明治・大正・昭和初期~昭和9年   

 

                                                      目  次

   明治42年

   明治43年      大正3年      大正5年  大正9年外国
   大正10年  大正11年外国  大正13年外国  大正14年外国

     --------

 昭和2年外国

     昭和3年      昭和5年    昭和5年外国     昭和6年

 昭和6年外国

     昭和7年      昭和8年       昭和8年外国     昭和9年

 

 

 明治42年(1909)

 

 フランス大使館付武官、ルプリエー海軍中尉は、相原四郎海軍大尉の協力で、

竹の骨組みの複葉グライダーを作り、12月26日に上野不忍池端で自動車曳航で試

飛行をした。まずル中尉が乗って約20m滑空し、続いて相原大尉が乗り出発した

が、離陸直後、Y索の片側が切れて池の中に飛び込み機体を壊した。これが日本

でグライダーが作られて、とにかくジャンプした最初であった。

 

明治43年(1910)

  伊賀氏広男爵は自作の単葉グライダーで、自動車曳航で1米の高度を約15m

飛んだとのことである(東京板橋競馬場で)。またこのころ小島四郎氏も自作の

グライダーに乗り、自動車曳航で約5mの高度に上がったとのことである(代々

木練兵場で)。この年の12月19日、代々木練兵場で、徳川、日野両大尉がファル

マン式複葉、グラデー式単葉飛行機で日本最初の飛行をした。

 

  アメリカのライト兄弟は、1903年末に動力付きの飛行機に成功した後も、グ

ライダーで実験をやっていたが、1911年には弟のオービルは、9分45秒ソアリン

グした。この記録は、それから10年も破れないでいた。

 ※ 日本民間航空史話、(13頁)伊賀式飛行機、参照

 

大正3年(1914)

 この夏、九州の高千穂中学4年の黒田正夫氏が、ライト式複葉飛行機に似たグラ

イダーを作り、人が引綱を引いて飛ばせようとしたが、うまくいかなかったよう

である。

 

大正5年(1916)

 仙台の田中省己氏は自作の単葉グライダーで何回か滑空を試みたようである。

大正9年(1920)~外国~

 第一次大戦の後、ドイツが疲弊し意気消沈している時に、雑誌「フルグシュ

ポート」の主幹オスカー・ウルジヌスは、国内の青年に呼びかけて、この年の7

月ワッサークッペ・レーンにグライダー大会を催した。最高記録はアーヘン大学

生クレンペラが自作の黒鬼号(シュワルツァ・トイフェル)で2分間、1,830m

の距離を飛んだ。

  

大正10年(1921)

 東京帝大航空研究所(深川区越中島)で、小野正三助教授は進藤、山崎氏らの

助力を得て、ドイツのヘンツエン機によく似たグライダーの制作に着手した。予

算経費2,000円であった。しかし残念なことに、本機は完成間際になって、大正

12年9月1日の関東大震災にあい焼けてしまった。小野氏は日本でグライダーを

学問的に研究した最初の人であった。

 

大正11年(1922)~外国~

  第3回レーン大会では、飛行将校だったハノーバー工大の学生マーテンスは

バンピア号で1時間6分、翌日は彼の学友ヘンツェンは同じ機体で2時間10分、

さらに数日後には3時間6分飛んだ。これは当時は奇蹟としか思えぬことだっ

た。こうして斜面上昇風による本格的なソアリングが始まった。

  

大正13年(1924)~外国~

 この3年間レーンは不振であったが、仏国のボービルの丘では10時間28分、秋

のロシアのクリミア大会ではドイツのシュルツが12時間6分もの好記録を出した。
 

大正14年(1925)~外国~

 大戦中は飛行中尉だった東プロシャの小学教師シュルツは、この春、近くのロ

ジッテンの砂丘で、手製のプライマリー「箒の柄号」ベンゼンシュチールで8時

間42分の世界滑空記録を作った。

 

昭和元年      

記述無し

 

昭和2年      

 日本における記述無し

 

 

昭和2年(1927) ~外国~

 

 ロジッテンでシュルツは14時間7分の記録を作った。この海岸砂丘は高い所は

50mもあるが、平均して10mほどの丘が長く続いているだけである。こんな所で

彼は丘伝いに、60kg以上も距離をのばし、また時には500m以上も高度をとって

いる。

       

 

昭和3年(1928) 

 小野氏はその後、航研を辞して、神戸の川西航空機製作所に入ったが、ここ

で進藤鈔氏などの協力のもとに1台のプライマリー機を作り、大阪木津川尻飛行

場で乾将顕飛行士が試飛行をしたが、着陸の際、地面にたたきつけて壊した。こ

のグライダーは昇降舵がなくて、主翼のフラップで揚力を増減して昇降操縦をす

るという変わった型式のものだった。これは後に修理して昭和7年ごろ大阪の日

本グライダー連盟に売られ練習に使われたから、日本人が作った最初のグライ

ダーといってよいだろう。
       

昭和4年

   記述無し
     

 

