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昭和16年(1941)

 

 

 1月1日、大毎、東日は大日本飛協と共催で次のような企画を社告で発表した。

 

(中級練習用滑空機設計募集規則)

1、設計募集の趣旨

 わが国の滑空界は最近とみに隆盛の傾向を示しているが、高度国防国家建設を基本国策とするわが国現在の情勢に鑑み誠に慶賀にたえない。本設計募集計画の主催者たる大日本飛行協会、東京日日・大阪毎日新聞社では最近における内外の情勢に即応し、わが国滑空界のより以上の普及大衆化と、技術、精神の向上をめざし、現在最も普及せる初級滑空機より直ちに訓練に入り得、かつこれによって直接高級な滑翔機訓練に入り得る中級練習用滑空機を普及せしめ、もって従来初級練習修了者の大部分が、そのまま訓練を中止せざるを得ない状態にある現状を改善することを目的として本計画を実施することになったもので、広く満天下の技術者より理想的な日本的中間練習用滑空機設計が寄せられんことを期待するものである。本募集計画において主催者が希望する理想的設計は、以下の「設計要綱」に示すような条件により設計せらるべきである。特に強調したいことは、次の3点である。

 (1)、初級練習終了者が直ちに訓練に入り得、かつこれ1機種のみの訓練で滑翔機訓練に進み得るもの。

 (2)、初級練習終了者または初級機製作、組立経験者が製作し得、もって操縦技術のみならず製作技術をも修得し得るもので、従って製作費も低廉ならしめ普及を容易ならしめ得るものであること。

 (3)、従来の中間練習用滑空機は、その構造上運搬に不便で、特に汽車の運賃100円以上を要し、また訓練のため高地への運搬に著しく不便を感じているのを改善したものであること。

 2、募集要項

 (イ)、応募締切、昭和16年3月末日。

 (ロ)、入賞発表、昭和16年11月3日。

 (ハ)、賞金、1等(1設計)3,000円、佳作(2設計)各1,000円(何れも事変公債)。

 (ニ)応募設計宛先、東京市麹町区有楽町、東京日日新聞社技術研究部。

 3、設計要領

 (イ)翼幅12m以下、翼縦横比9以下のこと。

 (ロ)乗員の標準重量は60kgとす。

 (ハ)最小沈下速0.85~0.95m/秒とす。

 (ニ)最大滑空比13~16の間なること。

 (ホ)中級練習者に対し適度の安定性、操舵性あるもので、各舵の利きが互に均衡を保っていること。

 (ヘ)強度は「日本航空学会編、航空工学便覧762、3、4頁の第1種機に適合すること。

 (ト)国産材料を使用し製作費低廉なこと。

 (チ)構造簡単で既製部品より製作修理を容易ならしめること。

 (リ)分解、組立容易なこと。

 (ヌ)運搬容易、運賃低廉なこと。

 4、設計図内容

  応募者は左の図面、計算書、仕様書を提出すべし(図面は審査の便宜上なるべく詳細に記載すること)

 性能計算、安定計算、強度計算、

 三面図、主翼関係図、胴体関係図、

 尾翼関係図、降着装置図、操縦装置図、

 金具図、

 仕様書、      以上

昭和16 主催  大日本飛行協会  

            東日、大毎新聞社

 

 

 (函館から東京へ中等学校の先生の滑空訓練)

 1月3日から、新誕生の函館滑空協会所属の同市付近の中等学校の先生24名は、冬の北海道では滑空訓練は思うようにできないと松戸の滑空場まできて練習し、引続き9日から15日まで東京洲崎飛行場で訓練をした。函館滑協の訓練部長で、この一行の団長の函館中学の水上正広校長も索引きをやり、同中学の小野先生は53歳のOBであった。一同規律正しく、張り切って文部省の指導官らを感心させた。

 

 

(田中丸・九帝七型海岸上昇風で7時間20分)

 

