明治大正期
昭和元年
昭和2年
昭和3年
昭和4年
昭和5年
昭和6年
昭和7年
昭和8年
昭和9年
昭和10年
昭和11年
昭和12年
昭和13年
昭和14年1月~4月
昭和14年5月~8月
昭和14年9月~12月
昭和15年1月~4月
昭和15年5月~8月
昭和15年9月~12月
昭和16年1月~4月
昭和16年5月~8月
昭和16年9月~12月
昭和17年1月~4月
昭和17年5月~8月
昭和17年9月~12月
昭和18年1月~4月
昭和18年5月~8月
昭和18年9月~12月
昭和19年
昭和20年
昭和15年9月~12月

 9月8、9日、東洋金属木工会社グライダー部主任、大久保正一、一級滑空士は鳥取の浜坂砂丘で、自から設計製作したハング・グライダーの初試験を行い成功した。(航空時代10月号) 

 

 また9月には萱場式無尾翼グライダー1型が完成した。これは前の木村秀政H.K式とは大分変わっていた。(航空時代10月号、グラフ)

 

 9月20日、遞信省は民間航空団体の統合に関する声名を行い、統合措置要綱を発表した。

  

 10月1日、右の要綱に基づき、日本学生航空連盟、日本帆走飛行連盟、大日本青年航空団が発展的解消を行い、帝国飛行協会を母胎として設立された大日本飛行協会の傘下に統合した。この協会の名誉会長は内閣總理大臣公爵近衛文麿氏、会長は貴族院議員田辺治通氏、副会長は陸軍中将堀丈夫氏であった。 

 

(民間航空団体の統合)

(民間航空団体統合措置要綱)

(1)、財団法人帝国飛行協会に、その他の既存航空団体を整理統合し、かつこれを改組拡充して大日本飛行協会(仮称)を設立するものとす、

(2)、大日本飛行協会は滑空機および飛行機の操縦および技術の訓練ならびにこれが指導、国民各層を対象とする航空知識の普及、その他航空の発達に必要な諸事業を行うものとす、

(3)、政府は大日本飛行協会の事業運営に関し適当な補助金を支給し、その他所要の援助を与うるものとす、

(4)、大日本飛行協会の経費は政府の補助金、会費、寄付金等をもってこれに充つるものとす、

(5)、大日本飛行協会の指導監督に関しては関係官庁間において特に緊密なる連絡を保持するものとす、

(6)、政府は将来大日本飛行協会の事業が整備拡充した場合において、さらにその組織事業等に関し法制的根拠に基く支援を与えて、これを強化する如く措置するものとす、

(7)、政府は大日本飛行協会と同種の団体を容認せざる如く措置するものとす、

(8)、大日本飛行協会に統合せらるべき団体は航空知識の普及および飛行機または滑空機の操縦訓練を目的とする民間団体とす、

 (大日本飛行協会の事業ならびに業務)

(1)、飛行機操縦および整備訓練(主として軽飛行機)(1)操縦訓練は差当り主として高等専門学校および大学の男子学生々徒を対象とす、(2)整備訓練は右に順応して実施す、

(2)、既習操縦者の技倆保持、主として在郷操縦者に対し軽易に飛行機操縦の機会を与え、軍部等における技倆保持に協力す、

(3)、滑空訓練
(1)高級滑空機および主として青年層を対象とする滑空機による訓練を実施し、全国に滑空班を新設増加す、(2)滑空に関する研究とこれが普及ならびに指導員養成のため中央滑空訓練所を新設し、もって臨時指導員の養成を行う、(3)文部省学校滑空訓練およびこれが監督者養成を支援す、

(4)、航空思想普及のための催物の主催または援助、新聞雑誌、放送による宣伝、普及飛行、模型飛行機および落下傘の普及

(5)、民間航空事情の調査研究、航空図書の刊行、

(6)、航空機試作の奨励、援助、表彰など航空の奨励上必要な諸事業、

  

 10月2日、(駒鳥型プライマリー完成)朝日新聞社が全国中等学校に寄贈しようとするプライマリー機の原型を、福岡市の前田航研工業KKに依頼して試作中だったが、この程完成したので10月2日、福岡市外の香椎滑空場で公式テストを行ったところ、好成績を示し関係者一同を喜ばした。本機の設計製作に大変尽力した航空局の駒林榮太郎航空官にちなんで「駒鳥型」と名をつけた。本機の模型風洞実験は航空試験所で行い、性能、構造の諸計算は九大の佐藤博教授が行った。

 10月10日、大阪盾津飛行場で、オリンピア型3機の直列曳航飛行テストが行われた。アカシヤ製オリンピア(大久保滑空士操縦)この後に美津濃製オリンピア(吉川滑空士操縦)この後にドイツ製オリンピア(大黒滑空士操縦)と縦に一列につなぎ、これを九五式3型練習機(井上善一飛行士操縦)で曳航した。これはわが国で最初のグライダーの3機曳航であった。 