昭和5年(1930)

 所沢陸軍飛行学校教官、藤田中尉は中学生時代からグライダーの研究をして

いたが、この年の春、英国のディクソン型に似たプライマリー機を作り、所沢で

飛ばしてみたが、曳航法がまずくて、うまく飛ばなかった。しかし後に磯部氏の

日本グライダー・クラブがこれを譲り受けて、ゴム索発射で長く練習に使った。

(昭和13年、航研機で世界周回距離記録を作り、後に中支の空で戦死した藤田雄

蔵中佐)

 予備海軍少佐、磯部 鈇 吉氏は外国雑誌の図面を基にして、ドイツのツェク

リン型プライマリー機を作り、この年の5月11日、所沢飛行場の一隅で、片岡文

三郎飛行士の操縦で試験飛行に成功した。この時の記録は滑空距離約70m、高度

5m、滞空時間8秒であった。これが日本で初めての、うまくいったグライディ

ングであった。そこで磯部氏は奥平俊蔵予備陸軍中将を会長にして、日本最初の

滑空団体(日本グライダー倶楽部)を創立した(6月1日)。前記のプライマリー

をクラブの練習に使うには堪航証明書が必要なので、7月13日に磯部式練習用1

型の検査飛行が茨城県鹿島の砂丘で航空官立合で行われた。

 滑空時間20秒、距離170m、これで7月17日に航空局から同機に日本最初の滑

空機堪航(今日は耐空)証明書が交付された。こうして同クラブでは練習生に応

募した数人が9月6日から、東京板橋の競馬場にあった遠藤飛行場の一隅で練習

をはじめた。こうしてどうにかプライマリーで飛べる者が5人ほどできたので、

10月4日に東京駒沢練兵場で日本最初の公開滑空飛行会を催したところ5,000人

の観衆を集めて盛会であった。この日はプライマリーをゴム索発航だけでなく、

自動車で直接曳航に成功した。プライマリーの主橇の下には小供用自転車の車輪

を2つ取付けた。続いて同クラブは、藤田中尉のプライマリーを貰い受けて練習

に使い、練習所も東横電鉄沿線の川崎市外、新丸子の多摩川畔に移した。

 わが国の滑空界は、このようにして昭和5年の夏の日本グライダー倶楽部の設

立によってスタートを切ったと考えてよく、磯部 鈇 吉氏のグライダー界の先覚

者としての功績は、わが滑空人たちの忘れてはならぬ大きなものである。

 

昭和5年(1930) ~外国~

 積雲や雷雨前線の上昇風が利用されだし、この年のレーン大会では、クロン

フェルト164kmの距離記録を出した。こうして久しい間、斜面の上空に限定され

ていたグライダーの活動領域は、平地の上まで拡がり、これまでは滞空時間が主

であったグライダーの記録が、これからは、空間的に、即ち距離や高度に格段の

向上を示してきた。この年には、各国が協力して滑空界の発達を計ろうと、ダー

ムシュタット工大のゲオルギー教授を会長として国際滑空研究委員会(ISTU

S)ができた。

 

ドイツのヒルト氏は、この年の秋、アメリカのエルマイアの大会に指導に行っ

て、全く雲もなく晴れ渡った日に、初めて急旋回法によって熱上昇風(テルミー

ク)を捕えて高度をとりつつ数十キロの飛行をした。このテルミーク中の急旋回

上昇法が、ソアリングの画期的な進歩をもたらしたのである。

なお昭和5年の春、アメリカのホークス大尉は、グライダーを飛行機に曳航させ

て、途中20回着陸して、8日間でサンディゴ、ニューヨーク間、4,000kmの米大

陸横断飛行をした。

             

昭和6年(1931)

1月末に、かねてより日本グライダー倶楽部が伊藤飛行機製作所に注文して

いたセカンダリー・グライダーが出来上った。これはプライマリーに座席カバー

をつけただけのものであったが、とにかく日本で初めてのセカンダリー機であった。

3月16日から2週間にわたり、同倶楽部は箱根仙石原で練習会を催したが、この

間に教官片岡一等飛行士はセカンダリー機で1分20秒飛んだ。

 

