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昭和8年(1933)

 4月に、西日本グライダー倶楽部(岡山)の創立者、山本勲氏は、鳥取の浜坂海岸の砂丘で自作のセカンダリーに乗り約4分滞空した。これが鳥取砂丘で初めてのグライディングだった。

 

 

 

 6月9日、中等学生の手で出来た初めてのプライマリー機「京工式1型」の試験飛行が、木津川滑空場で清水六之助氏の操縦で行われた。これは京都市立第一工業学校の倉橋周蔵教諭が日本グライダー連盟の依頼で生徒を指導して作ったもので、これを購入した連盟は「鵬号」と名づけて、座席にナセルをつけて、いわゆるプラセコにして使ったこともある。7月2日に清水氏は、このプラセコで、奈良電車沿線、三木山駅東方の300m高地から出発して、6分56秒滞空の好記録を作った。

 

 

 

 

 

 昭和8年6月号「科学知識」本邦滑空界の過去と将来、期待すべきグライダー、日本グライダー連盟、中正夫によると現在のグライダーの世界記録は下の通りである。

 

 

 

 

高度2,589m(オーストリアのクロンフェルト)

 

周回距離、456km(ドイツのシュルツ)

滞空時間、21時間34分(アメリカのコッケ)

宙返り、115回(露のステパンテノク)(注-ロシア)

グライダーで英仏海峡横断(オーストリア、クロンフェルト)

 

 

 

 九大では昭和7年の夏、8分34秒の日本記録を作った十文字号セカンダリーに引続き、目下製作中のソアラーは、翼長15m、カンチレバー翼で、大変スマートなもので、滑空比20対1、沈下毎秒0.7mの優れた性能を持っている。おそらく本機は1時間飛行の新レコードを出すだろうと信じられている。

 

 

 

 

 

 グライダーの発達は、練習クラブが各地にあって、競ってレコードを争うようになれば、日本の滑空界も、やがてはドイツ、ロシアの如く盛んになると思われる。グライダー練習所の経費は飛行場などに比して、はるかに低廉でグライダー1台、500円、出発用ゴム索太さ15mm、長さ50m、150円、修理費200円、広告宣伝費150円、合計1,000円もあればまず50名位の練習生を養成しうる。従って生徒からは1名20円ずつ出させるとか、あるいは1回50銭の練習費をとるとか、ごく手軽にグライダー・クラブを組織することができる。

 

 

 

 

 

 

 

 7月23日、霧ヶ峯グライダー研究会では技術主任、白石襄治氏が作った霧ヶ峯第1、第2、第3号の3機のプライマリーで霧ヶ峯山上で練習を開始した。続いて30日の日曜には盛大に開場式を行った。8月27日に、1ヵ月にわたる夏期練習会を終わったが、この間に、20名の参加者が400回の飛行練習をし、A章2名、B章1名が生まれた。

 

 

 

 

(航空時代、昭和8年10月号、霧ヶ峯グライダー研究会の現状、会長、理学博士、藤原咲平)

 

「まず片倉合名会社、土橋善一郎氏から多額の寄附を載き、これを基礎にして第1期寄附總額3,100余円を得て、グライダーの建造に着手し、中2.000円をかけてグライダー3台を作りまたゴムコード3本を購入した。一方地元の上諏訪町に依頼し格納庫や炊事場などの建造物を得た。

 グライダーの製作は白石君の指揮のもとに、中沢、寺平両青年がこれに当たり、無事に航空局の検査にも合格した。また格納庫は白石君の設計を基礎にして宮坂町長以下の好意によって上諏訪町で建築してもらった。

 こうして7月19日に東京から3台のグライダーを霧ヶ峯に輸送し、7月23日より練習にとりかかった。開場式は都合により7月30日の日曜日に挙行し、石田航空官その他地方の有力者約300名臨席のもとに盛大に終わった。その後練習を続け、8月27日閉場するまでに練習生20名を養成した。

 今後の計画は東京付近に新たに練習場を設け、A級の練習は主としてそこで行い、霧ヶ峯には少なくともソアラー1台、セカンダリー3台、プライマリー2台を備えつけることにしたい。

 昭和8年度の練習費は特別をもって非常な割引をしたが、それでは経済が続かぬから、この秋からはA免状を得るまでの練習費は30円と定め、免状を目的とせず臨時に試乗する向きからは、1日の練習費1円を申し受けることにしたい。勿論これだけ取っても収支は償わないが、十分に取れば練習生が無くなる恐れから止むをえない。」

 

 

 

 8月15日より同28日まで、九大および九州航空会は、前年8分34秒の記録を作ったセカンダリー十文字号と、新作の練習用ソアラー「阿蘇号」とで、佐藤博助教授指揮のもとに熊本県の阿蘇山上で練習をした。

 

 

 阿蘇号は、高性能を主眼としてものではなく、専ら練習用ソアラーとして計画されたものであり、従って阿蘇のような嶮岨な山地への輸送や取扱、格納の便を考慮して、機型を極限に縮小している。滑空速度を比較的大きくし、構造は極めて堅牢にしてあるので、強風中のソアリングに、また急降下、宙返り、錐もみなどの簡単な曲技の練習に、また自動車、飛行機曳航スタートにも適する機体である。

 

 本機の要目は、スパン10m、全長5.5m、翼面積13.5㎡、アスペクト比7.4、翼型ゲッチンゲン580、空重量90kg、乗員70kgとして、全備重量160kg、翼面荷重11.8kg/㎡、沈下0.92m/秒、滑空比15対1、この時の速度57.5km/時、着陸速度43km/時。