 1月12日、九州帝大航空会の田中丸治広一級滑空士は九帝七型ソアラーに乗り、福岡市外奈多海岸の高さ15mの砂丘を朝10時25分出発し、高度20乃至50mを保ち、海岸線に沿う3kmのコースを80余回往復し、7時間20分滞空し、午後5時45分、海岸の砂浜に着陸した。海岸上昇風による日本滞空記録である。(航空時代2月号、「玄海灘の海風と闘う7時間20分」九大教授佐藤博、一級滑空士田中丸治広)

 12日夜明けと共に出発しようと、早朝から七型を整備したが、残念にもゴム索を曳く人手が足らず、村の子供をよび集めて、ようやく10時25分に出発することができた。風は約14mであったが、西風で斜面には少し斜めに吹きつけている。出発点は水面から僅かに15mの高さしかないので、用心して出たところ、離陸と同時に強い上昇風に乗って第1旋回を終わると50m位上昇した。やがて高度は次第に増し、平均して150m位保てるようになったので、海岸線に沿うて段々とコースをのばしていった。出発後2時間ほどたつと風は10m位になったが、風向は少しづつ北により、斜面に正対して吹いてきたので高度を保つのもよほど楽になった風が強くなると海岸から100m位海上に出たほうが、気流がよく、上昇速度も2m/秒を示すことが度々あった。午後3時ごろには、霰まじりの雲が強風をともなってきて、300m以上の高度になったのに驚いた。注意していると、この時は海面の一部が濃くなって、水平線の彼方から近づいてくるのが判るので、風に機首を向けるようにして待っていると、バリオメーターより一足先に押し上げられるように感じる。次の瞬間に針はプラス2mを示してグングン上昇してゆく。この強風のくる時にはきっと鳶が数羽機のすぐそばを悠々と飛び、中にはグライダーを追越していくのもあった。彼らの後についていってみると間違いなく高度がとれるので、今さらながら彼らの感のよいのに感心した。このようにして鳶を道しるべにして助かったことがしばしばあった。日没が近づくにつれ、風も夕陽と共に落ちるように感じられ、高度を保つのに骨が折れるようになった。こうなると悲しいことに高度差が小さいので、どうすることもできず、5時45分、あっけなく砂浜に着陸した。7時間20分という記録そのものは、何も取りたてていうほどのものではないが、しかし僅か15米ほどの高さの何でもない海岸でも、至極簡単に5時間や10時間の飛行ができるものだということを実証した点では、決して無意味なものではなかったと思っている。昭和14年の阿蘇山の7時間飛行の時は、時間のたつのが非常に長く感じたが、今度は高度が低いので砂文字通信や声援が大変よく判り、ちっとも退屈も疲労も感じなかった。こんな愉快な飛行は今までに初めて経験したので、海岸線に恵まれたわが国では、これから海岸滑空を盛んにしたいものである。

 1月13日、光帆走飛行隊教官、小田勇、秋元正男両一級滑空士は、生駒山で季節風を使って快翔を続けていたが、午後3時ごろ西風が北風に変わり、さらに風が止んでしまったので、それまで2,000mも高度をとっていた小田機はついに生駒山の西側に不時着の止むなきに至った。滞空8時間30分で、日本記録にはならないので、近く再挙を図る予定である。

 

 

 1月中旬、日本小型飛行機KKで作っていたモーター・グライダー、日本式蜂型ができ上がり、近く飛行テストをうける筈である。これは、わが国最初のモーター・グライダーで、要目は、スパン15m、翼面積15.5㎡、自重257kg、乗員75kg、燃料9kg(12ℓ)、全備341kg、エンジンAVA4気筩、水平対向、空冷2衝程、28馬力(このエンジンはプ・ド・シェルのものと同一)翼面荷重20.8kg/㎡、馬力荷重11.4kg/馬力、破壊荷重係数8、

 

(飛行機として)水平速度134km/時、着陸速度62km/時、離陸滑走、無風時70m、航続約1時間。上昇時間、1,000mまで14分、2,000mまで32分半、3,000mまで59分、実用上昇限度3,000m(絶対4900m)

(エンジンを止め、グライダーとして)最少沈下約1m/秒、滑空比20.3(73.2km/時で)

ヤジローベエのような一本脚の単車輪だから離陸滑走を始める時には、グライダーのように翼端を持って走らないといけない。バタバタとオートバイのような音をたてて走り出した。