 4月8日、同倶楽部は飛行館、星の間で總会を開き、会名を(日本グライ

ダー協会)と改めることにした。続いて国際航空連盟の規定によってA、B、C

のグライダー免状規定を決め、同月10日に、第1回の免状授与式を行った。Aと

B免状をもらった者、沢雄一、鵜飼照彦、白石襄治、A免状をもらった者、清水

六之助、林佳忠、金沢辰、合計6名であった。

  A、30秒の滑空と正規の着陸 

 B、1分の滑空とS字飛行、正規の着陸

 C、出発点より高く5分以上の滑空


  6月には福岡市で、航空研究家で建築士の前田建一氏が主唱者となり、九州帝

大工学部の佐藤博助教授、志鶴忠夫飛行士、渡辺鉄工所飛行機部の伊藤隆吉飛行

士それに九大の学生や社会人20名ほどが集まって、九州航空学生連盟(後に九州

航空会と改称)を設立した。福岡市柳橋の前田ビル3階の事務兼工場でプライマ

リー機の製作にとりかかり、8月25日にその起工式をした。

 7月21日から3週間にわたって日本グライダー協会は東京、麹町小学校を会場に

して日本最初のグライダー講習会を開き、無料で公開し、グライダー知識の普及

をはかった。39名が熱心に受講した。

 8月1日から1ヵ月間、仝グライダー協会は信州菅平で練習会を開き、15名の

練習生が熱心にとんだ。こうして片岡教官の4分36秒をはじめとして、鵜飼3

分50秒、清水3分49秒、金2分46秒と大いに進歩をしめした。これらはい

ずれもセカンダリー機で猫ガ岳の中腹からスタートしたものである。

 10月20日、グライダー協会は、ドイツのマーガ・フォン・エツドルフ嬢のグラ

イダー講演会を時事新報社講堂で開き、協会顧問、長岡外史中将と渡部一英常任

理事が挨拶した。

  「雑誌グライダー」11月の創刊号、磯部鈇吉、本邦のグライダーに就いて、参照

 

昭和6年(1931) ~外国~

 この春、ドイツの新進グライダー・パイロット、グレンホフは当時の最新鋭機

ファフニア号で、曳航出発でミュンヘン飛行場をスタートし、雷雨前線に乗って

チェコ国内まで272km飛んだ。

 またこの夏に、クロンフェルトはグライダーで英仏海峡を横断し、デイリー・

メイルの賞金をとった。これは3,000mまで飛行機で曳航し、全然グライディン

グで海峡を渡ったに過ぎないがとにかくブレリオが動力付の飛行機で初めてこの

海峡を渡ってから、22年たつと、グライダーがこれをやるようになったのである。

 この年末に、アメリカの飛行中尉コークは、ホノルルで、海岸の山に吹きつけ

る季節風に乗って、滞空21時間55分の大記録を作り世界の滑空人たちをアッとい

わした。

              

昭和7年(1932)

 1月23日、九州帝大では、工学部造船学科助教授、佐藤博氏を指導者として、

学生約50名で九大航空会を設立し、前年にできた九州学生航空連盟(改称九州航

空会)と協力してグライダーの研究をしてゆくことにした。佐藤助教授談「アメ

リカのグライダーは鋼管を沢山使っていて360ドルもするが、今私たちが前田君

と協力して作っているグライダーは全木製で、会員が自作するから工賃はいら

ず、材料費だけで約250円かかった。

 

 2月21日、大阪の日本グライダー連盟では東京の日本グライダー協会の片岡、

清水の両氏を招き、大阪の南郊、阪和電鉄沿線の信太山(しのだ山)で関西で初

めてのグライダー公開飛行会を催した。

 

 4月25日、昨年から九大航空会、九州航空会が協力して作っていたプライマ

リーが出来上って、九大裏の多々良浜の埋立で志鶴忠夫飛行士の操縦で、武石喜

三航空官の検査をうけた。続いて5月1日、両航空会の共同主催で福岡の城外練兵

場で、九州で初めてのグライダー公開飛行をした。志鶴忠夫、伊藤隆吉の両飛行

士が交々プライマリーを飛ばし、折からの博多名物の年中行事ドンタクに1万も

の観衆を集めた。これ以来、毎日曜、祭日には、箱崎海岸に、あるいは練兵場に

会員の練習をつづけた。

(プライマリー 1号)   (プライマリー 2号)

昭和7年(1932)4月完成

翼  幅   10.60m            11.44m

全  長    6.56m             6.50m

主翼面積  17.0㎡             18.0㎡   

同アクスペクト比 6.6           7.3

同翼型 ゲッチンゲン532    ゲッチンゲン532  

空重量    73.9kg              87kg

乗  員    66kg                 65kg

全備重量  140kg               152kg

翼面荷重      8.2kg /㎡          8.5kg/㎡

  沈下速度     1.14m/s            1.1m/s

    失速速度     36km/h            36km/h

    滑空速度     45km/h            45km/h     

   滑空比        10                10

 

 この練兵場は、明治44年に日野大尉が所沢から福岡連隊に転属になり、福岡の

鉄工所で作らせた日野式単葉飛行機「舞鶴号」をテストしていた所である。

(グライダー、昭和8年3月号、藤田稔、「九州帝大航空会の生いたち」参照)

 九州航空会会則抜粋

1、本会は航空のスポーツ化により、その方面の知識趣味を養い、併せて剛健な

心身を練り確固たる航空国民の素養を作ることを目的とする。

2、この目的を達するため、九大航空会と協力して次のような事業をする。グラ

イダー操縦術の教習、グライダーおよび軽飛行機の設計制作、講習会、見学会、

講演会の開催、その他

3、正会員、入会金3円、会費月3円(独立生計者)

