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昭和13年(1938)

 年頭、極東帆飛クラブと「とんび会」共催日本帆飛連後援で、東京州崎飛行場で自動車ウインチ曳航法の練習会を開いた。相当な技倆保持者ばかり30名が参加し、練習回数は286回に達した。

 

 

 

1月23日台南州国防義会航空団の発会式が台南飛行場で行われ、これに引続き1週間、グライダー講習会が開かれた。参加46名。日本帆走飛行連盟の清水、小田の両一級滑空士がこの指導に行った。この講習会の終了後、30日台北で清水氏は前田式BS(アサヒクツ号)に搭乗、塚原飛行士操縦のアンリオ式軽飛行機の曳航で公開飛行をした。

 

 

 

 2月に文部省は全国の地方長官にあててグライダー普及方針の通牒を出し、中等学校にこの普及を促進した。

 

 

 

 

 2月25日、萱場製作所の依頼で伊藤飛行機株式会社が製作していた日野熊蔵中佐が原設計をしたH・K式無尾翼グライダーが一応完成した。これはわが国で初めての無尾翼グライダーであった。スパン10m、最大翼弦2m、空重量85kg、沈下速度0.85m/秒。 

 

 

 2月27日、わが国最古参のグライダーマンで霧ヶ峯グライダーの草分けの一人の鵜飼輝彦氏が出征中に病にかかり大同の野戦病院で陣没した。わが国グライダー界のため惜むべき人物を失った。 

 

 

 3月に入ると、次回の東京オリンピックにグライダーが正競技種目に加えられるとのニュースが入り、滑空界は俄かに活気づいた。これはこの月、カイロで開かれたIOC会議で決められたことであった。

 

 3月16日、朝鮮航空連盟が結成され、まず在京城の各グライダー団体が加盟した。

 

 

 3月19日、満州飛行協会の弘中正利飛行士と阿部飛行士のコンビは、奉天―大連間(355km)の無着陸、往復曳航飛行に成功した。往路は3時間20分、帰路は3時間かかった。

 

 

 

 3月21日から10日間、盛岡市外観武ヶ原で盛岡グライダー研究会が日本帆飛連の後援でグライダー講習会を開き、帆連の大牧滑空士が指導に行った。
 

 3月25日から31日まで、箱根十国峠で静岡県の中等学校教員グライダー講習会が帝国飛行協会と日帆飛連の共催で開かれ、参加者60名、清水一級、近藤二級滑空士が指導。

 3月30日から5月15日まで46日間、台湾国防義会航空部は、志鶴、小田両一級滑空士を招いて、指導者の養成を目的とした本格的なグライダー講習会を、台北飛行場で開き、教員7名、官公吏17名が受講した。

 4月1日から1週間、箱根十国峠で帆飛連のグライダー講習会が開かれた。これは二級滑空士以上に本格的なソアリングを練習させるのが目的であった。(航空時代、昭和13年5月号に詳細報告)
 

 

 4月6、7の両日、飛行協会と関東各府県主催の関東地方選抜中等学校滑空競技大会が東京、戸田橋滑空場で行われ、参加11校、選手200余名で、1位は神奈川県の厚木中学校であった。プライマリー競技だけであったが、中等学校だけの競技会は、これがわが国最初のものであった。志鶴氏の曲技滑空もあり、少年パイロットたちを喜ばせた。

 

   

 4月18日、兵庫県下中等学校教員のグライダー講習会が明石滑空場で、2週間にわたり山本滑空士の指導で行われ、14名が受講。

 

 

 4月21日、新潟市のグライダー講習会に帝国飛行協会から指導に行っていた仲山滑空士は、会場の新潟商業の校庭でプライマリー機のテスト中に墜落し重傷を負い死亡した。原因は昇降舵の操縦索のつなぎ違いだと判った。

 

 

 5月16日から6月6日まで、飛行協会主催、帆飛連後援の第4回グライダー指導者講習会が開かれ、多数の一、二級滑空士ができた。

 

 

 5月21日から、スイスの首府ベルン市で国際滑空研究委員会(ISTUS)の第6回總会が開かれ、※日本代表として佐藤博九大助教授が出席、東京オリンピックにグライダー競技を加えることについての協議があり、次のような決定がなされた。

※佐藤助教授は「日本滑空界の現状」をドイツ語で講演。

 東京大会のグライダー競技は、東京の近くの飛行場において行う。グライダーの発航は飛行機曳航によって行う。競技種目は70から100kmの目的地距離競技のみとし、曲技は採点が困難なために行わない。競技には単一機種を使用する。そのため各国でオリンピック用として試作したグライダーは、1939年2月1日より15日までの間に、ローマで選抜テスト飛行会を開き、1機種を選定する。この機体の設計に当たっては次の規格を守ること。


 1940オリンピック用制式グライダー設計規格

 

