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昭和11年(1936)

 1月27日、日本帆走飛行連盟では滞空時間レコード樹立をめざし、連盟委員、志鶴忠夫氏は佐藤式九帝七型ソアラーに搭乗し、午前7時35分、松下大毎飛行士操縦、小島機関士同乗の国粋義勇飛行隊機に曳航されて、盾津飛行場を離陸、河内平野上空を旋回して、7時52分、生駒山上300m(出発点上約1,000m)の上空で、曳航索を離脱し、生駒山嶺を中心に快翔を続け、正午過ぎには、同氏が昨年の9月阿蘇山で作った日本記録、4時間12分を破り、極寒零下8度の、山上400mの冬空を鳶のように飛翔、折から降りしきる吹雪にもめげず、地上約1,000mを保ち、雄雄しくも日本新記録の樹立をめざして飛び続けた。かくて午後4時半ごろからは生駒山頂の航空灯台から遥かに南へ針路をとり、同5時8分信貴山上空に達し1旋回後、機首を盾津飛行場のほうに向け、5時10分同飛行場の上空に現れ、高度を300mに落し旋回の後、余裕綽々鮮やかに宙返りなど高度飛行を行って、5時15分、無事着陸、実に9時間23分という輝かしい大記録を作った。

 志鶴氏が格納庫の前に見事に着陸すると、航空局大阪出張所長、玉宮航空官、福知大毎航空部長その他の沢山の人々が絶讚の声を浴びせながら九帝七型機を取り巻く。大空の酷寒に紫色にはれあがった顔の志鶴氏は目をしばたたきながら「おお寒かった!」とこわばって笑えぬ顔をゆがめながら、福知航空部長に助けられて操縦席から出て、直ちに皆から顔や手にマッサージを受け、格納庫横の休憩所で暖をとりながら語った。「何よりも寒いのには閉口しました。寒風に顔をさらして、風速15mぐらいの吹雪交りの猛風と闘うのですから、飛び出して1時間もしないうちに顔は凍えて全く感覚がなくなるし、それに腰骨が痛くなるので、右手は操縦桿を握り、左手で座席を突張り、腰を浮かせたようにして飛んでいました。たいてい高度は地上1,000mから2,000m、この間を飛んでいたのです。向風の時は速度計は70km/時以上になっているのに、機は全然前進しないことがありました。生駒と信貴山の間を、何べんも往復し、ケーブル電車が上下するのを何回か見ました。辛かったが、この好記録が得られたのは、何といっても好気象条件に恵まれたからです。もっと頑張りたかったのですが、日没に近づいたので降りたわけです。グライダーは風さえ続いてくれれば、何時間でも楽に飛ぶことを今さらながら体験することができました。持っていったウイスキーも、ちょっぴり飲んだだけで、氷砂糖も三つばかり口に入れただけです。ただ飛行機と違ってグライダーは爆音もなく、目的地に急ぐのでもない全くの長時間飛行なので、退屈で淋しいものだから、しょっちゅう軍歌などを口ずさんでいました。」

(航空時代、昭和11年3月号、「吹雪の生駒上空でグライダーの大記録を作った体験記」大毎航空部員、日本帆走連盟理事、志鶴忠夫。「志鶴君に協力して」大毎航空部員、松下弁二。「志鶴君とグライダー」九大助教授、佐藤博。「志鶴君と佐藤さん」渡部一英。)参照

  2月1日、志鶴氏は大毎航空部員になった。

 

 

 2月17日、わが国商業界のグライダーによる空中宣伝のトップを切るものとして、昨年来、福岡市の遞信省指定グライダー工場の前田工作所で製作中だった玉屋デパートのグライダー玉屋号ができ上り、17日午後2時から太刀洗飛行場で、久保田飛行士搭乗、国防普及会の内田飛行士操縦のアンリオ28型軽飛行機に120mの曳航索で曳航され、良好な成績でテスト飛行を終わった。この空中列車は、19日には、選挙粛正の宣伝ビラ数万枚を積み朝8時18分太刀洗を離陸し、高度350mで福岡市の上空を旋回しつつ、粛選ビラの花吹雪を散らし、9時15分太刀洗に帰還した。さらにこの日の午後は久留米、柳川、大牟田各市の上空から粛選ビラを散いた。玉屋号はスパン12m、機長5.6m、翼面積16.5㎡、全備210kg。