        入会金3円、会費月2円(未独立生計)

  賛助会員、一時に2円以上寄附する者、会費不要

  特別会員、一時に50円以上寄附する者、会費不要

福岡県福岡市住吉柳橋前田ビル

     九 州 航 空 会

学科 九州帝大助教授   佐藤 博

制作 建築技師          前田建一

教官 二等飛行士        志鶴忠夫

 同  一等飛行士

   渡辺飛行機技師    伊藤隆吉

 

 九州帝大航空会の会則も九州航空会のとほとんど変わらぬが、会費は正会員年

額10円であった。

 

 この夏、日本グライダー協会は「わかもと」本社の後援で山崎式ソアラー「わ

かもと」号で宝永山からの冨士山飛行を計画し、新聞紙上に滞空時間予想懸賞広

告を出し、大きなセンセイションを起こした。本番飛行に先立ち、航空官立合の

テストのために、7月27日、片岡文三郎飛行士は、わかもと号に乗り御殿場登山

口、2合目から出発し、4分55秒の飛行後、出発点の近くの太郎坊付近に着陸の

際、凹地に突込み胴体前部の操縦席を破損し、片岡氏は、かなりの負傷をした。

協会は機体を修理して、片岡氏の代りに酒井市麿一等飛行士が、裾野の板妻陸軍

飛行場でテストして好成績を得たので、機を宝永山に運び待機していたが、連日

天候険悪で恢復の見込がたたず、ついに中止のやむなきに至り、8月19日これを

発表した。

 

 冨士山宝永山飛行は、これから8年たって、昭和15年8月に、6機のオリンピ

ア機によって実施された。

 

(雑誌グライダー、昭和8年1月号、佐藤博、「十文字号におけるグライダー練

習の記」参照)

 

 9月10日、岡山県の金川中学校の山本勲教諭によって、岡山に西日本グライ

ダー倶楽部が創立された。同氏は山本式A型プライマリーを春に完成し、続いて

夏にはB型2機を完成している。(雑誌グライダー、昭和7年10月号参照)

 

 10月10日、東京理化学研究所の白石襄治氏が昭和4年から設計し始めていた

「白鴎第1号」が出来上り、神奈川県中郡国府村中丸海岸でテスト飛行をした。

これはスパン12.6m、翼面積18㎡、空重量145kgの練習用ソアラーで、テストは

白石氏、遞信省電気試験所の仙波猛氏、日大生でB章を持っていた鵜飼照彦氏に

よって行われた。これから11月まで白石、鵜飼両氏が交々40回ばかり飛び、好成

績を示していたが、11月14日の暴風で、格納庫の網小屋もろ共、押しつぶされて

しまった。

 

 11月10日、中央気象台の藤原咲平博士の提唱の霧ヶ峯グライダー研究会が、東

京一つ橋の学士会館で、藤原先生を会長として発会した。航空時代、昭和7年10

月号の藤原先生の談によると「この研究会は、私の一寸した思いつきから芽ばえ

たものです。霧ヶ峯は私の郷里の山で、最近スキー場として有名になった。子供

の時からよく知っている場所だから、スキーが盛んになるにつれて、ふとここで

グライダーを飛ばしたら、うまく飛ぶだろうと思いついた。そこで帰郷のついで

に、さらに地形を見に登ったが、誠にグライダーに申しぶんのない所のように思

われたので、グライダーの先輩、磯部少佐や熱心な研究者の白石襄治君に見ても

らった所、いずれも好適地であると言われた。それでこの計画を「考え方、解き

方」の藤森良蔵君に話し、その熱心な援助により、本研究会の創立の運びとなっ

たのです」。

 (「日本最初の常設滑空場木津川」史話48頁  粟津 実 参照)

 

 11月23日、本部を伏見桃山におく日本グライダー連盟では、京都奈良電車沿

線、木津川原(京都府内)に常設のグライダー練習所を開設した。これを木津川

滑空場と呼んだ。教官は清水緑氏外3名、機体は伊藤式ユニバーサル・プライマ

リーと、KO1号(これは川西の小野正三技師の設計製作したもの)の2機を

使った(雑誌グライダー、昭和8年2月号、科学知識、昭和8年6月号参照)

 

 4月 25 日、去年から九大航空会、九州航空会が協力して作っていたプ

ライマリーが出来上って、九大裏の多々良浜の埋立で、志鶴忠夫飛行士の操縦

で、武石喜三航空官の検査を受けた。続いて5月1日、両航空会の共同主催で福

岡の城外練兵場で、九州で初めてのグライダー公開飛行をした。志鶴忠夫、伊藤

隆吉の両飛行士が交々プライマリーを飛ばし、折からの博多名物の年中行事ドン

タクに1万もの観集を集めた。これ以来、毎日曜、祭日には、箱崎海岸に、ある

いは練兵場に会員の練習を続けた。

 

