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昭和10年

昭和10年(1935)

 1月1日から5日間、霧ヶ峯グライダー研究会では、筑波鉄道、報知新聞社の後援で、筑波山上でグライダーの公開飛行を行った。吉原、鵜飼の両氏が交々霧ヶ峯六(日土)号と伊藤式四号で山頂から6回スタートし、最高13分15秒の滑空をした。

1月19日、飛行館で開かれた航空学会の第4回講演会では(滑空機の加速度について)東大航空科講師、榊原茂樹氏。(滑空機の抗捻力主桁の捩り試験について)航研技手、山崎好雄。(滑空機の練習について)日本光電管研究所、白石襄治。の講演があった。

  

 
 

 2月11日、浦和の上村秀二郎氏らが主唱者となり日本滑空少年団ができ、川口市船戸原で発会式が行われた。霧ヶ峯グライダー研究会が援助して、当日、プライマリー練習や公開飛行をした。  


   2月24日、霧ヶ峯グライダー研究会は再び筑波鉄道と報知新聞社の後援で筑波で公開飛行をし、吉原、鵜飼の両氏が4回飛んだが、順風に恵まれず、比較的平凡に終わった。 
 

 

   3月17日、霧ヶ峯グライダー研究会では上井草運動場に、平地練習場開きをした。これからは毎日曜、祭日に東京地方の会員がここで練習できるようになる。

   
4月1日、帝国飛行協会は、※「グライダー飛行証」を発行した。
  なおこの月には京都市立第一工業学校にグライダー部ができた。
   4月28日、霧ヶ峯グライダー研究会は3度目の筑波山気流調査滑空を行い、鵜飼氏は新造のセカンダリー、筑波1号で24分、吉原氏はプライマリー、日土二号で22分飛んだ。この日は高松宮殿下が林陸相のお伴で筑波山においでになり、グライダーの飛ぶのをご覧になった。
 

 

 一,二,三級グライダー飛行証規定

(三級グライダー飛行証)6ヶ月以内に30回以上の飛行を終了し、その内、滞空時間22秒以上の飛行を3回以上行い、更に滞空時間30秒以上の滑空を1回行った者。

 

 

(二級グライダー飛行証)三級合格者が、20回以上の飛行を終了し、このうち45秒以上の飛行を3回以上行い、更に滞空時間1分以上で、S字形旋回飛行を1回行った者。

 

 

(一級グライダー飛行証)二級合格者で、20回以上の飛行を終了し、その内、5分以上の飛行を10回以上行った後、8字形旋回飛行及び出発点着陸を各1回行い、その後、出発点より高く5分以上の飛行を1回行った者。

 

 

  5月12日、大毎、東日新聞社の提唱による「日本帆走飛行連盟」が結成され、盾津飛行場で記念グライダー大会が開かれ、志鶴、清水、山本の諸氏が交々軽快巧妙なグライディングを公開した。(会長は荒蒔義勝陸軍中将)この連盟の結成当時の参加クラブは僅か9つにすぎなかったが、これから各地にグライダー・クラブが生れて、この年末には28クラブが参加してきた。

  

(日本民間航空史話、日本帆走飛行連盟の創立とヒルトの来日、松下弁二 参照)
 

  5月19日、志鶴氏は
九帝五型「阿蘇号」で生駒山上ケーブルカー駅横の狭い空地から奈良県の方に向ってゴム索スタートし、大きく左に回って生駒を越し、盾津飛行場に着陸した。これが生駒でグライダーを飛ばした最初であった。なお志鶴氏は帆走連盟結成の直前に、大毎航空部嘱託となった。

  
 これに続いて同連盟の関東支部は、箱根十国峠の「盗人厩」で練習会を催し、清水六之助教官がセカンダリー機で気流調査滑空をした。

 

