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昭和9年(1934)

 前年の暮れから、この年の1月にかけて、霧ヶ峯グライダー研究会では、プライマリー機に雪橇をつけ雪中で練習した。

 

 

 4月1日、帝国飛行協会は、グライダー製作費補助規定を設け、1機につき300円以内の補助をすることにした。

 

 

 

 6月には東京飛行少年団ができ、杉並区上井草の運動場でグライダーの練習を始めた。

 

 

 

 

 7月15日から9月7日まで、霧ヶ峯グライダー研究会の夏期練習が行われた。機体は霧ヶ峯、1、2、3、4、5号の5機で、4号は同会の標準型練習機として新造したもの、5号はホールス・デア・トイフェル型のセカンダリーである。この期間中に、報知新聞社の吉原清治飛行士がドイツの本場仕込みの指導をし、また同会技術主任・東大航空科講師の榊原茂喜樹氏は自分で設計した加速度計で、グライダーが飛行中にうける、上下、前後方向の加速度を記録した。最終日9月7日に鵜飼照彦氏はトイフェルで、カボッチョ頂上からスタートし、16分半の滑空後、出発点より南方6kmの水田に降り、霧ヶ峯滞空記録を作った。(雑誌、空、昭和9年11月創刊号、今年の練習で感じた事、霧ヶ峯グライダー研究会、鵜飼照彦、参照)

 

 

 

 この春から活動し始めた愛国グライダー連盟は、7月下旬に東京三越でグライダー展を催し、8月12日から28日まで、三原山の火口原で会員14名で遠征練習をした。21日に清水緑教官は外輪山から大島茶屋前の広場まで、直線距離にして約3.2kmを6分13秒の飛行をした。(雑誌、空、昭和9年11月号、「御神火を背に猛練習」愛国グライダー連盟、清水緑、参照)

 

 

 

 8月27日から半月間、九州帝大航空会では、大分県、久住高原で滑空練習をした。参加会員16名、使用機体は、前年阿蘇で20分の記録を作った練習用ソアラー阿蘇号と、九州航空会の前田建一氏が貸してくれたプライマリーの2機であった。

 

 

 このプライマリーは旺盛な研究心と実行力に富む前田建一氏が苦心研究して、全翼面を良質の日本紙で張り、カラ傘と同じに桐油で仕上げた、いわゆる紙張実験機であった。練習に使っている間は、連日連夜、野外に繋留し雨露に晒していたが、少しも損傷せず、立派に使えることを実証した。

久住山(標高1,788m)は九州本土での最高峯で、九州の屋根といわれているが、一行はここで高山ソアリングを実験しようと、阿蘇号を解体して、9月6日に山上に運搬した。しかし二百二十日が近づくにつれ、日々悪天候続きで、雲霧は深く山頂を包み、全く視界を閉ざし、5日間、毎日山上に通って待機したがついにスタートできなかった。

9月11日になって、天気がやや回復しかけたのに勇気づけられ、今日こそはと励まし合って早朝から飛行準備をととのえた。連日峯々を閉ざしていた暗雲は次第に溶けて散った。脚下には目がさめるような緑の大草原が海原の如く果てしなく広がった。ついに待ちに待った時がきたのだ。

 午後0時37分、志鶴教官の操縦する阿蘇号は5米の西風中に全員の力の限りに引張ったゴム索に発射されて、矢のように1,650mの肥前ヶ城高地を飛び立っていった。しばらくこの高地の南斜面上を旋回していたが、状況があまり有利でないと思った志鶴氏は、この南方の扇ヶ鼻台地(1,522m)に進出し、往復旋回を開始した。だが初めのうちは、容易に高度がとれず、しばらくは斜面すれすれに、大変な苦心で旋回を続けていたが、そのうちに、ようやく、よい上昇風帯が確実につかまり、一旋回ごとに高度が積上げられていった。こうして扇ヶ鼻台地の上空100から160mの所を、この斜面に沿う約1kmの長さのコースを1分半乃至2分の周期で約1時間往復した。

 斜面上で測った風速は常に5m/秒内外だったが、志鶴氏の報告によると、上空の風速は少くとも10m/秒内外に感じられ、気流は始終、突風的で操縦は困難を感じ、ことに時々来襲する雲の中に突入すると、風速はさらに増大し気流は著しく乱れ、かつ全く視界が断たれるので、自然高度を落として雲を脱出しなくてはならぬことが、しばしばあったが、雲が通り過ぎると直ぐに高度を回復することができたとのことであった。

 こうして48回の旋回を続け約1時間飛行した時、大きな暗雲が襲来し、この中に飛び込んで飛行を続けるのは大変危険だと考えた志鶴氏は、上昇風帯を捨てて雲の下に逃れ、針路を東南方にとって、追風で約10km飛行し、根拠地の上空に帰って、付近の丘の上を旋回すること4回、午後2時03分、宿営から南方500mの高原に無事着陸した。こうして飛行時間、1時間26分、周回飛行路約70kmの新記録ができたのである。この飛行によって、わが国の斜面風ソアリングの基礎ができたと考えてよく、これまでは、日本のような地形、気象条件では、グライダーはだめではなかろうかと危ぶまれていたのがこの飛行によって、日本でも大丈夫やれるという自信がついてきた。
航空時代、昭和9年11月号、「黎明訪づるる我が帆走飛行界」九大航空会 鷲見譲次、「九大グライダーの記録飛行を観る」早大、信岡正典)

(空、昭和9年11月創刊号、「音もなく久住高原の空を翔る1時間半」九大航空会 佐藤博、志鶴忠夫)

(科学知識、昭和9年11月号、「グライダー阿蘇号の新記録」九大助教授 佐藤博)

(飛行、昭和9年11月号、「1時間26分の記録」九大航空会2等飛行機操縦士、志鶴忠夫)


 11月9日、右のようなグライダー記録の向上に尽したかどを以て、九大航空会(代表者、九大助教授佐藤博)に床次遞信省大臣より滑空記録賞が授与された。なお同日午後に飛行館大講堂で開かれた日本航空学会、第3回講演会では、佐藤九大助教授の「帆走飛行の理論と実際」と題する講演があった。

 

 

 本昭和9年度内に、帝国飛行協会から製作費の補助を受けたグライダーは合計9機、合計で2,450円であった。この補助規定は後々まで、日本のグライダー界の振興に大きな力になった。

 

 この昭和9年(1934)のドイツのレーン大会では、新進のホフマンが310km、老練のヒルトが352km、デットマーが375km飛んでいる。



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