8月26日から9月11日まで、九州帝大航空会と九州航空会は共同で、別府市か

ら北方に約3里ほど離れた十文字原で、前に作ったプライマリー1台と、新しく

作ったセカンダリー、九帝三型「十文字号」とを使って練習会を催した。最後の日

9月10日、十文字高原を引上げる際に、セカンダリー、十文字号は、志鶴教官の

操縦で、別府まで空輸しようということになった。この日、数日来の豪雨はやんだ

が、天候は思わしくない、しかし、いつまで待っても好転しそうにもないので、

志鶴教官は出発を決心し、午後1時45分、高原の北隅の陣笠山(標高950m)から

北方に向かって離陸した。直ちに右旋回し、弱い斜面上昇風を利用しつつ海岸のほう

に飛ぶ。約300mの高度を保って亀川町の上空を過ぎ、右折して海岸に沿うて南下、

出発より8分34秒で、直線距離で約7km、迂回コースで10.5kmの距離を飛んで、

別府市の北郊の海水浴場に到着した。

十文字号はスパン12.8m、機長6.7m、翼面積18.2㎡、空重量85kg、乗員

70kgとして、全備重量155kg、翼面荷重8.5kg/㎡、最小沈下速度0.8m/秒、最大

滑空比16対1、この時の滑空速度12.5m/秒(45km/時)、この十文字号は、これ

から後にわが国で盛んに使われたセカンダリー機の母型になった機体である。   

 

       

昭和8年(1933)

 4月に、西日本グライダー倶楽部(岡山)の創立者、山本勲氏は、鳥取の浜坂

海岸の砂丘で自作のセカンダリーに乗り約4分滞空した。これが鳥取砂丘で初め

てのグライディングだった。

 

 6月9日、中等学生の手で出来た初めてのプライマリー機「京工式1型」の試

験飛行が、木津川滑空場で清水六之助氏の操縦で行われた。これは京都市立第一

工業学校の倉橋周蔵教諭が日本グライダー連盟の依頼で生徒を指導して作ったも

ので、これを購入した連盟は「鵬号」と名づけて、座席にナセルをつけて、いわ

ゆるプラセコにして使ったこともある。7月2日に清水氏は、このプラセコで、

奈良電車沿線、三木山駅東方の300m高地から出発して、6分56秒滞空の好記録

を作った。

 

 昭和8年6月号「科学知識」本邦滑空界の過去と将来、期待すべきグライ

ダー、日本グライダー連盟、中正夫によると現在のグライダーの世界記録は下の

通りである。

高度2,589m(オーストリアのクロンフェルト)

周回距離、456km(ドイツのシュルツ)

滞空時間、21時間34分(アメリカのコッケ)

宙返り、115回(露のステパンテノク)(注-ロシア)

グライダーで英仏海峡横断(オーストリア、クロンフェルト)

 

 九大では昭和7年の夏、8分34秒の日本記録を作った十文字号セカンダリー

に引続き、目下製作中のソアラーは、翼長15m、カンチレバー翼で、大変スマー

トなもので、滑空比20対1、沈下毎秒0.7mの優れた性能を持っている。おそら

く本機は1時間飛行の新レコードを出すだろうと信じられている。

 

 グライダーの発達は、練習クラブが各地にあって、競ってレコードを争うよう

になれば、日本の滑空界も、やがてはドイツ、ロシアの如く盛んになると思われ

る。グライダー練習所の経費は飛行場などに比して、はるかに低廉でグライダー

1台、500円、出発用ゴム索太さ15mm、長さ50m、150円、修理費200円、広告宣

伝費150円、合計1,000円もあればまず50名位の練習生を養成しうる。従って生徒

からは1名20円ずつ出させるとか、あるいは1回50銭の練習費をとるとか、ごく

手軽にグライダー・クラブを組織することができる。

 

 7月23日、霧ヶ峯グライダー研究会では技術主任、白石襄治氏が作った霧ヶ峯

第1、第2、第3号の3機のプライマリーで霧ヶ峯山上で練習を開始した。続い

て30日の日曜には盛大に開場式を行った。8月27日に、1ヵ月にわたる夏期練習

会を終わったが、この間に、20名の参加者が400回の飛行練習をし、A章2名、

B章1名が生まれた。

 

(航空時代、昭和8年10月号、霧ヶ峯グライダー研究会の現状、会長、理学博

士、藤原咲平)

 

「まず片倉合名会社、土橋善一郎氏から多額の寄附を載き、これを基礎にして第

1期寄附總額3,100余円を得て、グライダーの建造に着手し、中2.000円をかけて

グライダー3台を作りまたゴムコード3本を購入した。一方地元の上諏訪町に依

頼し格納庫や炊事場などの建造物を得た。

 