 6月6日、日本帆走飛行連盟は、盾津陸軍飛行学場で、グライダーの自動車曳航テストに成功した。志鶴氏搭乗の九大の阿蘇号の機首に直径3mm、長さ200mのワイヤ・ロープを連結しこの他の端を自動車につけて、ちょうど凧をあげるようにグライダーを引上げるのである。阿蘇号は高度70~80米上った所で曳索から離脱し自由滑空して着陸する。これがわが国で初めてのグライダーの自動車曳航だった。

 

 

 6月18日、日本帆走飛行連盟ではグライダーの自動車曳航に引き続き、グライダーを動力付の飛行機で曳航飛行する、いわゆる「空中列車」のテストに成功した。大毎航空部員、松下弁二飛行士搭乗の一三式陸上練習機(国粋義勇飛行隊第23号機)の尾橇と、志鶴忠夫氏搭乗の阿蘇号の機首を、太さ3mm、長さ150mのワイヤロープで連結した空中列車は午後3時29分、盾津飛行場を離陸し、梅雨晴れの青空を、250mの高度を保って一路大阪へ向かった。城東練兵場から天守主閣の南を横切り、北浜、道頓堀の上空を過ぎて、再び盾津飛行場に帰り、上空で阿蘇号は曳航索を離脱し、3時55分着陸した。飛行時間は26分だった。これはわが国、最初のグライダーの飛行機曳航だった。

 

 

 6月20日、羽田飛行場で朝日新聞社、航空部長、河内一彦一等飛行士搭乗の朝日式1号ソアラーを、小俣飛行士の乗った石川島R3型練習機で曳航テストをした。曳航索はやはり150mであった。一時はソアラーが125km/hもの速度を出し、高度もグングン上って、飛行機の上に重なるような姿勢になったことがある。

 

 

学生航空連盟に滑空部が設けられたのは、このころのことである。
  朝日式1号ソアラーは、※東京ガス電気工業会社の村山、川口両技師の設計で、朝日航空部員が協力して作ったものである。※(これは日立航空機会社の前身)村山尭氏は現在、防衛大学、航空学科教授。

 

 6月下旬、かねて筑波山で待機中だった報知新聞社の吉原清治飛行士は、南々西の強風に乗って風返し峠から飛びだし、1時間01分の好記録を作った。これは関東で最初の1時間を超したソアリングであった。

 

 

 7月21日から8月9日まで、20日間にわたり、日本帆走飛行連盟関東支部は、東京日々新聞社と共催で、上越上の原高原で、大きなグライダー講習会を開いた。この参加者募集の広告をみると次のようなことが書いてある。

 

 参加資格は15才以上の壮健な男女子に限る。本講習を終了した技術優秀な方は、帝国飛行協会の規定するグライダー飛行証の交付手続を主催者側で申請します。

(講師)帝国飛行協会總務理事、陸軍中将、四王天延孝。東京グライダー研究会長、男爵、奈良原三次。日本帆走飛行連盟相談役、東京帝大講師、榊原茂樹。日本帆走飛行連盟理事、東大航空研究所、山崎好雄。東京グライダー研究会理事、伊藤音次郎。東大航空研究所、伊藤喜代平。

(指導員)等飛行機操縦士、安岡駒好。同、黒沢健。同、武中政次郎。等飛行機操縦士、今井仁。一級グライダー飛行証所持者、清水緑。助手、肥田木文雄、早川静雄。

(参加金)1円、(講習料)2円

1コースが10日間で、2期20日間に約100名の受講者があった。

 

 

 8月25日から9月10日まで、九大航空会は、佐藤博助教授指導のもとに、新たに製作した「九帝七型」ソアラーの飛行実験を、阿蘇大観峯付近の外輪山で行った。このあたりは内部盆地から約450mの高さの、十数kmにわたる南に開く円弧状の連丘になっているから、これに南がかった風が吹けば、絶好のソアリングサイトになる。        

