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 去る12月29日から1月6日まで、9日間、別府市外十文字原(昭和7年に志鶴氏が十文字号で、8km、8分34秒の日本記録を作ったので有名になった)で大阪の福田前田軽飛行機の12名、大分中学校の二階堂先生以下20数名、それに地元の二級滑空士阿部奈良喜氏を加えて練習会を開いた。教官は福前(註-福田前田軽飛行機)の小田一級滑空士と秋元、阿部二級滑空士。

 

 

昭和14年(1939)

 1月1日から5日間、東京市役所グライダー部は、月島埋立地で田中二級滑空士指導のもとに練習会を開いた。これが関東における年始グライダー練習の皮切りであった。

 

 1月2日から6日まで、大阪盾津飛行場で大阪城東商業、大阪桃山中学、美津濃グライダー研究会、大阪金岡グライダー・クラブ、川西帆走飛行研究会、尼崎グライダー研究会、それに甲南高等学校学生5名、福知山中学の先生、大槻少尉など、60名が集って耐寒グライダー練習会を催した。この会は、すでに3年前から、新年早々、毎年開いていて、今度で3回目である。機体はゲッピンゲン1型美津濃301、同じく美津濃のセカンダリープライマリー3、教官は主任、志鶴氏、副は大牧氏、中野徳兵衛氏、藤原金太郎氏、都築嘉雄氏。この5日間は雨、雪、風があって天候はよいほうではなかったが、1日も練習を休まず、大変能率をあげた。

 1月4日、満州飛行協会の弘中正利一級滑空士は、大連飛行場の付近でゲッピンゲン1型で3時間25分滞空して満州記録を作った。

 

 1月下旬、かねて文部省が関口隆克嘱託、榊原航空官、航研の山本峯雄氏らの協力を得、社会教育局の映画技師、雨夜全氏のカメラで作っていた「滑空訓練」2巻ができ上り、1月16日のトンビ会總会などで公開され、好評であった。希望者には2巻で約300円の実費で複写する。

 

 2月号、航空時代に飛行協会總務理事四王天延孝中将の「世界一周グライダー土産話」が掲載された。同中将は昨年8月初めに出発し欧米を視察し、本年1月初め帰朝した。

 

 2月1日、文部省で、滑空訓練教程草案作製のための第1回委員会が開かれた。委員長は航研の岩本周平教授、委員は中央気象台の藤原咲平博士、航空局千田貞敏乗員課長、甲斐茂吉規格課長、榊原茂樹航空官、青木京航空官、航研山崎好雄助手、飛行協会加治木智種中佐、厚木中学永野毅校長などで、それぞれの分科委員会を設け、夏前には草案を完成の予定で努力することになった。

 

 2月6日、去る1月21日から生駒山頂で待機中だった福田前田軽飛行機の小田勇一級滑空士と美津濃グライダー製作所の中野徳兵衛一級滑空士は、この日約13m/秒の強風をついて、まず中野氏が美津濃301型で午前7時47分ゴム索発航で山頂を飛出し、引続き小田氏も六甲2型で吹雪の中に突入した。両機は生駒と信貴山との間を風雪と戦い快翔し続け、中野氏は5時間8分、最高1,800m、小田氏は9時間33分、最高々度2,600mの好記録を作った。同じ場所で昭和11年1月27日、志鶴氏が9時間23分の記録を作ってから満3年で、今度小田氏がこれを更新した。

 2月11日、わが委任統治領の南洋群島のグライダー熱は昨年から急激に上昇し、本年早々サイパン・グライダー協会が結成されたが、この日、紀元節の佳日を卜して、その発会式とグライダー命名式が盛大に挙行された。この会の中心になっているのは、南洋庁属の迎亮一氏、サイパン郵便局員で二等航空士だった大野源治郎氏で、この二人の張り切り方は大変なもので、迎氏は常任理事として、大野氏は訓練の教官として活躍している。材料入手も容易なことでない南洋の孤島で、会員が協力して立派なプライマリーを2機も作りあげて飛ばしている。(航空時代8月号、サイパングライダー協会の沿革と現状、大野源治郎)

 

 2月19日から同26日まで、8日間にわたり、ローマの郊外セッツェ・リットリアのグライダー学校で、1940オリンピック競技用グライダーを選定する審査委員会が開かれ、佐藤九大助教授と守屋東大教授は審査に立合った。この時の様子は(航空時代6月号、ローマにおけるオリンピア滑空機の審査会、九大助教授、佐藤博)に詳細報告してある。

 

 3月1日から10日間、甲府の玉幡飛行場で文部省航空評議会主催の第1回気流調査滑空会が開催された。委員は岩本周平、藤原咲平、甲斐、榊原航空官、青年航空団の摺沢大佐、梅沢山梨飛行学校長、密田甲府測候所長の諸氏、飛行班は日本帆連の松下、清水、学生航連の熊谷、祝、青年航空団の沢田、桑本、山梨飛校の梅沢、篠田、福田前田の小田の諸氏、使用グライダーは、航空局試作の高性能ソアラー佐藤式TC伊藤式C6、同DⅠ、日本式鵬型光式複坐の5機。グライダーを使って学術的気流調査をしたのは日本ではこれが最初であった。