 グライダーの製作は白石君の指揮のもとに、中沢、寺平両青年がこれに当た

り、無事に航空局の検査にも合格した。また格納庫は白石君の設計を基礎にして

宮坂町長以下の好意によって上諏訪町で建築してもらった。

 

 こうして7月19日に東京から3台のグライダーを霧ヶ峯に輸送し、7月23日よ

り練習にとりかかった。開場式は都合により7月30日の日曜日に挙行し、石田航

空官その他地方の有力者約300名臨席のもとに盛大に終わった。その後練習を続

け、8月27日閉場するまでに練習生20名を養成した。

 

 今後の計画は東京付近に新たに練習場を設け、A級の練習は主としてそこで行

い、霧ヶ峯には少なくともソアラー1台、セカンダリー3台、プライマリー2台

を備えつけることにしたい。

 

 昭和8年度の練習費は特別をもって非常な割引をしたが、それでは経済が続か

ぬから、この秋からはA免状を得るまでの練習費は30円と定め、免状を目的とせ

ず臨時に試乗する向きからは、1日の練習費1円を申し受けることにしたい。勿

論これだけ取っても収支は償わないが、十分に取れば練習生が無くなる恐れから

止むをえない。」

 

 8月15日より同28日まで、九大および九州航空会は、前年8分34秒の記録を

作ったセカンダリー 十文字号と、新作の練習用ソアラー「阿蘇号」とで、佐藤

博助教授指揮のもとに熊本県の阿蘇山上で練習をした。

 

 阿蘇号は、高性能を主眼としてものではなく、専ら練習用ソアラーとして計画

されたものであり、従って阿蘇のような嶮岨な山地への輸送や取扱、格納の便を

考慮して、機型を極限に縮小している。滑空速度を比較的大きくし、構造は極め

て堅牢にしてあるので、強風中のソアリングに、また急降下、宙返り、錐もみな

どの簡単な曲技の練習に、また自動車、飛行機曳航スタートにも適する機体である。

 本機の要目は、スパン10m、全長5.5m、翼面積13.5㎡、アスペクト比7.4、翼

型ゲッチンゲン580、空重量90kg、乗員70kgとして、全備重量160kg、翼面荷重

11.8kg/㎡、沈下0.92m/秒、滑空比15対1、この時の速度57.5km/時、着陸速度

43km/時。

5月半ばから設計を始め、6月の初めに着工し(九大、造船学実験工場

で)1,200人時の工数と約600円の工費をかけて、8月中旬に完成した。

 火口から西方3kmの草千里を根拠地とした。ここは標高1,100m、直径800mほ

どの浅い盆地で、セカンダリーの練習は、この盆地の中央にある小丘陵を使っ

た。盆地だから風の強い日は、周辺から吹き込む下降気流によって、機体は地面

にたたきつけられることが、しばしばあった。夏はこの辺一帯は南西の風が多

く、午後は毎日のように驟雨か、それでないと霧が襲来した。阿蘇号の検査飛行

には福岡飛行場長、松浦四郎航空官(現法政大学工学部長)にわざわざ山に登っ

てきてもらった。

 

 8月27日、阿蘇号を草千里の西北にそびえる杵島岳の西斜面(標高1,300m)

からスタートさせようと、正午近くに機をスタート姿勢に据えて、一同一息入れ

ていると、にわかに暴風雨と寒さを倶って襲いかかってきた。恐るべき積乱雲に

捕えられたのである。シャツ1枚になって滝なす汗をふきながら機を運んできた

十数名は、今は凍死せんばかりの寒さに生色もなく、機を吹き飛ばされまいと鉄

棒を打ち込んで繋留し、弾丸のように跳びかかる雹を避けながら、一団となって

翼柱にぶらさがって必死にアンカーメンとなっていた。大自然は数十分、猛威を

たくましくしたが、ようやくのことで、雲はやや薄くなり、風も大分衰えた。し

かし前面を見れば、まだ次々に雲が襲来しそうなので、この機を逸してはいけな

いと、正午に志鶴教官操縦で阿蘇号を出発させた。

 

 「放たれた機は矢のように西南の空に急上昇し、一旋回ごとに高度を増し、同

志の姿も杵島の頂上も、はるか下方に沈んでしまった。目には見えないが、しか

し強力なエネルギーが、完全に機を押し上げてくれる、今までに空中で感じたこ

とのない優越感と機の性能に対する強い信頼が大きな喜びを胸にみなぎらした。

阿蘇五岳の緑と起伏はむろんのこと、凄惨そのもの噴火口も、今日は何という不

思議な美しさだ。

 