 九帝七型ソアラーは、佐藤博助教授指導のもとに、設計は鷲見譲次、高木基雄君らにより、製作は造船科の実験工場で石川、田中丸両君の手で、川崎忠三郎、松岡康光君らの督励のもとに行われた。着工は昨夏のことだったが1年の日子を費やして、この年の8月初めに完成した。ソアリングの練習に適し、簡単な曲技もできるように設計され、次の要目のものである。スパン13m、翼面積13.4㎡、翼縦横比13対1、翼型ゲッチンゲン535、空重量120kg、乗員パラシュート80kgとして、全備重量200kg、翼面荷重15kg/㎡、滑空比19.5対1、この時の滑空速度60km/時、沈下速度0.75m/秒、着陸速度45km/時。

 9月5日、大連島付近から北上した台風のため、8月25日来、連日雨と、この地形には最も不利な北風に悩まされていたが、やがて台風は四国に上陸し、関西地方を荒らして北に去り、この日になると、その尾にできた小さな不連続線のために、風は北から東にそれから南へ回り始めた。そこで直ちに出発準備をして、午後3時01分、大観峯の西約1kmの外輪山上、標高940mの地点から志鶴忠夫教官操縦の九帝七型をスタートさせた。機は前面の断崖上に出ると、たちまち約100m上昇し、なお次第に高度を増しつつ斜面に沿う1.5kmのコースを往復飛行を続けた。出発点の風速は約5m/秒、かなり突風的だった。こうして出発点上、平均160mの高度で、4分ほどの周期で46回の往復旋回を続け、約2時間飛行した時、雲が低くなって外輪山の頂上を包み、機は時々雲の切目から姿を現わすだけだったが、高度は少しも低下していなかった。雲中で時々激しい雨に打たれながら約1時間飛んでいたが、そのうちに風は次第に弱まりソアリングに不利になり、また夕暮も近づいたので、斜面を離れ、6時05分、山麓の山田村の水田(標高492米)に着陸した。この時は小雨でほとんど無風状態であった。全飛行時間は3時間04分、飛行中の最高上昇は出発点上250m、離陸地点間の高度差448m、距離7km。

 9月8日、この3時間飛行の翌日、6日にはまた次の台風がラサ島の南に現れて北西に進み、7日に琉球を横切って支那海に入った。そのため8日には前回よりもっとよい南風が吹き出した。この日は、前の所より、やや東に寄った標高845mの所から、志鶴氏搭乗の九帝七型は、午前11時28分スタートした。機は最初の1分間に100m、次の4分間に200mの上昇をし、なおも次第に高度を増しつつ大観峯の西側の連丘に沿うて8字旋回を続けた。スタートしてから2時間50分ほどの時、南から激しい驟雨がやってきたので、機は大観峯を50mたらずの高度で越して、その東側の斜面の上に移動しここでまた強い上昇風を捕えて、たちまち大観峯の上300米の高度を得てソアリングを続けた。そのうち雨はついに大観峯に及んできたので、機はこれをよけて、峯の南を迂回して出発点上に帰ってきた。出発後3時間半ほどたつていて、高度は出発点上約400mであった。出発点の上を約10分間旋回しているうちに、この日の最高々度、出発点上550mに達した。折から又々襲ってきた雹を交えた猛雨をさけて、南西にのびる斜面に移動し、ここでしばらく高度を保ち、雨が通過したらまた元の位置に戻るつもりであったが、情況利あらず、段々と高度を失い、ついに帰れる望みがなくなったので、近くの外輪山の最低所の二重峠(標高683m)をわずか20mの高度を残して越えて、外輪山の外側に出た。これが離陸後4時間のことだった。これからはほとんど無風状態で、西方に直線滑空を続け、午後3時40分、熊本県菊池郡北合志村小原(標高120m)の稲田に着陸した。全飛行時間4時間12分、最大上昇は出発点上550m、離着陸地点間の高度差725m、この距離18.5km、飛行範囲23km。

(日本航空学会誌、3巻10号、昭和11年2月、九大教授橋本賢輔、九大助教授佐藤博、「阿蘇外輪山における帆走飛行実験」)

(航空時代、昭和10年11号、九大助教授、佐藤博、「九帝七型とその四時間飛行」志鶴忠夫、「阿蘇帆走飛行の実験を語る」)

