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昭和17年(1942)

 (1月2日、セカンダリーの滞空日本新記録)大日本飛協九州飛行訓練所では九州学生航空連盟員20数名を動員し、12月28日から福岡市外和白海岸で耐寒滑空訓練を行っていたが、1月2日遂に、かつての海の荒鷲、中西利道二等飛行士(25)によりセカンダリー機の日本新記録が作られた。強い季節風に恵まれたこの日、午後3時45分、奈多海岸砂丘上からゴム索で海上に射出された光式2.1型中西機は高度80米を保ち、海岸線に沿うて和白村三苫から雁ノ巣空港間2kmを往復快翔、ついに3年前、清水六之助氏が箱根十国峠で作った1時間30分のセカンダリー日本記録を破り、なお快翔を続けた。日没となり計器を持たぬ同機は月の出を待ったが、雪雲におおわれた大空に無念の心を残して、6時20分20秒着陸した。こうして2時間34分20秒のセカンダリー記録が作られた。中西氏は、「私はグライダーを始めてまだ3ヵ月にしかなりません。それに海岸が狭いのでスタートにかなり苦心しました。月が出ていたらもっともっと飛べたのですが残念でした」と語った。これで九州は昨年2月8日、河辺忠夫一級滑空士が前田式703型で、久留米郊外耳納山で13時間41分、同じく昨年1月12日、奈多海岸で田中丸治広一級滑空士が九帝七型で7時間20分の記録を作り、さらに今回の中西氏の2時間34分のセカンダリー記録により、堂々と3つの日本記録を獲得した。

 (1月9日、津野式水上グライダーの公式飛行)が東京府下荒川放水路戸田橋水域2500mコースで、航空局、川崎、村上両航空官立会のもとに、設計製作者である一級滑空士津野藤吉郎氏操縦で行われた。曳航ボートは東京モーター・ボート・クラブの国防25号艇、230馬力、最大時速80km/時であった。第1回は時速40km/時で曳航を続け、艇の滑水状況を調べたが、曳航距離800m位から速度が次第に増加し、操縦者は押えきれなくなったのでついに離水し、高度約50mまで上昇し、直線滑空の後着水した。第2回目は滑水約100mで軽く離水し、秒速2mで上昇し、高度約150mを保って約1km曳航して離脱、それよりS字旋回をして、指定の水域に着水、滑走距離約50mで停止した。津野氏は「非公式の時より強馬力の艇を使ったので調子がよかった。離水前のハンプにはいる時かなり水沫があがり、ピトー管に水がはいって利かなくなった。ピトー管の位置を変えなくてはいけない」と語った。

 

 

 (1月13日、航時座談会、正課にはなったがグライダーの供給に悩みはないか)畠山航空官、松下弁二体育官、日本滑空機工業組合理事長、伊藤音次郎氏、渡部航時社長、本年の4月から男子中等学校では滑空訓練が正課に加えられることになったが、そのためにプライマリー機の大量供給が必要になった。ところでわが国のグライダー工業界の現状では、この需給関係に大きな危惧の念を抱かざるを得ない。本誌はこの問題を取り上げて、関係の最も深い方に集ってもらって忌憚のない意見を聞かしてもらうことにした。

 (松下)滑空訓練を男子中等学校の正課にしようとの懸案は、文部省と陸軍省とが話しあって数年前から準備を進めていたのが、最近時局の要請で実現したのです。正課の時間はもういっぱい詰っていて余裕はありません。それで軍のほうでは軍事教練の100時間を滑空訓練に渡そうということになった。しかしこれだけではなく、学校報国団、あるいは課外の時間までもこれに振り向けて訓練の成果を発揮させなくてはならぬと思います。時局の影響で経費も物資も自由に入手できない、施設、器材も十分でなく、さらに指導員の養成にも追われている。しかし時局は非常に緊迫していて、空軍要員の補充に、また航空工業の技術員の補充に、滑空訓練の使命は大変重いのです。そこで器材の問題ですが、文部省式1型というプライマリー機を全国に行渡らせねばならぬのだけれども、昨年の状況をみると、注文数の半分ぐらいしか渡っていません。しかも納期は著しく遅れている。届いた機体の中には、かなり粗末な品もあった。そこで今年は特に航空局の協力をお願し、また生産者でも大いに奮発してもらってこの問題を打開してもらいたいのです。

 (渡部)今滑空訓練を実施している中等学校は約700とのことですが、男子中等学校の数は約2,000とのことだから、大体この3分の1がすでにグライダーをやっている。それで今回これが正課になると、その2,000の男子中等学校全部がやらなければならぬことになるわけでしよう。もっとも各学年に全部課するわけではなく、滑空訓練教程では、3年生以上、年齢でいえば16歳以上となっていますね。そこで1年間に学校だけで必要なグライダーの機数はどの位になる見込みですか。