 

1、主翼スパンは15mを超えぬこと。

 

2、構造材料は木材(合板、スプルース)鋼金具。

3、適度の耐水性ある構造にすること。

4、垂直降下の最大速度を200km/時に制限できるようなダイブ・ブレーキを備う。

5、座席は脊丈1.8mの乗員を標準として作ること。

6、脚部はソリのみとし、車輪はつけない。

7、座席には脊負い型のパラシュートを備える。

8、胴体の坐席部分での外側の幅は0.6mとする。

9、機体の空重量は最大限160kgとする。

    10、搭載重量即ち(乗員、パラシュート、計器)は95kgとする。軽い 乗員はバラストを積み、搭載量が95kgになるようにして飛ばねばならぬ。それゆえ、胴体にはバラストを入れる場所を予め考慮しておかねばならぬ。

 オリンピック用機は、むろん競技用として、よい性能をもっていなくてはならぬが、その上に構造が簡単で、どの国でも図面だけで完全なものが作れることが大切である。

 

 

 5月末、渡部一英、航空時代社長らの斡旋で、日本滑空機工業組合が生まれた。

 

加盟したのは伊藤、福田前田、美津濃、日本小型、アカシヤ木工の5社、グライダーの協定価額を、プライマリー550円、セカンダリー800円以上、ソアラー1,000円以上と発表した。

 

 

 6月10日、(東日、大毎による)オリンピック東京大会にグライダー競技を加えることは、この3月カイロで開かれたIOCの總会で決定し、続いて5月にスイスのベルン市で開かれたイスタス(ISTUS總会でも承認されて、各国とも大きな期待をもって準備を始めている。さらにFAIは6月下旬ベルリンで開かれる年次總会で、東京オリンピックにおけるグライダー競技実施を前提として種々協議することになっているので、イスタス会長ゲオルギー博士は、FAIの總会に日本代表として出席するはずの佐藤九大助教授に、日本のオリンピック組織委員会の東京大会でのグライダー競技開催についての意向を至急確かめるように依頼してきた。これに対する組織委員会の意向は、カイロのIOC總会では、グライダーはオリンピックの新種目に加えられたが、東京大会では今のところグライダーは加えないつもりだ。その理由は日本にはまだグライダーの全国的統轄団体がなく、したがって責任をもって競技の審判に当たる者がいないからだ。しかし各国からの要望が甚だ大きいなら、日本の組織委員会としては、来年のIOCロンドン總会で、東京大会にグライダーを加えることを提案して決めてもらうつもりだと言っている。

 6月14日、(東日による)東京オリンピックにグライダーを入れることについて、日本オリンピック組織委員会は、前記の理由で渋っており、またFAIの日本代表団体である帝国飛行協会も、日本のグライダー界が世界の水準より甚しく低いとの観点から態度を決めかねている折から、遞信省航空局が開催促進に積極的に乗り出し、藤原航空局長官、大久保国際課長らが動きはじめ、さらに軍部からの支持もある様子で、早急に遞信省、飛行協会、オリンピック組織委員会の3者間で協議を進める予定で、グライダー競技の実施は大いに有望になってきた。

 

 

 6月17日、(東日による)航空局、飛行協会、帆飛連、体協が協議の結果、飛行協会はイスタスの日本代表委員としてベルリンにある佐藤九大助教授に、東京オリンピックでグライダー競技「実施」の旨打電し、イスタス会長ゲオルギー教授に、わが国の意向を明示することに決した。

 

 

 

 6月の初め、岡山の熱心なグライダーマン、横山晃氏は独力で、日本で初めての2人乗りソアラーを完成し、テスト飛行をした。全く同氏の熱意と不屈の努力に敬服する。 

 

 

 7月10日から同19日まで、東京高工グライダー部が、霧ヶ峯で合宿練習をし、堀川滑空士の指導の下に練習回数300回に上がった。

 

  

 7月16日から20日間、朝鮮青年航空団のグライダー講習会(プライマリー)が平壌飛行場で開かれ、21名の講習生が、炎天のもとで猛練習をした。

 

 7月21日から10日間、帆飛連の年中行事の一つである第4回グライダー講習会が茨城県の鹿島砂丘で行われ、65名の参加があって盛会であった。

 

 

 7月25日、かねて航空局が、わが国の代表的グライダー・メーカーである津田沼の伊藤飛行機、蒲田の日本小型飛行機、大阪の福田前田グライダーの3社に試作奨励金を出して世界的レベルの高性能機ソアラーを試作させていたが、この日、伊藤飛行機で作っていた現在ドイツに留学中の佐藤九大助教授設計の佐藤式TC型が完成したので、東日航空部の清水一級空士が社内テスト飛行をし好成績を示した。同機はスパン15.6m、全長6m、翼面積15㎡、アスペクト比16.2、空重量155kg、搭載量105kg、全備重量最大260kg、沈下速度0.68m/秒。