 この飛行実験の準備から後始末までは松岡康光、高田茂俊、橋本公平の諸君の労を煩わし、福岡飛行場長、松浦四郎航空官は例年のように飛行試験に立会われ指導激励を与えられた。本飛行実験は日本帆走飛行連盟の支援のもとに行われ、また帝国飛行協会は飛行終了後、九大航空会に対し技術奨励金を交付した。  (300円)

 10月2日、陸軍および日本帆走飛行連盟の招聘で、ドイツからグライダー界の第一人者、ウォルフ・ヒルト氏が曳航飛行士カール・バウア氏、技師ハンス・シュトルツ両氏を伴い、ゲッピンゲン1型練習用ソアラー、同3型高性能ソアラー、曳航用のクレム軽飛行機を携え、この日の朝東京駅についた。10月7日、飛行館で帝国飛行協会主催でヒルト氏の講演会が開かれ、同26日、所沢陸軍飛行場でヒルト氏の初公開飛行が催された。これを皮切りに所沢、上田の飛行場で陸軍の航空将校に薀蓄を傾けてグライダーの高級滑翔技術を講習し、また12月6日から同12日まで、大阪盾津飛行場で民間のグライダー人のため、日本帆走飛行連盟の主催で講習会が開かれた。そのため彼は12月4日、ゲ式1型に乗り、バウアのクレムに曳航されて羽田を出発し、途中名古屋に着陸、1泊し、翌5日に盾津に着陸した。これは日本で初めての東京・大阪間の長距離グライダー曳航であった。12月13日、ヒルト氏は日本のグライダー界に尽した功労により勲五等瑞宝章を授与された。

(航空史話 358頁、「ヒルトの来日」松下弁二、参照)

 

 

 10月18日より同23日まで上田飛行場で、これから月末まで所沢で、11月に入り20日間、再び上田飛行場で指導した。この間、霧ヶ峯、菅平、箱根十国峠の滑空場を視察した。

 

 10月30日、大阪におけるヒルトの講習会に使うために九大から送り出され、25日大阪に到着していた九帝七型を盾津飛行場で、同機初めての飛行機曳航テストを行った。曳航機は大毎松下弁二飛行士搭乗の国粋義勇飛行隊の一三式陸上練習機、九帝七型は志鶴忠夫氏搭乗、曳航索は3mm、150mワイヤロープ。

 11月3日、松下氏(一三陸練)の曳航で、志鶴氏(九帝七型)は800mで離脱、宙返り、上昇反転、急降下などの曲技を行い、日本製のグライダーによる最初の高等飛行テストに成功した。


 11月19日、ヒルト氏は近藤兼利少佐と共に午後、名古屋駅着、小幡ヶ原の名古屋飛行学校で名古屋グライダー研究会員のプライマリー練習を指導して、同夜は名古屋市に1泊。20日正午大阪着、午後盾津飛行場に行って、格納庫の前に、すき透る蝉の羽根のような翼を休めている
九帝七型ソアラーを眺めて「これはすばらしい、僕が曲技に使っているゲッピンゲン1型とそっくりだ、むしろこの方がよいかも知れない」と愛嬌をふりまき、それから七型に志鶴氏が乗って、大毎の松下飛行士操縦の一三陸練で曳航され、500mで離脱して宙返り、上昇反転、錐揉みなどの曲技をしてみせると「彼はグライダーの天才だ、僕が上田で一寸曲技の要領を教えただけなのにもうすっかり呑込んでしまった」と大満悦だった。眼前に連なる生駒山を眺めて、「この連山の下に、こんなよい飛行場があるのだから、ソアリングには絶好の場所だ。」同日夕方6時から、大毎講堂で同氏の講演会が開かれた。

 11月21日、日本空輸の旅客機で午後3時太刀洗飛行場着、福岡市柳橋ビル3階の前田建一氏のグライダー工場を視察、同夜は九大松浦總長の招宴に臨み、二日市に1泊、22日は11時熊本着、自動車で阿蘇大観峯に上り佐藤助教授や北田正三氏より、この9月の始めの志鶴氏、九帝七型の4時間飛行の模様を聞き熊本に帰り、午後4時、帯山練兵場で大阿蘇グライダー会員の練習を見て、5時過熊本駅着、二日市に1泊、23日朝、太刀洗発の旅客機で大阪に帰った。