 さらに旋回を続け、すでに杵島の頂上より約80m上昇した。旋回中追風に入る

と、機速は著しく増加して、山上をのり越すような気がして自然、旋回が急に

なった。この瞬間、不意打ちに強い突風に横からあおられ、いきなり機首を下

げ、左旋錐もみに陥った。山腹まではもう150mもない、一旋転した時、思い

きって右錐もみの操縦をした。赤黒い熔岩の壁が眼前に回転した。この錐もみは

ちょうどアブロ練習機と同じようなものだと感じた。3旋の後、回転は止まっ

た。もはや右翼が山腹を雉ぎ払うとみたので、舵を中位にもどすと同時に、力

いっぱいに上げ舵を引き左のエルロンを切った。瞬間、何とした奇蹟か、物凄い

うなりをあげて急降下していた機は地上数メートルの所で、恰もピッケを終えた

戦闘機のように、猛然と機首をもち上げ、双翼は再び強い風を捕え、急上昇を開

始した。驚いている皆を安心させようと、左旋して出発点上に行って、機上から

手を振るが、誰も応ずる気配もなく、ただ呆然としているようだ。

 高度はたちまち、杵島岳の頂上より高くなった、機首を北方に向けて積雲に

入った。山近くのことで気持ちが悪く、中を用心して旋回しているうちに、間も

なく雲から出たので、機首を西方、外輪山の峡谷の方に向けた。驚いたことに、

機は強い向い風のために、少しも前進せず、全く凧のように宙に止まっている。

出発してから約8分たつていた。

 斜面を離れ過ぎたので杵島、往生の山々に別れを告げ、西方外輪の方に前進を

続けた。途中は大変錯雑した波浪のような地形で、気流が悪く、大分ガブられ

た。まだいくらも進まぬのに、ふりかえると杵島の頂上は、ひどく高度を増して

いるのに失望する。長陽丘上の京大火山研究所の上では、もう100m位しか高度

がなかった。鰐の牙にも似た岩の折り重なる黒川の溪谷を、不安のうちに40mの

高さで過ぎた。前方は東洋一の高い架橋のある、深い立野の火口瀬である。五つ

も水力発電所のある峡谷は、蜘蛛の巣のような高圧線でおおわれ、この両岸の山

腹は、狭い水田が階段を作っている。

 いよいよ森で前方が見えない高度になったので着陸を決心し、家や森や電線を

左右によけながら、立野駅から約1キロの水田に、全く速度を殺して降りた。田

の幅は阿蘇号のスパンより狭くて左翼は2mも低い下の段の田の上にさしかかっ

ていた。杵島岳の出発点から立野の着陸地点までの水平距離は約8km、高度差

950m、この間の20分の飛行は、わが国で最初の本格的な斜面上昇風ソアリング

であった。(航空時代、昭和9年1月号、「大阿蘇帆走飛行の思い出」九大助教

授 佐藤 博、九大航空会教官 志鶴忠夫)

 

昭和8年(1933) ~外国~

 今までグライダーの発達に大きな貢献をしたレーン・ロジュテン協会は発展的

解消をし、「ドイツ滑空研究所」DFSができた。

 

 8月には無名の滑空士クルト・シュミットは東プロシャの海岸で、手製のグル

ナウ・ベビーに乗り、36時間35分という驚異的な滞空記録を作った。

       

       

昭和9年(1934)

 

 前年の暮れから、この年の1月にかけて、霧ヶ峯グライダー研究会では、プラ

イマリー機に雪橇をつけ雪中で練習した。

 

 4月1日、帝国飛行協会は、グライダー製作費補助規定を設け、1機につき

300円以内の補助をすることにした。

 

 6月には東京飛行少年団ができ、杉並区上井草の運動場でグライダーの練習を

始めた。

 

 7月15日から9月7日まで、霧ヶ峯グライダー研究会の夏期練習が行われた。

機体は霧ヶ峯、1、2、3、4、5号の5機で、4号は同会の標準型練習機とし

て新造したもの、5号はホールス・デア・トイフェル型のセカンダリーである。

この期間中に、報知新聞社の吉原清治飛行士がドイツの本場仕込みの指導をし、

また同会技術主任・東大航空科講師の榊原茂喜樹氏は自分で設計した加速度計で、

グライダーが飛行中にうける、上下、前後方向の加速度を記録した。最終日9月

7日に鵜飼照彦氏はトイフェルで、カボッチョ頂上からスタートし、16分半の

滑空後、出発点より南方6kmの水田に降り、霧ヶ峯滞空記録を作った。(雑誌、

空、昭和9年11月創刊号、今年の練習で感じた事、霧ヶ峯グライダー研究会、

鵜飼照彦、参照)

 

 この春から活動し始めた愛国グライダー連盟は、7月下旬に東京三越でグライ

ダー展を催し、8月12日から28日まで、三原山の火口原で会員14名で遠征練習を

した。21日に清水緑教官は外輪山から大島茶屋前の広場まで、直線距離にして約

3.2kmを6分13秒の飛行をした。(雑誌、空、昭和9年11月号、「御神火を背に

猛練習」愛国グライダー連盟、清水緑、参照)

 

