆえ、胴体にはバラストを入れる場所を予め考慮しておかねばならぬ。

 オリンピック用機は、むろん競技用として、よい性能をもっていなくてはならぬが、その上に構造が簡単で、どの国でも図面だけで完全なものが作れることが大切である。

 

 5月末、渡部一英、航空時代社長らの斡旋で、日本滑空機工業組合が生まれた。

 

加盟したのは伊藤、福田前田、美津濃、日本小型、アカシヤ木工の5社、グライダーの協定価額を、プライマリー550円、セカンダリー800円以上、ソアラー1,000円以上と発表した。

 

  6月10日、(東日、大毎による)オリンピック東京大会にグライダー競技を加えることは、この3月カイロで開かれたIOCの總会で決定し、続いて5月にスイスのベルン市で開かれたイスタス(ISTUS)總 会でも承認されて、各国とも大きな期待をもって準備を始めている。さらにFAIは6月下旬ベルリンで開かれる年次總会で、東京オリンピックにおけるグライ ダー競技実施を前提として種々協議することになっているので、イスタス会長ゲオルギー博士は、FAIの總会に日本代表として出席するはずの佐藤九大助教授 に、日本のオリンピック組織委員会の東京大会でのグライダー競技開催についての意向を至急確かめるように依頼してきた。これに対する組織委員会の意向は、 カイロのIOC總会では、グライダーはオリンピックの新種目に加えられたが、東京大会では今のところグライダーは加えないつもりだ。その理由は日本にはま だグライダーの全国的統轄団体がなく、したがって責任をもって競技の審判に当たる者がいないからだ。しかし各国からの要望が甚だ大きいなら、日本の組織委 員会としては、来年のIOCロンドン總会で、東京大会にグライダーを加えることを提案して決めてもらうつもりだと言っている。

 

  6月14日、(東日による)東京オリンピックにグライダーを入れることについて、日本オリンピック組織委員会は、前記の理由で渋っており、またFAIの日 本代表団体である帝国飛行協会も、日本のグライダー界が世界の水準より甚しく低いとの観点から態度を決めかねている折から、遞信省航空局が開催促進に積極 的に乗り出し、藤原航空局長官、大久保国際課長らが動きはじめ、さらに軍部からの支持もある様子で、早急に遞信省、飛行協会、オリンピック組織委員会の3 者間で協議を進める予定で、グライダー競技の実施は大いに有望になってきた。

 

  6月17日、(東日による)航空局、飛行協会、帆飛連、体協が協議の結果、飛行協会はイスタスの日本代表委員としてベルリンにある佐藤九大助教授に、東京 オリンピックでグライダー競技「実施」の旨打電し、イスタス会長ゲオルギー教授に、わが国の意向を明示することに決した。

 

 6月の初め、岡山の熱心なグライダーマン、横山晃氏は独力で、日本で初めての2人乗りソアラーを完成し、テスト飛行をした。全く同氏の熱意と不屈の努力に敬服する。 

 

 7月10日から同19日まで、東京高工グライダー部が、霧ヶ峯で合宿練習をし、堀川滑空士の指導の下に練習回数300回に上がった。

 

 7月16日から20日間、朝鮮青年航空団のグライダー講習会(プライマリー)が平壌飛行場で開かれ、21名の講習生が、炎天のもとで猛練習をした。

 

 7月21日から10日間、帆飛連の年中行事の一つである第4回グライダー講習会が茨城県の鹿島砂丘で行われ、65名の参加があって盛会であった。

 

  7月25日、かねて航空局が、わが国の代表的グライダー・メーカーである津田沼の伊藤飛行機、蒲田の日本小型飛行機、大阪の福田前田グライダーの3社に試 作奨励金を出して世界的レベルの高性能機ソアラーを試作させていたが、この日、伊藤飛行機で作っていた現在ドイツに留学中の佐藤九大助教授設計の佐藤式TC型が完成したので、東日航空部の清水一級空士が社内テスト飛行をし好成績を示した。同機はスパン15.6m、全長6m、翼面積15㎡、アスペクト比16.2、空重量155kg、搭載量105kg、全備重量最大260kg、沈下速度0.68m/秒。

 

  8月3日から1カ月間、飛行協会と文部省共催の第1回グライダー製作講習会が東京蒲田の東京高等工芸学校分教室で開かれ、全国の工業学校、中等学校の教職 員60名が受講した。講師は山崎好雄、倉橋周蔵、築島棟吉、徳丸芳雄(現東京都立航空工業短期大学長)、その他。会期中に荒木文相、田中館博士など参観に 来た。