 12月6日から大阪で日本帆走飛行連盟主催のグライダー講習会が開かれるので、ヒルト氏はゲッピンゲン1型に乗り、バウア氏(クレム機)の曳航で4日に羽田を出発し名古屋に途中着陸し1泊し、5日午前10時半、小幡ヶ原飛行場発、午後0時5分盾津飛行場に到着した。グライダーでは全く処女空である東京・大阪間420kmを空中列車で翔破し、わが国航空史上空前の壮挙を完成した。

 この朝ヒルト氏の空中列車を迎える盾津飛行場では、湧き上る感激のどよめきに包まれ、午前10時26分ヒルト氏名古屋出発の報に、大毎松下機および、「和製ヒルト」とうたわれた志鶴飛行士の愛機ニューポール24型の両機が直ちに飛び立って、空中列車歓迎のために東の空に飛び去ってゆく。場内を埋める大観衆が悉く東の方、生駒の連峯に区切られた灰色の空を見つめている、と午前11時52分、山頂航空灯台北の山肩に乱舞する胡麻のような歓迎機につづいて、クレムL-25型機に曳航されたゲッピンゲン1型の颯爽たる雄姿が見えた。「来たぞ、バンザイ」地上にドッと上がる歓声のうちに、空中列車は、高度800m、生駒の嶺を離れるやたちまち、索を離脱し、グライダーと飛行機とが別々に離れ、ヒルト氏のゲッピンゲンだけが、大空を渡る鳳のように中天に浮かぶ。まるで夢のようだ。大きく上空で旋回するうちに、グッと機首を下げてダイブするとみたとたん、高く舞上がって鮮やかな宙返り、上昇反転、さては横転、逆転の妙技!低空30米で大胆な宙返りをして、歓衆に冷汗を握らせたヒルト氏は、格納庫の屋根すれすれに旋回して、本社旗をちぎれよとばかり打ち振る観声の群の眼前にピタリと機を着陸させた。(昭和10年12月6日の大阪毎日新聞)

 12月6日、午前11時半より大毎会議室で開講式、引つづきヒルト氏は蘊蓄を傾けて滑空の理論と実技について講議を始めた。聴講者は、九大(志鶴、高田、土橋)、日本空輸研(池田)、アジア航空学校(服部)、大阪飛行機研(馬道)、日本軽飛行機(武中、島)、霧ヶ峯グライダー研(鵜飼、武久)、東京帆走飛行(清水、利根川)、早大(信岡)、阪大(小原)、大毎(羽太、松下、岡)、九大の佐藤博助教授が通訳に当たった。

 

 

 12月7日、午後6時半、東京神田の学士会館大集会室で、日本航空学会の第10回講演会が開かれ、下記の講演があった。

 

1,阿蘇外輪山における帆走飛行実験(40分、16ミリ映画)

正員、九州帝大教授、工学士、橋本賢輔

正員、九州帝大助教授、工学士、佐藤博

2,帆走飛行について(1時間、16ミリ映画)

ホルンベルグ滑翔学校長、ドイツ工学士、ウォルフ・ヒルト

 12月8日、日本帆走飛行連盟、大毎主催で帆走王ヒルト氏名残の公開滑空飛行大会が、大阪東郊の盾津飛行場で行われ、2万の観衆は氏の妙技に魅せられて、驚嘆の眼をみはるばかりであった。午後1時、ヒルト氏は福知大毎航空部長に紹介されてマイクの前に立ち、日独航空親善を説き、直ちに愛機ゲッピンゲン1型ソアラーに乗り込み、ウインチ曳航で離陸し、大凧のように軽々と舞上るとみる間に高度70米で曳航ワイヤを離脱、突如機首を下げて逆落しに突込むかとみると、大きく弧を描いて舞上り入神の宙返り1回、2回、格納庫前の観衆の頭上めがけて、さっと突かかる物凄いスピードに観衆がアッと叫ばうとするとたんに、もうヒルト氏は青空に舞上がって、機体を乙に斜めに構えて、あっぱれな着陸姿勢。スス‥と地上2、3寸を約50m滑って招待席の前にぴったり着陸。