 

 

 8月3日から1カ月間、飛行協会と文部省共催の第1回グライダー製作講習会が東京蒲田の東京高等工芸学校分教室で開かれ、全国の工業学校、中等学校の教職員60名が受講した。講師は山崎好雄、倉橋周蔵、築島棟吉、徳丸芳雄(現東京都立航空工業短期大学長)、その他。会期中に荒木文相、田中館博士など参観に来た。

  

 8月4日から10日間、極東帆走飛行クラブでは大島三原山、御神火下砂漠地帯でグライダー練習会を開き、登山客の目をひいた。

 

 8月5日、佐藤式TC型はソアラーは羽田飛行場で、大毎航空部の志鶴飛行士操縦、日本学生航空連盟の熊谷飛行士操縦の九五式練習機の曳航で公式試験飛行をした。500から1,000mで離脱、連続ループ、上昇反転などの曲技を行い、好成績でテストを終了した。翌6日は福田前田の六甲型ソアラーの公式テストが、やはり羽田で行われた。

 

8月10日から同30日まで、朝鮮航空連盟主催のプライマリー、セカンダリー、グライダー講習会が京城飛行場で開かれ、24名の講習員が3週間にわたって熱心に講習を受けた。講習員は大部分が中等学校の生徒であった。同連盟では、これから全鮮の中等学校生徒にグライダーを普及させようと計画している。 

 

 8月10日から同27日まで、朝日と飛行協会主催の全日本学生滑空訓練大会が霧ヶ峯で行われた。23日、立命館大、長谷川誠一君は、セカンダリーをウインチで曳航練習中錐もみに陥り墜落死亡した。

 

 

 8月17日から同25日まで、飛行協会、日本帆飛連、大毎、東日主催の第2回全日本帆走飛行競技大会が大阪、盾津飛行場で9日間にわたって行われた。参加選手と機体は、志鶴忠夫(ゲ式3型)、小田勇(六甲2型)、渡辺宏(C2型)、清水六之助(TC型)、福田秀雄(ゲ式1型)、利根川勲(C2型)、久田寿夫(C2型)、島安博(C5型)、大和快三(前田5型)、中野徳兵衛(美津濃301型)、肥田木文夫(C2型)、山本勲(ゲ1型)の12名、いずれも一級滑空士である。成績は、特賞、志鶴(距離33.8km)、小田勇(滞空2時間24分)、高度賞、1等渡辺(500m)、滞空賞、1等渡辺(1時間15分)、2等、福田(1時間)、距離賞、1等渡辺(30km)、2等、清水(25km)、3等、小田(24km)

 

  

 8月28日から3日間、朝日、飛行協会、青年航空団主催の第1回全日本学生グライダー競技大会が霧ヶ峯で、8月10日から27日までここで行われたグライダー訓練大会の後をうけて開催され、大学専門学校18校、中等学校17校、学生150名が参加した。成績は大学専門学校セカンダリー90度旋回第1位、岡田忠治(金沢高工)、同360度旋回第1位、森謹吾(法政大)、中等学校プライマリー第1位、吉冨仁(帝国商業)。

 

  

 8月末、千葉県船橋市の旭航空工業KKでは九帝型の製作権を得て、この春から九帝七型ソアラー、九型Aプライマリー、九型Bセカンダリーを作っていたが、何れも1号機を完成。

 

  

 9月1日から17日まで、阿蘇大観峯で飛行協会と九大航空会共催の記録飛行会を行った。天気があまりよくなくて予期した記録はでなかったが、九大の田中丸治広滑空士は九帝七型で1時間以上の飛行を3回行い、また積雲飛行で、高度1800、獲得700mの上昇をした。

 

 9月22日から10月1日まで、帆飛連では立川飛行場で野外滑翔研究会を開き、松下、清水、岸田、近藤の4人の滑空士が、TC型をクレム25で曳航して、テルミーク飛行の研究をした。

 

 

 9月には、かねて航空局が奨励金を出して試作させていた伊藤飛行機のC6型と佐藤式TC型、福田前田の前田式六甲1型と2型、日本小型の鳳型の5台の単坐ソアラーができ上り、羽田飛行場で公開飛行をした。

 

 

10月1日から3日まで、新京南飛行場で第2回全満グライダー競技大会が開かれ、わが国からも大日本飛行少年団員5名が特別参加をした。 

 

 

 10月下旬、大衆向きのピアノ製作で有名になった大阪のアカシヤ木工KKでは、時代の寵児グライダーの製作にのりだし新工場を建てプライマリー、セカンダリーの量産をして認められていたが、今度初めてのソアラー・アカシヤ式巻雲1型を試作した。

 

 

 