 

 

(朝日新社聞が中等学校にプライマリー200機を寄贈)全国男子中等学校生徒の滑空訓練は近く正科になるはずであるが、まだグライダーを持たない学校が多いので、朝日新聞社では大日本飛行協会の賛助のもとに、1校1機を目標にして、プライマリー200機を順次各学校に寄贈する計画を立てた。詳細は逐次発表されるはずである。

 

 

 

 (大阪信太山に大滑空場計画)

 

 

 大阪府では大国防訓練場の建設を計画し、府下信太山を中心に約5万坪の大滑空場を造る計画を立てている。工費約50万円、工事は3期に分け、地均し工事などは学生生徒の勤労奉仕によるはず、今年の夏から着工の予定で、格納庫、宿舎など3棟のほか、自動車訓練場も併置する予定である。

 

 

 (航空時代2月号)ドイツは英国侵入のため、軍隊輸送用のグライダーを製造中と伝えられている。中正夫氏は「ドイツの驚異、軍隊輸送グライダーの技術的研究」と題する論文を出している。

 

 

 

 1月26日、大阪美津濃グライダー製作所の常国隆滑空士は午前7時25分、生駒山上滑空場を出発(美津濃301型で)12m/秒の西の季節風に乗って快翔を続け、午後5時59分、薄暮の盾津飛行場に着陸し、滞空10時間33分30秒、高度3,600m(非公認)の記録を作った。(航空時代、4月号、「高度記録3,600m、美津濃グライダー研究会、城東職工学校滑空部冬期耐寒訓練参加記」二級滑空士、常国隆)

 

 7月25分山上より出発。30人の友が苦労してかつぎあげた301型に、自分1人が乗って飛ぶのだ、友よありがとうと感謝しつつ飛びだす。初めは調子をみるため、頂上から1kmぐらい前にでて旋回した。速度を55km/時まで落とす。高度は1,200から1,800mの間を上下した。約50分ほどおくれて金機が出発した。西の方に盾津の上まで出たが高度は下らない。高度1,900mを保って布施の上にでた。これから信貴山に向う途中、2で落とされ、高度800で、やっと信貴山にとりついた。80km/時出して信貴山の前方に2kmほど出ると、ごくっと強くつきあげられた。テルミークだなと、直ちに旋回に入ると2で上昇し、2,800mになった。60km/時の速度の旋回をやめて、70km/時で前進しても、やはり2である。速度を55km/時に落として依然として2の上昇を続けた。機はほとんど一点に静止したまま高度3,000mになった。昇降計はゼロを示している。そのまましばらくたつと雲が出てきた。70から80km/時の速度で雲に入ったり、よけたりしていると高度は2,800mになった。前方から大きな白雲がくるとみる間に、逃げおくれて入ってしまった。パチパチと霰が風防にはじきかえった。あたりは一面真白だ。十分高度があるから下に逃げようと、150km/時で突込んだが、10分ほどたつても抜けられない。昇降計は依然として2であった。これでは上に逃げなくてはいけなかったのだと、速度を60km/時に落とす。しばらくしたらコンパスがぐるぐる回りだした。全然方角がわからぬ。昇降計は4、いよいよだめだ。高度は1,800m、忽ち1,000m落とされたわけだ。高度は600mでやっと雲から抜け出した所は、生駒の東側、宝山寺の上100m、これで着木かと思ったが、神に祈念して、速度を55kmに落とし、昇降計ゼロでわずかずつ前進しているうちに、やっと700mになった。今だとばかり70km/時出して生駒の前に出たら㊉2になり、ほっと一息ついた。12時10分だった。生駒―飯盛山―石切部落―布施―信貴山、高度2,200m。堺まで行って引返えす。生駒山上は風速10m/秒。再び信貴山のほうに移動、高度2,800m。大和川の上空で昇降計は㊉3、シメた、これで積雲にとりつけると、旋回を始めた。3,000mで雲の下に出た。相変らず㊉3だ。前の雲より強力で上ってゆくのが身体にこたえる。いつのまにか雲の中に入り、しばらく回っているうちに雲の上に出た。高度3,600m。それから2時間ちかく雲上飛行であった。