 (松下)昭和17年度に要する滑空機購入予定数というものを一応作ってみたのですが、初級機がおよそ1,000機、中級機が約30機ぐらいです。

 (畠山)私共の方で、17年度に必要とする全国のグライダー需要を調査してみましたが、プライマリー約3,000機、セカンダリー185機、ソアラー100機、モーターグライダー10機程度必要だろうということになりました。

 (渡部)そういうことになれば、今までのグライダー生産状態からいって、到底その需要を満たし得ないのではないかと心配しますが、その点について、滑空機工業組合の伊藤理事長さんのお考えは如何ですか。

 (伊藤)まづ17年度を考える前に、昨年の成績を反省する必要があると思います。昨年組合を通して注文があったグライダーの合計は862機になっています。組合を通じなくて組合以外のメーカーが作ったのもありますから、昨年の全体の申込は大体1,000機と考えればよいと思います。そこで組合員で製作納入したのが565機、組合以外で作ったのが80機ほどと考えますと、結局600少し超しているとみてよいでしよう。

 メーカー希望者が雨後の筍のように出てきたが、実際に生産力を増強するにはどうしたらよいか。グライダー資材の確保は大丈夫か、遊休施設を生かすべきだ、グライダー公定価格の再検討が必要、などの種々な重要課題が論ぜられた。

 (冬季帆走飛行研究会)生駒山上を基点とする記録滑翔飛行大会が、大毎・東日および大日本飛行協会の主催で、1月16日から同25日まで10日間、開かれた。参加者は一級滑空士16名、第1日に利根川、常国、田中丸喜善の3名の一級滑空士は山頂滑空場をスタートし、骨身をけずる寒風をおかして5時間前後の飛行をした。指導官は佐田中佐、石原少佐、佐藤九大教授、南波大阪飛行場長、肥沼大阪気象台長、松下体育官、10日間の滑翔回数31回、總滑翔時間65時間、最高滞空記録5時間38分、最高高度1,000mという輝しい成績を示した。使用機はオリンピア3機、美津濃301鷹7九帝七ゲ式1型光3.1型の8機、1時間以上18回、2時間以上14回、3時間以上10回、4時間以上7回、5時間以上3回。

 

 

 (大学・高専の先生方のプライマリー講習会)が1月22日から2月10日まで20日間、文部省の主催で石岡の中央滑空訓練所で聞かれ、文部省から松下体育官が(その他)出張して指導に当たった。

 

 

 

 (大阪府に八雲滑空道場建設)北河内郡庭窪村の内務省所有の土地を、大阪府で5万坪使用許可を得、市立14の中学校の滑空道場にする計画で、この14中学校の生徒約3万人を動員し、毎日300人ずつ80日間の勤労奉仕作業をさせている。これは八雲道場と命名され、4月には開場される予定である。

 

 (日本滑空機記録規程制定委員会)

 陸軍航空本部           陸軍少佐    西原 勝

 航空局 航空官                        榊原茂樹

 同      同            陸軍中佐  佐田侃三

 同      同                     南波辰夫

 文部省    体育官                 松下弁二

 同     体育官補                   山崎好雄

 九州帝国大学  教授                佐藤 博

 大日本飛行協会 總務部長  陸軍少将  東 栄治

 同       滑空部長    陸軍大佐 摺沢真清

  昭和16年12月15日  大日本飛行協会

 

 

 日本滑空機記録規定(仮称)審議会は来る20日前後に開催予定の旨、御通知申上候処、都合により延期の已むなきに至り候段不悪御諒承被下度願上候 尚本審議会は来春早同開催し、1月15日より生駒山に於て実施する冬期帆走飛行大会に是非間に合う様致したき心組に有之候。その後に蒐集仕候資料としてイスタス規程より別紙の如く、抜萃同封御送付、御参考迄に貴覧に供し候。

 

 

 (イスタス関係規程抜萃) 

 

     (1) A、B、C、章は各国の飛行協会で支給し、何れも独乙の原型通りの青丸地に白鴎を1、2、3羽を入れ、これに適宜に自国の首文字をあしらう。

     (2) イスタスは以上の上に銀C章および金C章を出すが、これは左記の成績を出した者に対して与えられ、国際的(インターナショナル)なものである。

  銀C章、 滞空5時間、距離50km、高度1,000m。

    金C章、 銀賞の所有者、距離300km、高度3,000m
(3) イスタスに銀C、金C章の下附申請をするには左記の手続をすること。
 ○滞空時間(パイロット氏名、滞空時間、飛行実施の日時、航空当局の照明を提出)

     ○距離飛行(出発地、着陸地、発着時間、航空当局の証明、なるべく自記高度記録提出)

     ○高度飛行(索離脱高度から1,000m以上、また離索後飛行中の最低高度より1,000m以上の高度獲得も有効、航空当局の証明した自記高度計記録を提出、これにはパイロット氏名、飛行日時、高度計番号を附記す、出発様式を明示、ゴム索スタートの時は出発点の標高を明示、何れの出発様式でも、出発地の地上気圧を明示、自記高度計の最近の修正曲線を添附すること。)

 

 

 (日本滑空機記録規程案) 

 