 10月号、航空時代は「グライダーに関する諸家の意見」を特集した。内容は下の如きものである。

 近年わがグライダー界は、漸く振いかけてはきたが、まだ漫然たる歩みをしている。それは国策的な指導方針がないからでもあるが、他にも缺る所が多いからだと思う。今日は理屈ぬきにしてグライダーを国民的なものにする必要がある。この秋にあたり、わがグライダー界を世界的水準に引上げる方策を明示することは国策的な急務の一つである。ところで、その最も効果的な方策は何であろうか。本誌は、このことに関して関係各方面の権威者をえらんで高見を求めたところ、誠に有益な玉稿十数篇を得た。ここに特集するものが即ちそれである。この企は必ずや今後のわがグライダー界に寄与するところ大であろうと確信する。

「感じている事三つ」飛行第5連隊長、近藤兼利陸軍大佐。

「滑空訓練の教育的意義」文部省嘱託、関口隆克。

「国家は如何なる奨励方策をとるべきか」帝国飛行協会嘱託、加治木智種海軍中佐。

「斯くの如きを望む」大毎航空部、松下弁二。

「グライダー訓練の精神的価値」航空局、航空官、川崎忠三郎。

「設計者、製作者、滑空士に対する希望」大毎航空部、志鶴忠夫。

「希望の一端」日本帆飛連、一級滑空士、清水緑。

「炭焼グライダー練習法」福田前田軽飛行機、一級滑空士、小田勇。   その他

 10月9日から11月25日まで1ヵ月余にわたり、飛行協会の第6回グライダー指導員講習会が、桐生愛国飛行場で開かれた。これは去る7、8月に甲府の山梨飛行場で開かれた飛協のグライダー訓練講習会をはじめ、新潟、静岡、兵庫その他、各地の飛協地方本部で行ったグライダー訓練参加者中から選抜して、二級滑空士の技倆を得させる目的で催されたものである。監督石橋嘱託、教官利根川、渡辺、杉本、大黒、李の各滑空士。講習生は1期、2期の各期とも約30名。日課は6時起床、同30分朝食、7時点呼飛行場へ出発、同半格納庫を開き、団旗掲揚、宮城遥拝、訓練開始、11時半訓練を終わり、機体点検手入れ、昼食、午後1時訓練開始、4時訓練終了、機体点検手入れ、国旗降下、4時半飛行場出発帰宿、5時食事、入浴、休息、9時点呼消灯。課目は高度1,2mの直線滑空から、ウインチ発航による360度旋回に至る。講義は関根元陸軍技師の航空気象学、航空計器、早川航空局技手の航空法規、グライダー工作法、飛行協会加治木嘱託の世界のグライダー界等。

 

 

 10月26日、朝日新聞社航空部の熊谷飛行士は伊藤式C6型ソアラーに乗り、飛行機曳航で桐生飛行場を離陸し、高度500mで曳航機より離脱、赤城山の長波上昇風に乗り、2時間20分滞空し、1,850mの高度まで上昇した。これはわが国で初めての長波ソアリングである。

 

 12月22日から29日まで、8日間、浦和市、秋ヶ瀬滑空場で、極東帆飛クラブ、とんび会その他主催の年末グライダー練習会が帆飛連後援で行われた。指導者は清水、利根川の両一級滑空士、参加者32名、ゴム索からウインチ発航まで、總計436回の練習をした。

 

 

 12月24日、大阪の福田前田軽飛行機製作所はプライマリー100機を陸軍に献納を申しでて、この日、立川の陸軍航空技術学校で、その献納式を行った。

 

 

 この昭和13年度末における滑空士免状所有者は一級40名、二級176名に達した。

昭和13年~外国~

この年のレーン大会は未曽有の高度記録をだした。即ち3,000m台の高度飛行が70回、4,000mを超すものが31回も行われ、ルフトハンザの操縦士ドレクセルはヒルト設計のミニモアで積乱雲中を海抜8,100mの高度に達し、6,687mの高度を獲得した。また200kmを超す距離飛行が100回、さらに18機が群をなして、ワッサークッペ―ベルリン間350kmを翔破した。大会中の滑空距離合計7万6,000kmに達した。この秋には、本年の春ドイツに併合されたオーストリアでは40時間51分の複座滞空記録ができ、11月にはグルナウ滑空学校教官チラーはクラニッヒ複坐機で、有名なモアツァゴトル雲を利用して海抜8600m、獲得高度6,840mの高度記録を作った。近年のドイツの高々度飛行の発達は驚異的であった。この昭和13年末にはロジッテン・グライダー学校の教官、ベデッカー、ツァンダーの2人は、クラニッヒ型で酷寒、暴風と戦い、2日2晩飛び続け、50時間26分の大記録を作った。このうちの30時間は夜間飛行であった。

 

 

 

 



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