5月半ばから設計を始め、6月の初めに着工し(九大、造船学実験工場で)1,200人時の工数と約600円の工費をかけて、8月中旬に完成した。

 火口から西方3kmの草千里を根拠地とした。ここは標高1,100m、直径800mほどの浅い盆地で、セカンダリーの練習は、この盆地の中央にある小丘陵を使った。盆地だから風の強い日は、周辺から吹き込む下降気流によって、機体は地面にたたきつけられることが、しばしばあった。夏はこの辺一帯は南西の風が多く、午後は毎日のように驟雨か、それでないと霧が襲来した。阿蘇号の検査飛行には福岡飛行場長、松浦四郎航空官(現法政大学工学部長)にわざわざ山に登ってきてもらった。

 8月27日、阿蘇号を草千里の西北にそびえる杵島岳の西斜面(標高1,300m)からスタートさせようと、正午近くに機をスタート姿勢に据えて、一同一息入れていると、にわかに暴風雨と寒さを倶って襲いかかってきた。恐るべき積乱雲に捕えられたのである。シャツ1枚になって滝なす汗をふきながら機を運んできた十数名は、今は凍死せんばかりの寒さに生色もなく、機を吹き飛ばされまいと鉄棒を打ち込んで繋留し、弾丸のように跳びかかる雹を避けながら、一団となって翼柱にぶらさがって必死にアンカーメンとなっていた。大自然は数十分、猛威をたくましくしたが、ようやくのことで、雲はやや薄くなり、風も大分衰えた。しかし前面を見れば、まだ次々に雲が襲来しそうなので、この機を逸してはいけないと、正午に志鶴教官操縦で阿蘇号を出発させた。

 「放たれた機は矢のように西南の空に急上昇し、一旋回ごとに高度を増し、同志の姿も杵島の頂上も、はるか下方に沈んでしまった。目には見えないが、しかし強力なエネルギーが、完全に機を押し上げてくれる、今までに空中で感じたことのない優越感と機の性能に対する強い信頼が大きな喜びを胸にみなぎらした。阿蘇五岳の緑と起伏はむろんのこと、凄惨そのもの噴火口も、今日は何という不思議な美しさだ。

 さらに旋回を続け、すでに杵島の頂上より約80m上昇した。旋回中追風に入ると、機速は著しく増加して、山上をのり越すような気がして自然、旋回が急になった。この瞬間、不意打ちに強い突風に横からあおられ、いきなり機首を下げ、左旋錐もみに陥った。山腹まではもう150mもない、一旋転した時、思いきって右錐もみの操縦をした。赤黒い熔岩の壁が眼前に回転した。この錐もみはちょうどアブロ練習機と同じようなものだと感じた。3旋の後、回転は止まった。もはや右翼が山腹を雉ぎ払うとみたので、舵を中位にもどすと同時に、力いっぱいに上げ舵を引き左のエルロンを切った。瞬間、何とした奇蹟か、物凄いうなりをあげて急降下していた機は地上数メートルの所で、恰もピッケを終えた戦闘機のように、猛然と機首をもち上げ、双翼は再び強い風を捕え、急上昇を開始した。驚いている皆を安心させようと、左旋して出発点上に行って、機上から手を振るが、誰も応ずる気配もなく、ただ呆然としているようだ。

 高度はたちまち、杵島岳の頂上より高くなった、機首を北方に向けて積雲に入った。山近くのことで気持ちが悪く、中を用心して旋回しているうちに、間もなく雲から出たので、機首を西方、外輪山の峡谷の方に向けた。驚いたことに、機は強い向い風のために、少しも前進せず、全く凧のように宙に止まっている。出発してから約8分たつていた。

 斜面を離れ過ぎたので杵島、往生の山々に別れを告げ、西方外輪の方に前進を続けた。途中は大変錯雑した波浪のような地形で、気流が悪く、大分ガブられた。まだいくらも進まぬのに、ふりかえると杵島の頂上は、ひどく高度を増しているのに失望する。長陽丘上の京大火山研究所の上では、もう100m位しか高度がなかった。鰐の牙にも似た岩の折り重なる黒川の溪谷を、不安のうちに40mの高さで過ぎた。前方は東洋一の高い架橋のある、深い立野の火口瀬である。五つも水力発電所のある峡谷は、蜘蛛の巣のような高圧線でおおわれ、この両岸の山腹は、狭い水田が階段を作っている。

 いよいよ森で前方が見えない高度になったので着陸を決心し、家や森や電線を左右によけながら、立野駅から約1キロの水田に、全く速度を殺して降りた。田の幅は阿蘇号のスパンより狭くて左翼は2mも低い下の段の田の上にさしかかっていた。杵島岳の出発点から立野の着陸地点までの水平距離は約8km、高度差950m、この間の20分の飛行は、わが国で最初の本格的な斜面上昇風ソアリングであった。(航空時代、昭和9年1月号、「大阿蘇帆走飛行の思い出」九大助教授 佐藤 博、九大航空会教官 志鶴忠夫)



昭和8年(1933) ~外国~

 今までグライダーの発達に大きな貢献をしたレーン・ロジュテン協会は発展的解消をし、「ドイツ滑空研究所」DFSができた。

 8月には無名の滑空士クルト・シュミットは東プロシャの海岸で、手製のグルナウ・ベビーに乗り、36時間35分という驚異的な滞空記録を作った。



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