 

 8月4日から10日間、極東帆走飛行クラブでは大島三原山、御神火下砂漠地帯でグライダー練習会を開き、登山客の目をひいた。

 

 8月5日、佐藤式TC型は ソアラーは羽田飛行場で、大毎航空部の志鶴飛行士操縦、日本学生航空連盟の熊谷飛行士操縦の九五式練習機の曳航で公式試験飛行をした。500から 1,000mで離脱、連続ループ、上昇反転などの曲技を行い、好成績でテストを終了した。翌6日は福田前田の六甲型ソアラーの公式テストが、やはり羽田で 行われた。

 

 8 月10日から同30日まで、朝鮮航空連盟主催のプライマリー、セカンダリー、グライダー講習会が京城飛行場で開かれ、24名の講習員が3週間にわたって熱 心に講習を受けた。講習員は大部分が中等学校の生徒であった。同連盟では、これから全鮮の中等学校生徒にグライダーを普及させようと計画している。 

 

 8月10日から同27日まで、朝日と飛行協会主催の全日本学生滑空訓練大会が霧ヶ峯で行われた。23日、立命館大、長谷川誠一君は、セカンダリーをウインチで曳航練習中錐もみに陥り墜落死亡した。

 

  8月17日から同25日まで、飛行協会、日本帆飛連、大毎、東日主催の第2回全日本帆走飛行競技大会が大阪、盾津飛行場で9日間にわたって行われた。参加選手と機体は、志鶴忠夫(ゲ式3型)、小田勇(六甲2型)、渡辺宏(C2型)、清水六之助(TC型)、福田秀雄(ゲ式1型)、利根川勲(C2型)、久田寿夫(C2型)、島安博(C5型)、大和快三(前田5型)、中野徳兵衛(美津濃301型)、肥田木文夫(C2型)、山本勲(ゲ1型) の12名、いずれも一級滑空士である。成績は、特賞、志鶴(距離33.8km)、小田勇(滞空2時間24分)、高度賞、1等渡辺(500m)、滞空賞、1 等渡辺(1時間15分)、2等、福田(1時間)、距離賞、1等渡辺(30km)、2等、清水(25km)、3等、小田(24km)

 

  8月28日から3日間、朝日、飛行協会、青年航空団主催の第1回全日本学生グライダー競技大会が霧ヶ峯で、8月10日から27日までここで行われたグライ ダー訓練大会の後をうけて開催され、大学専門学校18校、中等学校17校、学生150名が参加した。成績は大学専門学校セカンダリー90度旋回第1位、岡 田忠治(金沢高工)、同360度旋回第1位、森謹吾(法政大)、中等学校プライマリー第1位、吉冨仁(帝国商業)。

 

 8月末、千葉県船橋市の旭航空工業KKでは九帝型の製作権を得て、この春から九帝七型ソアラー九型Aプライマリー、九型Bセカンダリーを作っていたが、何れも1号機を完成。

 

 9月1日から17日まで、阿蘇大観峯で飛行協会と九大航空会共催の記録飛行会を行った。天気があまりよくなくて予期した記録はでなかったが、九大の田中丸治広滑空士は九帝七型で1時間以上の飛行を3回行い、また積雲飛行で、高度1800、獲得700mの上昇をした。

 

 9月22日から10月1日まで、帆飛連では立川飛行場で野外滑翔研究会を開き、松下、清水、岸田、近藤の4人の滑空士が、TC型をクレム25で曳航して、テルミーク飛行の研究をした。

 

 9月には、かねて航空局が奨励金を出して試作させていた伊藤飛行機のC6佐藤式TC型、福田前田の前田式六甲1型2型日本小型の鳳型の5台の単坐ソアラーができ上り、羽田飛行場で公開飛行をした。

 

10月1日から3日まで、新京南飛行場で第2回全満グライダー競技大会が開かれ、わが国からも大日本飛行少年団員5名が特別参加をした。 

 

 10月下旬、大衆向きのピアノ製作で有名になった大阪のアカシヤ木工KKでは、時代の寵児グライダーの製作にのりだし新工場を建てプライマリー、セカンダリーの量産をして認められていたが、今度初めてのソアラー・アカシヤ式巻雲1型を試作した。

 

