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昭和12年(1937)

 2月14日から11日間、帝国飛行協会は甲府飛行場で第1回グライダー指導員講習会を開いた。教官は陸軍の近藤中佐、石原、山本両大尉、古林中尉で、この講習会は、系統立ったグライダー訓練を与える権威あるものであった。

 

 

 3月10日、頓所好勝氏(現航空局検査官)は、わが国で最初のハング・グライダーを作り長野県下高井郡延徳村で試験滑空をした。これに続いて4回ほど実験をしたうちで最好調のは時間7秒、高度10米、距離70米に達した。

 

 

 4月3、4、5の3日間、大阪府教護連盟では府下の中学校の先生にグライダー訓練を体験させ、その重要性を認識させようと、盾津飛行場で、日本帆走飛行連盟の松下、山本勲、志鶴氏らの指導でグライダー練習会を開いた。

 

 

 4月9日、帝国飛行協会では、昭和11年度の航空界の貢献者として、佐藤博九大助教授、毎日の志鶴忠夫飛行士、朝日の新野、長友、永田3氏に田中館副会長から有功章が授与された。佐藤氏は多年グライダーの設計研究に没頭、その設計になるグライダーは年々日本記録を更新し、志鶴氏は佐藤氏設計のグライダーを操縦して記録を作り、昨年頭には生駒山で9時間23分の劃期的記録を樹立した。新野、長友、永田の3氏は昨秋、わが国で最初の日・シャム(注-日本・タイ)親善飛行をした功績による。

 

 

 

 4月11日、清水六之助氏は、箱根十国峠で伊藤式B2型セカンダリーに乗り、斜面上昇風を捕えて1時間32分滞空した。これはセカンダリーの滞空記録として、昭和16年末まで保持されていた。

 

 

 

 4月15日、九大佐藤博助教授は、文部省在外研究員として2ヵ年間ドイツに留学を命ぜられ、この日神戸出帆の郵船、箱根丸で出発した。グライダーの本場ドイツで、その研究を進め、ヒルト氏などに会ってグライダー大会や工場、研究所を視察し、さらに東京オリンピックグライダー競技に備えて各国の関係者を訪ねて連絡をとる予定である。

 

 

 

 

 

   4月25日、朝鮮で初めての全鮮グライダー大会が京城飛行場で開かれた。

 

 

5月5日、井上幾太郎陸軍大将を団長に、堀丈夫陸軍中将を副団長とする大日本青年航空団の発団式が明治神宮で挙行され、「滑空訓練から軽飛行機へ」をモットーとして空の要員養成に邁進することになり、各地で滑空訓練会を催し、多数のグライダー・パイロットを養成した。

 

 

 5月23日から5日間、日本帆走飛行連盟と帝国飛行協会共催の第1回全日本帆走飛行競技大会が盾津飛行場で開かれ、19名の選手と8台のグライダーが参加した。ソアラーでは清水氏、セコでは大久保氏が1等になった。

 

 

 

 6月1日、滑空機規則が施行され、これで初めて政府発行の滑空士免状が交付されることになった。滑空機の乗員免状は一級・二級の2種、機体も甲・乙の2種に分けられた。この昭和12年度のうちに免状を交付された者は一級滑空士30名、二級滑空士50名、堪航証明書が交付された機体は甲種18機、乙種102機であった。

 

6月20日、清水六之助氏は、生駒山上から伊藤C2型ソアラーで発航し、大阪市上空まで出かけて飛行中に、熱上昇気流を捕えて高度1,800mまで上昇し、滞空1時間43分の記録を作った。これはわが国で最初の本格的な熱上昇風飛行であった。

 

 

 8月10日から1ヵ月にわたり、大日本青年航空団の第1次訓練が霧ヶ峯で行われた。

 

 

 この年の第9回明治神宮体育大会からグライダー競技を正式競技種目に入れることになって、7月30日から7日間、霧ヶ峯でこの競技会を開く予定であったが、本昭和12年の夏に支那事変が勃発したために、これは中止になった。

 

 

 

  8月末から9月初旬にかけて、九州帝大航空会と九州航空会が共催で阿蘇大観峯で研究飛行会をした。指揮は橋本賢輔九大教授と前田建一氏、初めのうちは天候が思わしくなくて不振であったが、9月5日になって好転しかけ、松本定飛行士が前田BS機で1時間あまり飛んでからは調子づき、翌6日には平松時善飛行士が九帝七型機で3時間4分、また翌日7日には松本氏が5時間56分、平松氏もまた5時間2分を飛び、ゴム索発航による日本滞空記録を作った。

 

 

 

  10月3日、満州飛行協会主催の第1回全満グライダー競技大会が新京の南飛行場で開かれた。

 

 この年で注目すべきことは滑空機工業界が大きな躍進を示したことである。関東では千葉県津田沼の伊藤飛行機製作所がグライダーの製作に力を入れ、東京蒲田の日本小型飛行機研究所も優秀なグライダーを製作し、関西ではアカシヤ木工株式会社、美津濃運動具店、福田前田軽飛行機製作所などが進出してきた。さらに航空局は高性能グライダーの生産を促進するために、伊藤、日本小型、福田前田の3社に奨励金を交付して単座、複坐の高性能グライダーを数種試作させ、一方飛行協会も、この昭和12年度内に約80機のグライダー製作補助金を出した。こうして本年度内にグライダー団体は約60、機体はプライマリー91、セカンダリー11、ソアラー18、合計120機に達した。

 

 

昭和12年(1937)~外国~

ドイツでは青少年特技隊の一つとしてナチス飛行団ができ、現役の空軍少将クリスチャンゼンをその總司令に任命した。この大組織のもとに数万の青少年にグライダー訓練を主体とする基礎的な航空教育を施したため、ドイツのグライダー界は、驚くべき程度に強化拡充された。昭和12年の夏にはドイツ航空協会主催で、初めての国際グライダー競技会がワッサークッペで開かれ、6ヵ国から選手40名、グライダー28機が参加した。1、2、3位ともドイツの選手が占めたが、ポーランド選手もドイツ同様351km飛んだ者もあり、また英国選手も複坐で10時間近く滞空した。この大会の様子は、佐藤九大助教授が、同年8月23日の大阪毎日新聞に「レーン高原の国際競技大会を見る」盛大なドイツのグライダー界と詳しく報道している。この国際大会につづいて18回レーン滑空大会が開かれたが、この大会では目的地飛行に重点が移って、これには普通の距離飛行の2倍の点を与えた。200、300キロの目的地飛行が続々と行われ、大会中の総飛行距離は4万6,000kmに達した。この昭和12年には、ソ連は652kmの距離記録を出して、それまでドイツが独占していた世界記録をうばった。当時ソ連はグライダー学校15、グライダー2550機、滑空士7万5,000名をもっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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