 

 

 

 3月29日、大阪毎日、東京日日、両新聞社は、東京―大阪間無着陸、帆走飛行に1万円の懸賞金を出すことを発表した。社告全文次の如し。 

 東京・大阪間無着陸帆走飛行に懸賞

 昨年5月に本社提唱の日本帆走飛行連盟の結成をみてより満10ヶ月、その間、西は生駒山、東は箱根山の気流調査飛行をはじめ日本最初の曳航飛行(空中列車)の実験研究を試み、さらに昨年10月にはドイツの帆走王ヒルト氏一行を招聘して学術技術の講習に妙技の公開飛行によってグライダーに対する認識を新たにし、本年に入っては去る1月27日、本社員志鶴飛行士によって9時間23分に亘る帆走飛行の滞空記録を作る等、本邦グライダー界に多少の貢献を捧げ得たと信ずるものである。しかるにグライダーによる長距離飛行に関しては本邦にまだ1人の経験をも見出すこと能わず、帆走界の恨事とされているに鑑み、本社はここに長距離帆走飛行の実施を奨励し、優秀なる技術者および機体の出現を助成する目的をもって、現在の世界記録500kmを目標とし、東京―大阪間(425km)の無着陸帆走飛行に対し左の如き懸賞を附して、これが実現の1日も速やかならんことを斯界のために期待する次第である。

 金1万円也 東京―大阪間最初の無着陸帆走飛行実施者に贈る

 期限 昭和14年3月末日迄(詳細の規定は追って発表する)

大阪毎日・東京日日新聞社

 

 

 この大懸賞の発表は、わが国のグライダー界に大きなセンセイションを起こしたが、3ヵ年の期間内には残念ながら、飛行を試みた者はなかった。

 4月2日、日本帆走飛行連盟では、大阪盾津飛行場で、日本最初のグライダー2機曳航飛行のテストに成功した。大毎大蔵飛行士操縦、小島機関士同乗の一三式陸練の尾部に連結した100mのワイヤには松下飛行士操縦のゲッピンゲン1型、80mのワイヤには志鶴飛行士操縦の九帝七型が連結され、11時52分出発、高度300mで場の上空を旋回し、両グライダーは相前後して曳航索を離脱し、高等飛行をくり返して着陸し、わが滑空界の画期的壮挙に成功した。

 4月23日、福岡市、前田製作所で作っていた久留米市、日本足袋会社のグライダー「アサヒクツ号」が完成し、石橋社長兄弟、佐藤九大助教授ら立会のもとに、太刀洗飛行場で自動車曳航で、久保田飛行士操縦のもとに数回にわたり、試験飛行を行い、好成績を収めた。

 

 

 5月7日、日本帆走飛行連盟、大毎、東日新聞社では全航程4,000kmの日本一周曳航飛行を実施し、この日、松下飛行士操縦、小島機関士同乗の一三式陸練が志鶴飛行士操縦のゲッピンゲン1型を曳航して、大阪盾津飛行場を出発し、次のコースをまず東回りをした。大阪―津―名古屋―豊橋―三保―三島―東京―尾島―東京―霞ヶ浦―小名浜―仙台―盛岡―青森―能代―大郷―酒田―新潟―冨山―金沢―大阪 続いて次のコースで西回りをして6月14日に大阪の城東練兵場に帰ってきた。大阪―広島―福岡―熊本―都ノ城―佐伯―松山―善通寺―大阪。以上の各地に着陸し、グライダーの曲技を公開して、全国にグライダーの認識を広めた。

  

