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昭和5年(1930)

  所沢陸軍飛行学校教官、藤田中尉は中学生時代からグライダーの研究をしていたが、この年の春、英国のディクソン型に似たプライマリー機を作り、所沢で飛ばしてみたが、曳航法がまずくて、うまく飛ばなかった。しかし後に磯部氏の日本グライダー・クラブがこれを譲り受けて、ゴム索発射で長く練習に使った。(昭和13年、航研機で世界周回距離記録を作り、後に中支の空で戦死した藤田雄蔵中佐)

 

  予備海軍少佐、磯部吉氏は外国雑誌の図面を基にして、ドイツのツェクリン型プライマリー機を作り、この年の5月11日、所沢飛行場の一隅で、片岡文三郎飛行士の操縦で試験飛行に成功した。この時の記録は滑空距離約70m、高度5m、滞空時間8秒であった。これが日本で初めての、うまくいったグライディングであった。そこで磯部氏は奥平俊蔵予備陸軍中将を会長にして、日本最初の滑空団体(日本グライダー倶楽部)を創立した(6月1日)。前記のプライマリーをクラブの練習に使うには堪航証明書が必要なので、7月13日に磯部式練習用1型の検査飛行が茨城県鹿島の砂丘で航空官立合で行われた。
 滑空時間20秒、距離170m、これで7月17日に航空局から同機に日本最初の滑空機堪航(今日は耐空)証明書が交付された。こうして同クラブでは練習生に応募した数人が9月6日から、東京板橋の競馬場にあった遠藤飛行場の一隅で練習をはじめた。こうしてどうにかプライマリーで飛べる者が5人ほどできたので、10月4日に東京駒沢練兵場で日本最初の公開滑空飛行会を催したところ5,000人の観衆を集めて盛会であった。この日はプライマリーをゴム索発航だけでなく、自動車で直接曳航に成功した。プライマリーの主橇の下には小供用自転車の車輪を2つ取付けた。続いて同クラブは、藤田中尉のプライマリーを貰い受けて練習に使い、練習所も東横電鉄沿線の川崎市外、新丸子の多摩川畔に移した。
 わが国の滑空界は、このようにして昭和5年の夏の日本グライダー倶楽部の設立によってスタートを切ったと考えてよく、磯部吉氏のグライダー界の先覚者としての功績は、わが滑空人たちの忘れてはならぬ大きなものである。


昭和5年(1930) ~外国~

 積雲や雷雨前線の上昇風が利用されだし、この年のレーン大会では、クロンフェルト164kmの距離記録を出した。こうして久しい間、斜面の上空に限定されていたグライダーの活動領域は、平地の上まで拡がり、これまでは滞空時間が主であったグライダーの記録が、これからは、空間的に、即ち距離や高度に格段の向上を示してきた。この年には、各国が協力して滑空界の発達を計ろうと、ダームシュタット工大のゲオルギー教授を会長として国際滑空研究委員会(ISTUS)ができた。

ドイツのヒルト氏は、この年の秋、アメリカのエルマイアの大会に指導に行って、全く雲もなく晴れ渡った日に、初めて急旋回法によって熱上昇風(テルミーク)を捕えて高度をとりつつ数十キロの飛行をした。このテルミーク中の急旋回上昇法が、ソアリングの画期的な進歩をもたらしたのである。

なお昭和5年の春、アメリカのホークス大尉は、グライダーを飛行機に曳航させて、途中20回着陸して、8日間でサンディゴ、ニューヨーク間、4,000kmの米大陸横断飛行をした。




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