 3月15日、航空日本の育ての親である井上幾太郎陸軍大将(帝国在郷軍人会長、大日本青年航空団長)は甲府市外玉幡の山梨飛行場で、松下弁二飛行士の操縦する福田前田の並座ソアラー光式6.1型に同乗飛行して、グライダーの快味を味った。

 本機は遞信省試作機で、わが国最初の並座式のグライダー、設計者は同製作所の技術部長高木基雄工学士、機体要目は、翼幅16m、翼面積20㎡、翼型64012、空重量260kg、搭載量160kg、滑空比21.4、沈下速度0.85m/秒。

(航空時代4月号、井上大将のグライダー試乗を見る、渡部一英)

 

 3月16日から同25日まで、東京芝の東京高等工学校グライダー部員21名が大島三原山で春休みを利用して合宿練習をした。帆飛連の清水一級滑空士が指導し、伊藤B2型セカンダリーとA2型プライマリーの練習をした。

 

 3月26日から4月4日まで、箱根十国峠で、極東帆走飛行クラブ、帝国商業グライダー部、とんび会主催、帆飛連後援の春期合宿練習が行われ、教官は松下、清水、利根川各一級滑空士、上級者にはソアリングの要領を教え、中級者には旋回要領を練習させた。(航空時代5月号、三原山、十国峠における滑翔練習会報告、日本帆飛連、清水緑)

 

 3月30日、今秋、明治節を中心に5日間開かれる第10回明治神宮体育大会の実施要網を決める体育審議会特別委員会で、拳闘、ヨット、卓球、カヌー、重量上げ、送球、職業相撲は競技種目から除外され、またグライダー競技も本年は行わないことになった。一昨年は滑空競技を加えることになっていたところ、開催間際に、支那事変が起ったため中止となり滑空界を失望させた。しかしその後グライダー訓練の重要性は益々増大し、事情好転にともない本年は必ず開かれると、グライダー関係者は期待していたが、またまただめになってしまった。中止の理由は、文部省は中等学校の生徒は神宮競技には加えない方針であること、一般アマチュアでは滑空競技に出場する技術のものが甚だ少ないと考えているからだ。こんな理由でグライダー競技をとりやめにする当事者の態度に、グライダー界では大きな不満を感じている。

(航空時代6月号、NSFKについて、第6回ISTUS總会に出席して、九大助教授、佐藤 博)

 

 3月末、文部省で調査したグライダー部をもつ学校の数は、高等専門学校30、中等学校120校であった。

 

 3月末までに(即ち昭和13年度内に)帝国飛行協会が出したグライダー製作費補助は110機2万5,820円であった。

帝国飛行協会の本昭和14年度事業予算は前年度を踏襲し、グライダー関係約8万円となった。


 4月1日、満州飛行協会ハルビン支部の益井操縦士は伊藤式C2型にのりハルビン市上空で滞空1時間45分、高度2,500mの満州新記録を作った。

 

 4月22日から3ヵ月間にわたり、青年航空団の昭和14年度の第1回滑空訓練が千葉県の柏飛行場で行われ、このため新たに募集した団員50名の結成式が、4月21日、神宮外苑日本青年会館で挙げられた。この滑空訓練の目的は、二級滑空士の資格と指導者としての技倆を得させること。募集人員は甲種生50名、乙種生50名。甲種生は中学校および甲種実業学校卒業生で母校の指導者たらんとする者。乙種生は中学4年以上の学力をもつ者。年齢制限は甲は満18歳以上20歳まで(但し学校で特に推薦する者は28歳まで認める)乙は満17歳以上20歳まで。甲乙ともに訓練期間中に徴兵検査を受ける者は除外する。各府県の募集人員割当は、甲、乙とも各々1名か2名となっている。

 

 本所で自分の工場でグライダーを製作していた白石襄治氏は、最近この工場を青年航空団の附属工場に提供し、その工場主任となった。

 

 4月10日から1ヵ月間、飛行協会は名古屋市外小幡原飛行場でグライダー指導員講習会を開いた。4月10日から同18日までを第1次とし、これでは二等以上の飛行士10名に限定して、まず九五式3型曳航飛行機の練習をさせ、それから第2次に入るが、これには第1次訓練をうけた者全部の外に二級滑空士10名を加え、合計20名の練習生に、専ら曳航飛行の訓練をする。この第2次訓練の指導者は松下、清水の両氏であった。この講習会で初めて曳航電話が使われ、曳航飛行中に、曳航飛行機と滑空機とが自由に話すことができるようになった。



昭和14年(1939)~外国~

2月には、FAIは翌1940年オリンピック用制式グライダーを決めるため、ローマで審査会を開き、独、伊、ポーランドが出した5機を審査して、ドイツ滑研のマイゼ(四十雀型)を選定し、オリンピア機として各国に広めた。この年のレーン大会は、第2次世界大戦が勃発する直前に開かれたが、300km以上の距離飛行が12回、4,500m以上の上昇が3回、3,000m以上が31回、総滑空時間2,150時間という盛況であった。この直後にドイツはポーランドに攻め込んだ。広大な領地と、スケールの大きな気象を、存分に使えるソ連は、次第に距離記録を高めてドイツを圧し始めていたが、昭和14年の夏には、女流滑空士クレビコバの749kmをはじめとして、目的地飛行602km(単坐)、395km(複坐)などの大記録を続々作った。


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