 10月号、航空時代は「グライダーに関する諸家の意見」を特集した。内容は下の如きものである。

  近年わがグライダー界は、漸く振いかけてはきたが、まだ漫然たる歩みをしている。それは国策的な指導方針がないからでもあるが、他にも缺る所が多いからだ と思う。今日は理屈ぬきにしてグライダーを国民的なものにする必要がある。この秋にあたり、わがグライダー界を世界的水準に引上げる方策を明示することは 国策的な急務の一つである。ところで、その最も効果的な方策は何であろうか。本誌は、このことに関して関係各方面の権威者をえらんで高見を求めたところ、 誠に有益な玉稿十数篇を得た。ここに特集するものが即ちそれである。この企は必ずや今後のわがグライダー界に寄与するところ大であろうと確信する。

「感じている事三つ」飛行第5連隊長、近藤兼利陸軍大佐。

「滑空訓練の教育的意義」文部省嘱託、関口隆克。

「国家は如何なる奨励方策をとるべきか」帝国飛行協会嘱託、加治木智種海軍中佐。

「斯くの如きを望む」大毎航空部、松下弁二。

「グライダー訓練の精神的価値」航空局、航空官、川崎忠三郎。

「設計者、製作者、滑空士に対する希望」大毎航空部、志鶴忠夫。

「希望の一端」日本帆飛連、一級滑空士、清水緑。

「炭焼グライダー練習法」福田前田軽飛行機、一級滑空士、小田勇。   その他

 

  10月9日から11月25日まで1ヵ月余にわたり、飛行協会の第6回グライダー指導員講習会が、桐生愛国飛行場で開かれた。これは去る7、8月に甲府の山 梨飛行場で開かれた飛協のグライダー訓練講習会をはじめ、新潟、静岡、兵庫その他、各地の飛協地方本部で行ったグライダー訓練参加者中から選抜して、二級 滑空士の技倆を得させる目的で催されたものである。監督石橋嘱託、教官利根川、渡辺、杉本、大黒、李の各滑空士。講習生は1期、2期の各期とも約30名。 日課は6時起床、同30分朝食、7時点呼飛行場へ出発、同半格納庫を開き、団旗掲揚、宮城遥拝、訓練開始、11時半訓練を終わり、機体点検手入れ、昼食、 午後1時訓練開始、4時訓練終了、機体点検手入れ、国旗降下、4時半飛行場出発帰宿、5時食事、入浴、休息、9時点呼消灯。課目は高度1,2mの直線滑空 から、ウインチ発航による360度旋回に至る。講義は関根元陸軍技師の航空気象学、航空計器、早川航空局技手の航空法規、グライダー工作法、飛行協会加治 木嘱託の世界のグライダー界等。

 

 10月26日、朝日新聞社航空部の熊谷飛行士は伊藤式C6型ソアラーに乗り、飛行機曳航で桐生飛行場を離陸し、高度500mで曳航機より離脱、赤城山の長波上昇風に乗り、2時間20分滞空し、1,850mの高度まで上昇した。これはわが国で初めての長波ソアリングである。

 

 12月22日から29日まで、8日間、浦和市、秋ヶ瀬滑空場で、極東帆飛クラブ、とんび会その他主催の年末グライダー練習会が帆飛連後援で行われた。指導者は清水、利根川の両一級滑空士、参加者32名、ゴム索からウインチ発航まで、總計436回の練習をした。

 

 12月24日、大阪の福田前田軽飛行機製作所はプライマリー100機を陸軍に献納を申しでて、この日、立川の陸軍航空技術学校で、その献納式を行った。

 

 この昭和13年度末における滑空士免状所有者は一級40名、二級176名に達した。

昭和13年~外国~

この年の レーン大会は未曽有の高度記録をだした。即ち3,000m台の高度飛行が70回、4,000mを超すものが31回も行われ、ルフトハンザの操縦士ドレクセ ルはヒルト設計のミニモアで積乱雲中を海抜8,100mの高度に達し、6,687mの高度を獲得した。また200kmを超す距離飛行が100回、さらに 18機が群をなして、ワッサークッペ―ベルリン間350kmを翔破した。大会中の滑空距離合計7万6,000kmに達した。この秋には、本年の春ドイツに 併合されたオーストリアでは40時間51分の複座滞空記録ができ、11月にはグルナウ滑空学校教官チラーはクラニッヒ複坐機で、有名なモアツァゴトル雲を 利用して海抜8600m、獲得高度6,840mの高度記録を作った。近年のドイツの高々度飛行の発達は驚異的であった。この昭和13年末にはロジッテン・ グライダー学校の教官、ベデッカー、ツァンダーの2人は、クラニッヒ型で酷寒、暴風と戦い、2日2晩飛び続け、50時間26分の大記録を作った。このうち の30時間は夜間飛行であった。