 

 10月17日より同20日まで、大日本飛行協会の最初の催しとして、大阪盾津飛行場で、紀元2600年奉祝滑空大会が開かれ、初級訓練は関西地区の中等学校11校により、中級訓練は大日本飛行少年団員により、高級訓練は小田勇、吉川精一、大久保正一、大黒源四郎、大西栄太郎、武久昌次、沢田兼一、清水六之助の8滑空士により実施された。あいにく気象条件が悪くて、よい成績が得られなかったが、奈良県立郡山中学の先生で最近一級滑空士になった大西栄太郎氏が19日に、弱いテルミークを巧みにつかんで1時間27分の滞空をして1等になった。大西氏は小田、吉川、大久保その他の古強者を向うにまわして、この栄冠をかち得、中等教員のために万丈の気を吐いた。高級機の競技は飛行機曳航で高度1,000mで離脱したが、テルミークが弱くて、離脱高度以上に上昇した者は1人もなかった。

 

 10月、福田軽飛行機自慢の光帆走飛行隊は小田勇滑空士の指導により数名の一、二級滑空士を出して活躍しているが、今度さらに100名の隊員を募集した。航空時代11月号、隊員募集広告によると、

 本飛行隊はわが国最大の滑空機製作工場たる福田軽飛行機KKの従業員をもって組織する団体で、隊員は将来グライダー及び軽飛行機の設計、製作、操縦に必要な技能を修得させ、工場員の幹部候補生たらしめる。

 最初の3ヵ月間初級滑空訓練をし、後各自の成績により、中級、高級訓練に進ませる。

 年齢 16歳より25歳まで

 学歴 小学校卒業以上

 定員 100名

 宿舎 隊内の合宿に収容する

 待遇 3ヵ月間の訓練期間中、月手当30円を給し、その後本俸を支給する

 申込 履歴書を持参または郵送のこと

 締切 昭和15年12月15日

指導員、小田勇一等飛行士、一級滑空士外一級滑空士2名、二級滑空士3名、

使用機、九五式3型1、三式陸練1、光式3.1型ソアラー3機、光式2.1型セカンダリー5機、同1.3型プライマリー10機。

 

 11月2日、昭和13、14年度とも懸案のまま、色々な理由で実施に至らなかった明治神宮奉納、国民体育大会の滑空訓練大会が代々木練兵場で開かれ、中等学校15校、光帆走飛行隊、上諏訪滑空団、新潟滑空団と陸軍少年航空兵の特別参加で19団体、約200名が初、中、高級の各訓練に力一杯の演技を繰り広げ、数万の観衆に大きな感銘を与えた。

 

(航空時代12月号、「神宮大会滑空訓練特集」大河原元、松下弁二、生田千年雄、各団体監督)

  

 (文部省における滑空訓練の沿革)

 昭和15年10月28日、太平洋戦争の進展にともない、学生生徒の航空訓練の強化が必要になり、この日に滑空訓練教程草案が発行された。

 昭和19年5月には、学徒航空訓練強化についての通牒が体育局長から地方長官あてに出され、学徒航空訓練実施要綱が示された。その目的は航空要員増強にあった。

 この要綱の内容はまず次の如くである。
 訓練を実施する人員は、学生生徒の約15パーセントを目標として、中学校(国民学校高等科を含む)に対しては、プライマリー訓練、(1、2年はプライマリーの分解組立、地上滑走、1m以下の滑空練習、訓練時間約50時間。3年はプライマリーの分解組立、5m以下の滑空練習、訓練時間約90時間、4、5学年はプライマリー分解組立、7m(可能な場合は斜面20m)以下の滑空練習。訓練時間約90時間で三級滑空士の技倆に達することを目標にする。なお以上の時間数の外に、つとめて30日程度の継続訓練をする。)

 大学、高専、師範、青年師範の学生、生徒に対しては、プライマリーならびにセカンダリー訓練を課し、二級滑空士程度の技倆に達することをめざし、プライマリー訓練時間は中等学校の時間数に準じ、セカンダリー訓練は40日程度の継続訓練により行う。なお高度の適性者に対しては高級滑空訓練(一級滑空士程度)および飛行訓練(中間練習機の基本操縦術)を実施する。

 学徒のグライダー訓練は、19年8月15日付で出された学徒航空適性強化体錬の通牒で一そう拍車がかけられた。

 

 滑空訓練教程

 (綱領)男子中等学校ニ於ケル滑空訓練ノ本旨ハ協同一致ノ精神ヲ体得シ心胆ヲ錬リ体位ヲ向上シ併セテ航空思想ノ涵養ト理科的知識ノ実際化ヲ図ルニアリ

 (總則)