 

 

 1月26日、常国氏より45分おくれて、午前8時10分、生駒山頂を飛び出した金光漢二級滑空士(飛行少年団大阪本部教官、二等飛行士)はアカシヤ式巻雲1型で生駒、信貴、飯盛山の間を縫うて飛び続け、夜にいり7時50分、焚き火を頼りに盾津飛行場に着陸した。滞空11時間40分、常国氏の日本記録は2時間の後破られた。南波航空官証明。(航空時代3月号、「生駒山を中心とする耐寒滑翔記」大日本飛行少年団大阪本部、二級滑空士、二等飛行士、金光漢)

 

 25日の午後から5、6m/秒の西風が吹き始めた。気象台に聞くと、これから3日間ぐらいは7、8m/秒の風が吹き続けるだろうとのことで、26日早朝から飛ばすことに決めた。この朝6時半の山上での風速13m/秒、地上では7m/秒とのことだった。8時10分出発すると直ちに上昇風に乗り、生駒の斜面を4、5回往復するうちに2,000米の高度になった。気温は10度、雲量6位、ほぼ雲と同じ高さなので、できるだけ雲に入らぬように逃げていたが、逃げきれずに雲中に入ると5分間以上も出られず、方角を失って閉口した。やがて2,500mまで上がると、雲は脚下を過ぎ、全く高度を失わずに40分間を雲上でソアリングした。出発後5時間ほどたつたころ、急に寒くなりキャビンのセルロイドが息でくもり、薄い氷が張ったようになるので、時々タオルで拭いた。足も冷いので、フート・バーは、ほったらかしで、時々両足をすり合せて暖をとった。この時、旋回はエルロン操作だけで十分だった。もっとも旋回といっても、風向に対して機首を30乃至40度ふり向けるだけである。気流はよく好調であるが、寒いのでカロリー食を食べ、航空酒を飲む。これで身体もホカホカと温り気持も楽になった。昇降計が故障して弱ってしまった。高度計は徐々に下っている。1,000mでしばらく飛んだ。信貴、生駒、飯盛山を何十回も往復する単調な飛行であるが、高度が余り高くないせいか、大した寒さではない。西斜面を照らす太陽熱上昇風か、風は大ぶん落ちたようだが、ソアリングには差支えない。やがていよいよ夕凪になったのか、機体は沈みかけたので、航空灯台のほうに行ってみると、熱上昇風があるようで、高度800mで、この付近を往復した。狭い範囲で旋回の回数も多くなり中々忙しい。すっかり夕闇につつまれ街は灯の海、空は一面の星であった。山の峯付近を飛びさえすれば高度は保持できた。潜熱上昇風だろう。暗くなって2時間もたつた頃、7時半ごろから次第に沈みかけた。高度は600mだった。いよいよ盾津飛行場の焚き火めがけて山を離れた。飛行場にきて高度があるので左横滑りをしながら、炊き火の近くに着陸したのが7時50分であった。

 2月7日、日本最初のモーター・グライダー、日本小型飛行機KKの蜂型(同社技術宮原旭氏設計)の試験飛行が東京飛行場で行われ、好成績をあげた。操縦は同社の吉原清治飛行士。

 

 

 2月7日、福岡の前田航空工業KKの河辺忠夫一級滑空士は、前田式703型、かもめ号で、午前10時27分、久留米市外耳納山の発心山頂より発航し、夜間に入っても悠々飛び続け、翌8日、午前0時8分、筑後川原、太郎原に着陸、13時間41分8秒の輝かしい記録を作り、半月足らずの間に金滑空士の日本記録を更新した。なおこの飛行は約7時間の夜間滑空をした点でも注目された。

 

(航空時代、4月号、「日本滞空時間記録13時間41分、夜間帆走7時間体験記」九州航空会 前田建一、一級滑空士 河辺忠夫)

