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昭和15年(1940)

 1月19日、美津濃グライダー部の新進テストパイロット、吉川精一、一級滑空士は、美津濃301型ソアラー(九大佐藤助教授設計)で朝7時44分、生駒山頂をゴム索発航し、零下10度の寒風と戦い、ついに滞空10時間、絶対高度2,810m、獲得高度2,320mの記録を作った。記録の証明をしたのは当時の大阪飛行場長、松尾静磨航空官(現日本航空会社々長)であった。(航空時代3月号、「日本新記録を樹立して」美津濃グライダー研究会、一級滑空士、吉川精一。)

「いよいよ雲が多くなってきた。もう5時間以上飛んでいる。コンパスをにらんで雲の中に突こむ。出るたびにほっと一息つく。今度は大ぶん厚いのがやってきた。もう逃げる余地がない。コンパスと速度計をにらんで突入する。相当な積雲らしく、盛んにがぶられる。容易に出られそうにもない。大きくガクリとゆられたと思うと、コンパスが風車のようにくるくる回りだした。ブリルにはいったかと思ったが、どうも回っているようにも思われない。速度計はふらふら上下している。少し押えたら針の動きがとまった。機体の姿勢がわからない。80km/時で西へ西へと突込んだ。もう奈良の上にでもきているかもしれない、だめだったら奈良の練兵場へ降りようと考えた。やっと下界が見えた、高度は1,000m、下は山中で、信貴山が前方に見えた。それからは雲がこわくて、80km/時でぐんぐん突込んで飛んだ。雲の中で大ぶん神経が疲れたのか、操縦桿を握る力も次第になくなるような気がしてきた。手放し飛行を思いだして、70km/時で手を放すと、機体は60から80km/時の間をピッチングしだした。後へもたれて計器板を睨んでいる、眠いというより気を失いそうである。それがとても気持ちがよい。ガクリとブリルに入って、ハッと目を醒ます。すっかり眠っていたのだ。ああ恐ろしいと思った。一寸の間気が張るが、またすぐ眠くなる。わあわあ大声をだす。日は沈んだ。とうとう1日中空で過した。盾津飛行場は暗くて見えない。心配になって着陸を決心した。高度2,400mで山を離れ盾津に向う。飛行場の上空でまだ2,000mの高度があった。布施へ行って帰ってくると、暗くて目測がつかない。横滑りで高度を落として、やっと着陸した。」

 

 

 2月2日、飛行協会がドイツから購入した1940オリンピック制式ソアラー(マイゼ)はドイツからイタリア、イタリアから海路横浜に到着した。

 

 

 

 2月3日、福田軽飛行機の岡本徳子二級滑空士は一級に昇進した。日本最初の女流一級滑空士である。

 

 

 2月8日、(航空時代4月号、日本最初の夜間-)

 吉川滑空士の10時間の記録はグライダー界に大きな刺激を与え、福田軽飛行機の矢野重幸一級滑空士は、この日午前2時47分、闇をついて生駒山頂からスタートしたが、間もなく風が弱ったため、48分間の滞空で降りてしまった。しかしこれは夜間滑空としては最初の試みであった。続いて10日には、飛行少年団の大和沢三滑空士が、第2陣として、また真夜中に生駒山上から飛出したが、これも、状況利あらず、滞空15分に終わった。

 

 

 2月12日、ピアノで有名な東洋金属木工KKで進藤鈔氏(川西航空機技師)設計のアカシヤ式巻雲2型ソアラーが完成し、この日航空局のテストを終わった。本機は支柱付ガル翼の単座ソアラーで要目は、翼幅12.8m、機長6.3m、翼面積13.65㎡、翼断面ゲ535、空重量140、搭載80、全備220kg、翼面荷重16kg/㎡、滑空比20、沈下速度0.08m/秒、着速46km/時。(航空時代3月号)

 

  

 2月17、8日、結氷1尺の諏訪湖上で、上諏訪グライダー研究会の氷上練習が、プラ1、セコ1機を使って行われた。昨年もここで同じ催しがあり、それが日本で初めての氷上グライダー練習だった。日本アルプスの雄大な姿を眺め、大氷原は坦々鏡の如く、着陸のショックはほとんどなく、気流は絶好、滑空の気分は壮快極まりなしとのことだ。

 

  3月3日から13日まで、11日間、文部省航空評議会主催の第2回気流調査滑空会が甲府玉幡飛行場で行われ、總指揮は陸軍気象部長、新妻少将、飛行班長は松下弁二(文部省滑空訓練指導官)以下参加全員35名、使用機は九五式3型飛行機2機、光式6.1型複座ソアラー、光式ゲッピンゲン1型ソアラー3機。 

 

 

 3月20日から4月20日まで、1ヵ月間、飛行協会は、東京深川飛行場の同協会格納庫で、グライダー製作講習会を開いた。受講者は、各地方から集まった14名の二級滑空士で、プライマリーの製作、修理、管理の技術を講習した。

 

  

 3月30日、飛行協会では、ドイツから購入したオリンピア・マイゼの初飛行を東京洲崎の深川飛行場で、関係者を招いて行った。また福田軽飛行機KKで航空局の試作命令で作った国産マイゼも、この日、ドイツ機とならんで比較飛行をした。さすがにグライダーの總本山ドイツが誇るオリンピア機だけに、美事な機体で、関係者一同感嘆するのみであった。本機は計器一式つきで4,800円、送料が700円、合計5,500円であった。

 航空局からオリンピア機の試作命令を受けたのは福田飛行機の外に、伊藤、日本小型、美津濃、アカシヤ木工の5社であり、オリンピアの図面と現物が入ってきたことによりわが国のグライダー製作技術は飛躍的に進歩してきた。

 

 

 3月の終わり、東大航空研究所物理部に長く勤めていた山崎好雄氏は、体育官補として文部省入りをし、グライダー関係の仕事をすることになった。先には飛行機パイロットの大先輩であり、グライダー・パイロットでもある松下弁二氏をはじめとして、数名の滑空士を迎えた文部省が、またグライダーの製作方面の先輩である山崎氏を加えて、学校滑空訓練本部の陣容を強化しつつあることは大いに注目に価する。

 

 またこのほど学校滑空訓練中央連盟というのができて、文部省内にその本部が置かれた。

 

 

 4月26日、文部省では学校滑空訓練用として文部省型初級滑空機の型式を決定し発表した。日本滑空機工業組合は、これまではプライマリーは550円と販売価額を協定していたが、文部省標準型プライマリーが示されると、材料費が昂騰している今日、前の協定価額では全然利潤をみることができないので、文部省と組合間で交渉の末、文部省型プライマリーは580円に改定した。

 

 
~外国~

 ソ連の第15回全聯邦グライダー競技大会で6月11日に距離(速度)競技が行われ次の成績をあげた。150km指定コースの速度競技、1位サフツォフ(2時間32分)、90km指定コース速度競技1位プロホーロワ(女流滑空士)2時間4分。これは朝川君の96km、2時間12分とほとんど変わりはない。

 



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