 8月27日から半月間、九州帝大航空会では、大分県、久住高原で滑空練習をし

た。参加会員16名、使用機体は、前年阿蘇で20分の記録を作った練習用ソア

ラー 阿蘇号と、九州航空会の前田建一氏が貸してくれたプライマリーの2機

であった。

 

 このプライマリーは旺盛な研究心と実行力に富む前田建一氏が苦心研究して、

全翼面を良質の日本紙で張り、カラ傘と同じに桐油で仕上げた、いわゆる紙張実

験機であった。練習に使っている間は、連日連夜、野外に繋留し雨露に晒してい

たが、少しも損傷せず、立派に使えることを実証した。

 

久住山(標高1,788m)は九州本土での最高峯で、九州の屋根といわれている

が、一行はここで高山ソアリングを実験しようと、 阿蘇号を解体して、9月

6日に山上に運搬した。しかし二百二十日が近づくにつれ、日々悪天候続きで、

雲霧は深く山頂を包み、全く視界を閉ざし、5日間、毎日山上に通って待機し

たがついにスタートできなかった。

 

9月11日になって、天気がやや回復しかけたのに勇気づけられ、今日こそはと励

まし合って早朝から飛行準備をととのえた。連日峯々を閉ざしていた暗雲は次第

に溶けて散った。脚下には目がさめるような緑の大草原が海原の如く果てしなく

広がった。ついに待ちに待った時がきたのだ。

 

 午後0時37分、志鶴教官の操縦する阿蘇号は5米の西風中に全員の力の限りに

引張ったゴム索に発射されて、矢のように1,650mの肥前ヶ城高地を飛び立って

いった。しばらくこの高地の南斜面上を旋回していたが、状況があまり有利でな

いと思った志鶴氏は、この南方の扇ヶ鼻台地(1,522m)に進出し、往復旋回を

開始した。だが初めのうちは、容易に高度がとれず、しばらくは斜面すれすれに、

大変な苦心で旋回を続けていたが、そのうちに、ようやく、よい上昇風帯が確実

につかまり、一旋回ごとに高度が積上げられていった。こうして扇ヶ鼻台地の上

空100から160mの所を、この斜面に沿う約1kmの長さのコースを1分半乃至

2分の周期で約1時間往復した。

 

 斜面上で測った風速は常に5m/秒内外だったが、志鶴氏の報告によると、上空

の風速は少くとも10m/秒内外に感じられ、気流は始終、突風的で操縦は困難を感

じ、ことに時々来襲する雲の中に突入すると、風速はさらに増大し気流は著しく

乱れ、かつ全く視界が断たれるので、自然高度を落として雲を脱出しなくてはな

らぬことが、しばしばあったが、雲が通り過ぎると直ぐに高度を回復することが

できたとのことであった。

 

 こうして48回の旋回を続け約1時間飛行した時、大きな暗雲が襲来し、この中

に飛び込んで飛行を続けるのは大変危険だと考えた志鶴氏は、上昇風帯を捨てて

雲の下に逃れ、針路を東南方にとって、追風で約10km飛行し、根拠地の上空に

帰って、付近の丘の上を旋回すること4回、午後2時03分、宿営から南方500m

の高原に無事着陸した。こうして飛行時間、1時間26分、周回飛行路約70kmの新

記録ができたのである。この飛行によって、わが国の斜面風ソアリングの基礎が

できたと考えてよく、これまでは、日本のような地形、気象条件では、グライ

ダーはだめではなかろうかと危ぶまれていたのがこの飛行によって、日本でも大

丈夫やれるという自信がついてきた。

(航空時代、昭和9年11月号、「黎明訪づるる我が帆走飛行界」九大航空会 鷲

見譲次、「九大グライダーの記録飛行を観る」早大、信岡正典)

 

(空、昭和9年11月創刊号、「音もなく久住高原の空を翔る1時間半」九大航

空会 佐藤博、志鶴忠夫)

 

(科学知識、昭和9年11月号、「グライダー阿蘇号の新記録」九大助教授 佐藤博)

 

(飛行、昭和9年11月号、「1時間26分の記録」九大航空会2等飛行機操縦士、

志鶴忠夫)

 

 

 11月9日、右のようなグライダー記録の向上に尽したかどを以て、九大航空会

(代表者、九大助教授佐藤博)に床次遞信省大臣より滑空記録賞が授与された。

なお同日午後に飛行館大講堂で開かれた日本航空学会、第3回講演会では、佐藤

九大助教授の「帆走飛行の理論と実際」と題する講演があった。

 

 本昭和9年度内に、帝国飛行協会から製作費の補助を受けたグライダーは合計

9機、合計で2,450円であった。この補助規定は後々まで、日本のグライダー界

の振興に大きな力になった。

 

 この昭和9年(1934)のドイツのレーン大会では、新進のホフマンが310km、

老練のヒルトが352km、デットマーが375km飛んでいる。