 10時26分55秒、何ともうまく出るには出たが、風は弱いらしく、昇降計はやっとプラス0.5を指している。出発点の上を2往復すると、山頂(標高670m)から100mばかり上がれた。そろそろ羽根をのばして上昇風を探るべく、西方鷹取山のほうに向う。吹きたまりの上ではプラス2mほどの所がある。鷹取の上では高度1,000m、引返して高良山の上にくると1,200mになった。今日の天気では、これ以上はだめのようだ。12時、時々断雲が流れてくる。気温は0度。少し気分が悪くなって、とうとうあげてしまった。約2時間ばかり苦しんだ。すっかり胃の中が空になると少し気分が回復しかけた。気分転換に宙返りを2回連続したら、一ぺんに気分がよくなった。2時、3時、何の変化もなく快翔を続けた。山上の一点で煙が上がっている。山火事のようだ、様子を見ようとスポイラを開き、170km/時で突込む。昇降計はマイナス8の所で止まった。知らせようと出発点に引返して、大声で叫ぶが、一向に意味が通じないようだ。また現場に引返すと、10人ほど人がきて消していた。もう山火事に用はないので、スポイラを締め、速度を落とすと、またプラス2で上昇した。少し風がでたのか、一ぺんに1,200mまで上がった。4時、5時、だんだん気温が下がり、マイナス7度になった。足先には真綿を沢山巻いていたので助かったが、かかとが冷えて感覚がなくなった。5時半には陽が地平線に沈みかけ、真上には月が出た。6時過ぎると太陽はすっかり沈み月が輝き出した。筑紫野は既に暗くなり、村や町の灯が瞬き始めた。山脈に沿うて往復するのだが、出発点付近は高度が下がるので、東側の鷹取山付近をソアリングする。月光でわずかに山の稜線が見えるだけだ。20分おきに、出発点にかえり、翼端灯を点滅すと、吹流しの下でランプを振って応答した。8時過ぎには風が落ちて1,100mより上がろうとしない。筑後平野の村の灯、久留米の街の灯がぼんやりとみえる。零下8度、からだの調子はよい。9時すぎ、ふと有明海の方を見ると、地平線と平行に赤い火が、ずいぶん長く2ヵ所に連っている。不知火だ。1時間位見ていたが、いつのまにか忘れてしまった。11時過ぎると大ぶん冷えてきた。座席内のベビーライトが消えて、寒暖計が見えないが多分マイナス10度以下に下がっているだろう。耐寒酒を飲むと、からだがすこし暖まった。高度はもう900mに下がった。11時半ごろには、山頂100m以上には保てなくなった。もう幾らも滞空できそうにないが、吹きたまりで1時間ぐらいは頑張れるだろうと、200~300mの湾曲斜面で8字飛行を忙しく繰り返す。こうしてとうとう12時になったが、もう山頂すれすれまで下がり、いよいよ着陸を決心し、山上の焚火に向って大声で「着陸するぞ」と叫ぶと、了解したらしく盛んにランプを振っている。出発点より東方に斜面をつたって高良山のま上にくると、筑後川、太郎原の着陸場の焚火が見えた。高度600mで斜面を離れた。高度400mで着陸場に入った。筑後川は月明で白く映った。

 2月12日、萱場製作所が日本小型飛行機KKに注文して作らせていた鷲見譲次氏設計の萱場式5型無尾翼グライダーは羽田空港でウインチ曳航で試験飛行をしたが好成績であった。操縦は第1号機同様、萱場製作所の島滑空士だった。

 

 

 2月22日、大日本飛行少年団教官、金光漢滑空士は、その11時間40分の記録が河辺滑空士の13時間41分によって破られたので、再挙を計画し、アカシヤ巻雲2型ソアラーに夜間設備を完備し、この日の午前7時半、生駒山上からスタートし、快翔を続けたが、風向が北に変わって飛行継続が困難になり、午後2時半ついに盾津飛行場東方の田の中に不時着し、翼、胴体を破損し再挙は惜しくも挫折した。

 

 

 

 2月22日、美津濃の吉川精一滑空士は2月の初めから、日本帆走距離記録の樹立をめざして六甲山上で待機し、まず六甲で高度をとり生駒にとりついて高度を得、東進して宇治山田市外の明野飛行場に到着の計画を立てていたが、この日、午後2時7分、六甲の裏側に向かって発航、高度2,000mを獲得、さらに高度を増すように努力していたが、風向が北に変わったために、阪神パークに降りてしまった。機体は美津濃製オリンピアであった。