 5月8日、神奈川県の厚木中学校でグライダー部が設置された。これは中学校としては日本最初の滑空部であるが、中等学校としては第2番目のものである。第1番目は京都第一工業学校グライダー部、昭和10年4月である。


 6月19日、朝鮮總督府遞信局航空課の飯塚、山内両氏などの発起で朝鮮最初のグライダー団体「朝鮮グライダー・クラブ」が結成されこの日から京城飛行場で初歩練習を始めた。

 

 

  8月26日から6日間、日本帆飛連、大毎東日共催の第1回グライダー講習会が大阪盾津飛行場で開かれ、全国23グライダー団体から選ばれた45名が受講した。本講習会と同時に、同じ場所で所沢の陸軍飛行学校からも教官立山少佐以下のグライダー班が約10日間にわたり訓練飛行を行った。ところが講習会第2日の27日午後、国粋義勇飛行隊の小林飛行士操縦、東日の大多和飛行士同乗の一三式陸練で浜松グライダー・クラブの谷口飛行士操縦のゲッピンゲン1型を曳航上昇中に、グライダーが急に上昇して、飛行機の尾部を吊り上げたため、飛行機は垂直降下の姿勢で田中に墜落、小林、大多和の両氏は犠牲になった。グライダーは飛行機が垂直姿勢になった瞬間にロープが離脱し、無事飛行場に帰着した。この大きな事故は講習生一同に大きなショックを与えたが、一同励まし合って、予定通り講習会を続行した。ただ、この講習会の最後を飾るため30日にはわが国で最初の全日本帆走飛行競技会を開く予定であったが、これは中止した。

 

 

 9月2日から3日間、朝日新聞社主催、遞信省、陸軍航空本部、帝国飛行協会後援の全日本グライダー大会が長野県霧ヶ峯で開かれ、第1部(プライマリー)75名、第2部(セカンダリー)22名、第3部(ソアラー)5名、合計102名の選手が参加した。プライマリーでは篠田氏、セカンダリーでは上西氏、ソアラーでは鵜飼氏、ソアラーのウインチ発航では大久保氏が1等になった。これはわが国で最初のグライダー競技会であり、霧ヶ峯の頂上は全く観衆で埋まり、大盛会であった。大会に引続き霧ヶ峯で飛行練習をしていた法政大の竹久氏は9月6日、朝日式ソアラーでウインチ発航上昇中地上で索を切ったのに気づかず、150mの索をつけたまま飛んでいて、これが電線にからみついて墜落、負傷した。

 

 

 9月27日、財団法人、満州飛行協会が、このひと月ほど前に設立され、この日に新京飛行場で発会式が行われ、大阪朝日、大阪毎日から派遣された飛行機やグライダーの祝賀飛行があった。大毎の志鶴氏はそれから10月にかけて満州各地でグライダーの曳航飛行を行った。

 

 

  10月28日、東京洲崎飛行場で、東京高等工学校グライダー・クラブ員、猪原氏はセカンダリーで旋回練習中、操舵を誤り地面に突込み、頭を強打して亡くなった。

 

 昭和11年(1936)のベルリン・オリンピック大会には、オープンゲームとして、ベルリン・テンペルホフ飛行場で、ドイツ、イタリア、オーストリアその他6ヵ国の選手が集って国際グライダー大会が開かれ、ベルリンからヨット競技会場のキールまでの336km目的地飛行では、ハンガリのロッターが1等になった。レーン大会では36時間記録を持っているシュミットが13時間半のレーン最高記録と250kmの目的地距離記録を作り優勝した。

 

 

 この昭和11年中に新造され、帝国飛行協会の補助金を受けたグライダーは38機、飛行証の交付を受けた者は、一級5名、二級42名、三級135名であった。

 

 

 

  11月14日から1週間、報知主催のグライダー記録飛行会が筑波山で行われ、15名の参加者があったが、天気が思わしくなくて、滞空時間と高度では入賞者がなく、距離では竹中氏の12.5kmが1等になった。


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