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明治大正期

明治42年(1909)

 フランス大使館付武官、ルプリエー海軍中尉は、相原四郎海軍大尉の協力で、竹の骨組みの複葉グライダーを作り、12月26日に上野不忍池端で自動車曳航で試飛行をした。まずル中尉が乗って約20m滑空し、続いて相原大尉が乗り出発したが、離陸直後、Y索の片側が切れて池の中に飛び込み機体を壊した。これが日本でグライダーが作られて、とにかくジャンプした最初であった。

 

 

明治43年(1910)

  伊賀氏広男爵は自作の単葉グライダーで、自動車曳航で1米の高度を約15m飛んだとのことである(東京板橋競馬場で)。またこのころ小島四郎氏も自作のグライダーに乗り、自動車曳航で約5mの高度に上がったとのことである(代々木練兵場で)。この年の12月19日、代々木練兵場で、徳川、日野両大尉がファルマン式複葉、グラデー式単葉飛行機で日本最初の飛行をした。

  アメリカのライト兄弟は、1903年末に動力付きの飛行機に成功した後も、グライダーで実験をやっていたが、1911年には弟のオービルは、9分45秒ソアリングした。この記録は、それから10年も破れないでいた。

 ※ 日本民間航空史話、(13頁)伊賀式飛行機、参照

 

 

大正3年(1914)

この夏、九州の高千穂中学4年の黒田正夫氏が、ライト式複葉飛行機に似たグライダーを作り、人が引綱を引いて飛ばせようとしたが、うまくいかなかったようである。

 

 

大正5年(1916)

仙台の田中省己氏は自作の単葉グライダーで何回か滑空を試みたようである。

大正9年(1920)~外国~

  第一次大戦の後、ドイツが疲弊し意気消沈している時に、雑誌「フルグシュポート」の主幹オスカー・ウルジヌスは、国内の青年に呼びかけて、この年の7月ワッサークッペ・レーンにグライダー大会を催した。最高記録はアーヘン大学生クレンペラが自作の黒鬼号(シュワルツァ・トイフェル)で2分間、1,830mの距離を飛んだ。

 

大正10年(1921)

 東京帝大航空研究所(深川区越中島)で、小野正三助教授は進藤、山崎氏らの助力を得て、ドイツのヘンツエン機によく似たグライダーの制作に着手した。予算経費2,000円であった。しかし残念なことに、本機は完成間際になって、大正12年9月1日の関東大震災にあい焼けてしまった。小野氏は日本でグライダーを学問的に研究した最初の人であった。

大正11年(1922)~外国~

  第3回レーン大会では、飛行将校だったハノーバー工大の学生マーテンスはバンピア号で1時間6分、翌日は彼の学友ヘンツェンは同じ機体で2時間10分、さらに数日後には3時間6分飛んだ。これは当時は奇蹟としか思えぬことだった。こうして斜面上昇風による本格的なソアリングが始まった。

 

大正14年(1925)~外国~

 大戦中は飛行中尉だった東プロシャの小学教師シュルツは、この春、近くのロジッテンの砂丘で、手製のプライマリー「箒の柄号」ベンゼンシュチールで8時間42分の世界滑空記録を作った。

 

大正13年(1924)~外国~

 この3年間レーンは不振であったが、仏国のボービルの丘では10時間28分、秋のロシアのクリミア大会ではドイツのシュルツが12時間6分もの好記録を出した。

 

 


 

 


 

 



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