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 5月16日、九州大学の佐藤博助教授は2年間にわたる独、英、仏、伊、米の留学を終え去る12日帰朝し、この日午後4時半から飛行協会講堂で(グライダーを中心としたドイツその他の国の航空界)につき講演した。

(航空時代月号、佐藤博氏の講演速記録)

(飛行7月号、「グライダーを中心として観たドイツ民間航空の現状。」青年航空7月号、題上に同じ、九州帝大助教授、佐藤 博)

(5月13日、朝日新聞、ドイツを視る、グライダー学校26、11歳から訓練、風雲に築く空の王座、社会面記事)

 5月31日、東京帝大航空研究会主催の講演会が法25番教室で3時半より開かれ、航空研究所長和田小六博士の挨拶の後、佐藤九大助教授の(ドイツのグライダー界について)講演が行われた。

 

 

6月2日、羽田飛行場で試験飛行をしていた日本小型飛行機KK製の鷲型複坐ソアラーが水平錐もみにはいり、操縦者熊谷悌司飛行士と同乗の高坂憲三航空官はパラシュートで脱出して難を免れた(高度約400mより)熊谷氏は後、中華航空の操縦士となったが、空中勤務中に殉職した。これはわが国で初めてのグライダー事故にパラシュートを使ったものであった。

 

(航空時代7月号、「離脱から九死に一生を得る迄」一級滑空士、熊谷悌司。「生死の境のスリルの想ひ出」航空官、高坂憲三)

 6月5日、午後4時から飛行館地階、中央亭で、佐藤九大助教授を囲み、「ドイツのグライダー界についての技術的座談会」が催され(協会主催)参会者約50名、盛会であった。

 

 

 7月1日、東洋麻糸紡織会社々長、寺田元之助氏は帝国飛行協会に滑空学校建設の資金として5万円を寄付した。同氏は明治14年の生れ、明治33年大阪高商の出身である。

 

 

 

 7月6日、飛行協会の理事会では、本年2月、ローマで開かれたオリンピック用グライダーの審査会に出席した佐藤九大助教授の提案により、オリンピック用として選定されたドイツ滑空研究所(DFS)設計のオリンピア型ソアラーの購入を決定し、ドイツ、ワッサークッペの山麓ポペンハウゼンのシュライハー製作所に発注した。

 

 

 

 

 7月16日から同21日まで、6日間にわたり、飛行協会、帆飛連、大毎、東日主催の第3回全日本帆走飛行競技大会が生駒山と盾津飛行場で開かれ、14名の選手と14機が参加したが、生憎天候が思わしくなく、成績は期待したほどのものが得られなかった。綜合点1位、清水六之助、2位福田秀雄、3位沢田兼一、種目別、大黒喜一(1時間8分)、距離清水六之助(佐藤式TC型、盾津深草間33.26km)であった。

 

 

 

 

 7月28日から3日間、冨士山麓朝霧高原で飛行協会、朝日新聞社主催の第2回全日本学生グライダー競技会が開かれ、14大学、15高専より、セカンダリー53名、ソアラー13名、合計66名の選手が参加した。東条英機陸軍航空總監、航空本部長は3日間熱心に競技を見、陸軍航空總監賞を出したが、これはソアラーのウインチ曳航競技の1位、同志社大の牧野伊兵衛氏がもらった。

 

 8月1日から同30日まで1ヵ月間、朝霧高原、冨士滑空場で、文部省、飛行協会、青年航空団主催の學校教員指導員滑空訓練会が開かれ、全国の中等、高専学校の先生に小数の学生を加え、全員110名が訓練をうけた。この講習会は今までにない大がかりなもので、学科講師陣も一流の大家をそろえ、岩本周平東大教授、藤原咲平博士、田中館博士、佐藤九大助教授、乗員課長千田大佐、甲斐規格課長、松浦器材課長、佐田、榊原航空官等、指導員陣は、監督摺沢大佐、主任松下弁二氏、沢田、利根川、祝、大西各滑空士、それに青空の一、二級滑空士十数人が助手として活躍した。

 

 

 8月5日より3日間にわたり、大阪の美津濃ビルで、佐藤九大助教授が講師で滑空機設計製作技術研究会が、滑空機工業組合の主催で開かれ、各グライダー製作所の設計主務者、グライダー製作の経験をもつ学校代表者たちが熱心に受講した。

 

 

 

 8月31日、三溝桃介一級滑空士は、北海道札幌飛行場で、伊藤プライマリーに乗り、ゴム索2本を縦につなぎ、40mの鋼索をたし、自動車で45歩に相当する索引力を与えて発航し高度20米に達した時、過大な速度に耐えかねたか、翼の張線が切れ、右翼が折れて飛び墜落死亡した。一説では、この以前に翼桁に異状があったともいうが、よくは判らない。

 




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