 生徒ハ須ラク規律ヲ重ジ喜ンデ命令ニ服従シ協同ヲ尚ビ進ンデ自ラ責任ヲ盡スノ良習慣ヲ得ルト共ニ之ヲ移シテ日常ノ生活ニ及ボスベシ

 徒ラニ形式ニ流レテ事故ヲ起シ或ハ演技ノ末ニ走リテ競技化スルガ如キハ共ニ訓練ノ本旨ニ悖ル

 滑空訓練ノ実施ニ当リテハ学校長ノ周密ナル統卒ノ下ニ指導者ハ率先躬行以テ生徒ヲ教導シ生徒ハ衷心指導者ニ信倚シ関係教職員ハ各自夫々ノ立場ヨリ之ニ協力シ全校ヲ通ジテ精神的結合ヲ緊密ニシ斯訓練ノ真価ヲ発揮スルニ力ムベシ

 滑空訓練ニ於テハ国防ノ要義特ニ航空ノ重要性ニ関シ理解セシムルト共ニ国防上ニ於ケル滑空訓練ノ意義ヲ自覚セシムルヲ要ス

 

 10月、福岡のグライダー製作所、前田工作所は今度、前田航研工業と改称し、大阪市東区伏見町2ノ18に出張所を設けた。

 10月1日、日本帆走飛行連盟の清水一級滑空士は、同連盟が発展的に解消し、大日本飛行協会の傘下に加わったので、この日付で東京日々航空部を依願退社し、大日本飛行協会の中央滑空訓練所(石岡に建設中)の教務員に任命された。また極東帆走飛行連盟の利根川薫一級滑空士も同時に中央滑空訓練所の教務員となった。大日本飛行協会の訓練本部の滑空部長には青年航空団の理事であった摺沢大佐が任命された。

 

10月初め、前田航研工業の最新作、前田式703型ソアラーができた。カンチレバー、ガルウイングのスマートな機体で「今までのはまあどれもほとんど失敗でした。しかしその失敗は今度の703型で十分生きてきているつもりです」と氏が語るほど、本機は自信に満ちたもののようである。翼幅15m、翼面積14.3㎡、空重量152.6kg、搭載量77.4kg、全備230kg、翼面荷重16kg/㎡、滑空比26.5(65km/時で)、沈下速度0.6m/秒、失速速度38km/時。(航空時代11月号)

 
 11月29日から12月9日まで、山陽帆走飛行クラブでは防府市外の大平山でソアリングの練習をした。この間12月1日、同クラブの指導者、一級滑空士、平松時善氏は旭航式峯風1型ソアラーで大平山(標高630m)からスタートし、12m/秒の強風中を4時間14分の滞空をし、続いて12月8日、同クラブの堀川勲二級滑空士が同じく峯風1型ソアラーに乗り、午前11時20分、12m/秒の北西風をついて離陸し、烈しい寒さと戦いつつ午後7時40分まで8時間20分飛びつづけ、最高々度2,000mまで上昇した。終りの1時間半は完全な夜間飛行で、地上の焚火を頼りにして飛んだ。これは日本での夜間ソアリングの新記録であった。(航空時代、昭和16年1月号、「處女地大平山の帆走飛行記」一級滑空士、平松時善、二級滑空士、堀川勲、山陽帆走飛行クラブ代表者、山本登)山陽線の三田尻駅から東北の方を見ると、一番高くて、穏やかな姿の山が大平山(標高631m)であり、これは西へ向って半円形の屏風のように立っているから、東風でなければ、どの方向の風でもソアリングができる。ソアリング・コースは小刻みに使えば約2km、大きく使えば約4km、防府市から頂上まで約4kmの近い所にある。東海道線、山陽線を通じて、一番鉄道に近くて、一番格好のよい山が大平山で、山陽帆走飛行クラブを防府市に作った理由もここにある。12月8日、強い風の音に目をさまし、急いで支度をして、重いパラシュートを背中に、大平山上へと急いだ。疲れてはいけないと途中幾度も休みながら上がったので、頂上に着いたのはもう9時過ぎだった。前日立てておいた吹流しが千切れるばかりに吹いている。シャツを4枚、ジャンパー、もも引、スキーズボン、靴下3枚に飛行靴、手袋2枚、痩せた身体も丸く太って坐席に押し込まれ、午前11時20分、平松時善(子爵)の号令と同時に軽いショックを身体に感じたと思うと山頂を出発し、昇降計示度3から4m/秒、そのまま揺られながら上昇を続けた。大平山から東北に連る峯に沿うて飛ぶと大平山の西斜面をなめてくる風の影響か、ひどく気流が悪く㊉㊀5m/秒で上下左右にガブられる。高度計は700mあたりを上下するばかりで、なかなか上昇しない。そこでまた大平山に引返えそうとしたが、向い風が強くて一向に前進しない。やっとのことで北西斜面にとりついて800mに上った。ここでしばらく粘っていたが、やはり浮き沈みをくりかえすばかりで、一向らちがあかないので、北方にのびる新らしい斜面にとりついてみようと考えた。時計をみると正午で、かまぼこを頬張りブドー酒を飲む。そして機首を北方に向けて80km/時で突進した。バリオメーターは2を示し、ついに1,500mまで上った。しばらく頑張っていると2,000mになったので調子にのってあちらこちらうろついているうちに、今度は160mまで下がってしまった。出発からまだ3時間しかたつていない。あちらこちら上昇風を探して歩く。突然機がグラグラっと揺れて、昇降計は思い出したようにプラス3m/秒を指した。遠い雲が段々下に見えてきた。機は一点に整止して微動だもしない。高度は2,000mを上下している。やっと5時間を過ぎた。まるで冷蔵庫に入れられたように寒い。大平山から北方5kmのあたりまで行ってみたが高度は大して下がらない。そこで今度は西の方に4kmばかり出かけてみたところ、高度は下がる一方、1,200mに下がったので、また元に戻って1,900mに上がった。時計を見ると5時半で、西の空が真赤に焼け、街の灯がパノラマの豆ランプのようであった。7時を過ぎると風は大分弱まったようだ。いよいよ着陸を決心して着陸予定地に向かう。力いっぱい「降りるぞー」と声を張り上げ、着陸場の中央あたりに2ヵ所に焚かれた焚火の中間めがけて進入した。足腰がひどく痛み、頭痛がし、指先が軽い凍傷にかかっていた。
 