 さらに1時49分、再びゲッピンゲンを操縦し、飛行場の東北隅からバウア氏操縦のクレム軽飛行機に曳航されてスタート。いよいよ氏ならではの至芸の曲技滑空が始まった。長さ100m、太さ3mmの曳航ワイヤに結ばれたこのヒルト・バウア両コンビの空中列車は上空を大きく旋回、高度700mで離脱したゲッピンゲンは、ひらひらと鮮やかな錐もみ、急ダイブ、連続宙返り3回、4回、びゅんと上昇したまま機首を中天に向けてぴたりと空中に静止しながら、尾翼をぶるぶるとふるわす妙技に、観衆の熱狂は最高潮に達した。かくて2時10分に、東京帆走飛行研究会の竹中政治郎飛行士のウインチ曳航滑翔を行い、最後に日独航空親善の壮挙を地で行くヒルト氏と九大志鶴飛行士の競翔を、ヒルト氏の発議で行うこととなった。2時23分、場の東北隅に並んだヒルト氏のゲッピンゲン、志鶴氏の九帝七型は、それぞれバウア氏のクレム曳航機、本社松下氏の一三陸練曳航機に曳かれて離陸、同じ高度をそろえて2列の空中列車が見事な陣列、ヒルト氏の列車が右折、志鶴氏の列車が左折して別れて大きく旋回、引続き東の空で会合した2つの空中列車がまたも列んで高度400mで、ともに曳航索を離脱した。両機は申合せたかのように宙返る。ヒルト氏仕込みの志鶴氏も、なかなか師匠に負けていない。互に秘術を尽して宙返り、横転、逆転、反転の高等飛行を演じた後、まずヒルト氏、続いて志鶴氏が着陸、狂わんばかりの拍手と歓声の怒涛がまき起った。かくて午後2時40分、空前の盛況裡に、このわが航空史に永遠の輝きを残す公開滑空大会を終わった。(昭和10年12月9日、大阪毎日新聞による)

 ゲッピンゲン1型3型については、日本民間航空史話、戦前のわが国のグライダー、佐藤博を参照のこと。

 ヒルト氏一行は、10月2日東京到着以来、2ヵ月以上の間、わが国のグライダー界のために東奔西走尽力してくれ、12月16日神戸出帆の浅間丸で帰国した。

 

 この昭和10年は、以上のようにわがグライダー界にとっては一大躍進の年であったが、一方残念にも、一人の尊い犠牲者を出した。10月20日、名古屋市外小幡ヶ原飛行場で、元島喜徳二等飛行士はプライマリーで、ゴム索発射で離陸の際、ショックでフートバーから足を踏みはずして機をストールさせ、7m/秒の突風に、約6mの所から地面に激突して死亡した。航空局では、この種の事故の防止策として、今後はグライダーのフートバーには、絶対に踏みはずすことのないような完全な足かけをつけるように指令した。これはわがグライダー界の最初の犠牲者であった。

 
 本昭和10年度内に、帝国飛行協会が出したグライダー製作費の補助は48機分、合計1万3,050円、またグライダー飛行証は、一級1名、二級6名、三級52名に達した。

~外国~
この昭和10年(1935)のドイツのレーン大会は幸運の強風テルミークの訪れで空前の大成績を収めた。61機が513回の飛行をし、その滑空距離は合計3万5,000kmに達した。300km以上の飛行が16回、400km以上9回、そして4人が同時に504kmの世界記録を作った。この頃から目的地飛行が盛んになり、この夏には、若いグライダー教官クラフトはホルンベルグの滑空学校からケルン市まで333km飛んで、目的飛行の世界記録を作った。

 

 

 


 

 


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