 

 

 

 

 航空局、器材課長、松浦航空官は、福岡飛行場長時代からグライダー界の発展に尽力されたが、今度、航空試験所第2課長に栄転した。また規格課長の甲斐航空官は、文部省式プライマリーの設計に尽力した委員の一人だったが今回、旅順工科大学教授に栄転した。後任は、このほど欧米視察から帰った駒林航空官が規格課長と器材課長を兼務する。またわが国のグライダー界のために尽し、日本滑空機工業組合の生みの親の南波航空官は、このほど台北飛行場長から4年ぶりで内地に帰任し、大阪第2飛行場長に栄転した。

 

 

 

 

 中央乗員養成所では昨昭和15年末、教官たちに滑空訓練講習をしたが、目下さらに地方乗員養成所の教官、助教となるべき人たちに滑空訓練を実施しているのだから、4月にこれらの人々が地方に赴任すれば、この方面の活動は一そう活発になるものと思われる。

 

 

 

 

 (中等学校教員の滑空訓練講習会、各地で開催される)

 

 

○東京府体育連、飛協、参加40名、茨城県鹿島滑空場、3月21日から4月5日まで、利根川、上村秀二郎指導。

○大阪府、40名、豊里滑空場、3月27日より4月7日、原田覚他指導。

○京都府体連、飛協支部、40名、玉水滑空場、4月1日、同10日、沢田兼一指導。

○兵庫県学務部、飛協支部、40名、明石藤江滑空場、3月1→10日、槙田千三指導。

○静岡県、飛協支部、50名、箱根十国峠、3月23→4月2日、小川健爾指導。

○奈良、和歌山県学務部、飛協支部、36名、玉水滑空場、3月27→4月3日、大西栄太郎。

○徳島県滑協、飛協支部、教員18、生徒18、徳島飛行場、3月27日→4月4日。

○茨城県、飛協支部、40名、石岡中央滑空訓練所、3月24日→4月2日。

○福岡県学務部、35名、諏訪弥太郎指導、名島埋立、第1回1月、第2回4月。

 

○学生航連、滑空部、150名、水戸飛行場、3月後半、古林少佐指導。

○東大滑翔研究会、20名、戸田橋滑空場、3月2330日、沢田兼一指導。

 

 

 3月16日、今まで朝鮮の各グライダー団体の統率機関だった朝鮮航空連盟が発展的解消し、朝鮮国防航空団として生れ、この日、京城の遞信事業会館で結団式をあげた。本団は基本金50万円の財団法人とし、各道庁所在地に支部をおき、国防国家体制確立に寄与することになる。本団の本年度最初の事業として、3月6日から4月5日まで4週間にわたって、京城飛行場で、指導者養成のための講習会を開いた。全鮮の一、二級滑空士免状所有者23名が参加し、朝川竜三滑空士ほか3名が指導に当たった。

 

 

 4月5日、石岡の大日本飛行協会の中央滑空訓練所が開所した。初代所長には同協会の訓練部長の摺沢大佐が任命された。普通科の修業期限は3ヵ月半、この科は5日の開所と共に始まったが、引続き高等科、研究科が置かれることになっている。第1回の普通科訓練生は、地方支部の滑空訓練指導者養成のために、30歳前後の中等学校卒の適任者を地方支部で推薦した60名であった。面積30余万坪の大滑空場の西方10kmの所には筑波山がそびえている。飛行場の東側には格納庫、本部、宿舎、工場、食堂、三角屋根の大構堂が美しい庭園を囲んで建ち並んでいる。

 4月23日から5月2日まで、福岡県では大日本飛行協会支部と共催で、福岡市外名島埋立地で、中等教員グライダー訓練講習会を開いた。参加者は福岡県30名、鹿児島県22名、使用機はプライマリー6機。佐藤九大教授、前田航研工業社長を学科講師に、諏訪、田中丸両一級滑空士を教官とし、52名を2班に分けて訓練を実施した。

 



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