 

 

 

  
 12月17、8日、福田軽飛行機KKでは遞信省航空局の試作命令でHT3型中型旅客機の60パーセント実物模型グライダーを作りその試験飛行を、この両日大阪第2飛行場で小田勇滑空士の操縦で行った。この種の実験用グライダーを作ったのは日本ではこれが初めてである。HT3型は航空局が日立航空機に試作させている双発中型旅客機(乗員2名、乗客8名)である。航空局の実物模型滑空機の試作目的は「飛行機模型の風洞実験は、飛行機のグライダーとしての性能を測定するものなるが、これに対し寸法効果の的確なる影響については、今日なお相当に疑問の点あり。加うるに実物にありては、このほか更にプロペラの影響を加入するため、その複雑性は二重三重となるも、これが的確なる解析は航空機設計上の重要事項の一なり。よってグライダーとしての実物実験によりて寸法効果とプロペラの影響とを分離せしめて、相互の影響を解析せしむることを目的とする本試作は、わが国では嚆矢のことなり」つまり実物模型グライダーに人が乗って飛行することにより、風洞実験のデータを補正し、操縦性の研究をするのが目的である。(航空時代16年1月号)
 


 12月22日から同28日まで1週間、中央乗員養成所では、飛行機操縦の基礎教育に滑空訓練を入れるので、教官8名に正規の滑空訓練法を講習させるために、航空局から佐田航空官、文部省から松下指導官、小島滑空士、山梨航空技術学校の篠田滑空士、光帆走飛行隊の小田滑空士らが教師となり、乗員養成所教官の講習会が開かれた。使用機は光式6.1型複座ソアラー、オリンピア光式3.1型(ゲッピンゲン1型)であった。
  

 

 

 

 青年航空団が解消して大日本飛協に合併されたので青航の機関誌「青年航空」は「滑空日本」と改題して12月号から発刊された。1部20銭である。


 12月2日、東日航空部(日本帆連)にいた近藤完一級滑空士は、この日から千葉県松戸の中央乗員養成所にグライダー係員として勤務している。

 

 12月初旬、冨士山飛行などで優秀な成績をあげた遞信省試作機の国産オリンピア機は破損した伊藤飛行機製を除いて、他の4機は中央乗員養成所に召集されることになり、福田軽飛行機製、日本小型製、美津濃製、東洋金属木工製それぞれ松戸に送られた。

 スパン12.15m、翼面積16.4㎡、自重250kg、搭載量100kg、全備350kg。

12月2日から同29日まで、大日本飛行協会では、州崎飛行場で職員の技倆保持のため飛行訓練や整備作業を行った。飛行機訓練に参加したのは、清水、利根川、天野の一級滑空士と土屋、佐野、筒井の3氏で教官は沢田兼一、小川健爾の両一等飛行士。滑空訓練を受けたのは発展的解消をした青年航空団からきた一、二級滑空士11名、教官は清水、利根川、沢田の一級滑空士であった。
 


ホーム滑空史年表貴重な資料人物探訪滑空機探索(国内編)滑空機探索(海外編)誰も語らない日本記録工作塾図書室リンク気になる1枚の写真砂丘は知っている動画月刊誌航空朝日