 滑空機の記録は左につきこれを認定す 

  1.直線距離

  2.出発点に帰着するまでの直線距離

  3.目的地飛行距離

4.出発点上空における高度

  5.航続時間

  6.出発点に帰着するまでの航続時間 --

               以下省略 -

 (2月4日夜、戸田橋滑空場の火事)10時から11時までの間に、東京郊外の戸田橋滑空場内格納庫から火を出し、格納庫1棟と、その中のグライダー、プライマリーとセカンダリー、20数機を焼失した。同格納庫は大日本飛協の所有で保険はついていたが、グライダーには保検がついていないので、この方の損害は償われない。最大の被害者は東京府中等学校体育連盟で、ここの所属の機は10数台あった。火災の原因は、ルンペンの焚火の不始末ではないかとみられる。

 

 (2月10日、石岡の中央滑空訓練所で大学高専職員滑空講習会終了)最初の試みで注目されていた本会は予定通り1月22日開始、2月10日無事終了した。受講者は官私立の大学、高専の教授、助教授、講師など45名で、本会の目的とするところは「学校における滑空訓練の監督として必要な学識、技術を与えるにある」、つまり学校のグライダー訓練部長といった役の人を養成するのが目的だった。したがって実技のほうはプライマリー訓練を行っただけだが、学科のほうは短期間にもかかわらず、沢山の課目が取り入れられた。この中の主なものをあげると、滑空原理(東大の守屋教授)、滑空機材(榊原航空官)、滑空気象学(藤村中央気象台技師)、滑空指導方針(佐田航空官)、体育とグライダー(羽田文部省事務官)、総監督は松下体育官、実技は文部省の矢沢、宇津木、児島の3氏が担当した。

 

   (2月末、航空朝日編、「滑空読本」出版さる) 
   滑空の歴史(九州帝大教授、佐藤博)、滑空理論(三菱重工技師、本庄
  季郎、高田茂俊)、滑空気象(中央気象台技師、大谷東平)、滑空訓練法
  (陸軍少佐、古林忠一)

 
 (航空時代3月号)「滑空機工業の振興策」航空局航政課長守屋秀雄。「水上グライダーの公式飛行試験を終えて」津野藤吉郎。「冬季帆走飛行研究会を評す」陸軍少佐石原政雄。
 
 滑空機工業組合に昭和15年7月以来加盟の6社の公称資本金は、伊藤飛行機50万円、日本小型飛行機50万円、東洋金属木工208万円、福田軽飛行機100万円、美津濃グライダー製作所200万円、河合楽器製作所50万円。
 
 (第3回中央滑空訓練所普通科訓練生)ここでは開所以来すでに2回にわたって、普通科訓練生を一般から募集し養成したが、17年には3、5、7、9月の4期にわたり、1期30名乃至60名を募集し、年度内に少なくとも200名を養成する方針を決定し、すでに本年度、第1期生(開所以来3回目の普通科生)35名の選抜を終わり、3月10日から訓練を開始した。訓練主任は清水六之助一級滑空士である。
 
 (第4回滑空訓練生募集)前記の訓練生に続く第4回訓練生(昭和17年度第2期普通科訓練生)はすでに募集を開始し、5月には決定して直ちに訓練を開始する予定。志願者資格は、概ね25歳以上35歳までの者で、中学卒またはこれと同等の学力ありと認められる者となっているが、5月にはこの規定外のものとして、特に20歳前後の者も加え17年度第1回の約倍数を採用の予定。
 
 (中央滑空訓練所 普通科訓練生 心得)
 大日本飛行協会では17年度普通科訓練生を左記の要領で募集する。

 1,養成の概要

 (1)目的

初期訓練指導に必要な教育を行い、初級機中級機の完全な操縦及之に伴う科学教育、初級機の製作修理の概要、自動車の捲線法及指導要領を教授し、指導免許証を獲得させ、以て本会各支部の専任指導員を養成するにあり

 (2)採用人員、年4期に分ち、1期約30名乃至60名

 (3)修業の場所、期間、経費

  場所、茨城県新治郡石岡町、大日本飛行協会 中央滑空訓練所

  修業期間、約100日

  入所期日、昭和17年3、5、7、9月の4期に分つ

       (4)経費、訓練生は一切所内に起居させ、修業の費用は一切政府補助金を以て  支弁する

2,志願者資格

 (1)年令

  概ね25歳以上、35歳までの者

 (2)学歴

中学卒又は之と同等以上の学力ありと認められた者、(要すれば師範学校、青年学校教職にある者は更に可)

 (3)義務年限

限定せざるも、修業後は本協会指導員として府県支部に在職しうる者

3,選考、本部で体格、学歴その他を考査の上採用を決定する 

 
 (飛行協会の今17年度の滑空行事)は下の如く決まった。開催の順からいうと、霧ヶ峯で帆走飛行研究会、石岡中央訓練所で帆走飛行研究会(気流調査に重点)、神宮競技会(11月に2日にわたり挙行)、生駒山で冬季帆走飛行研究会の4本建てとする。

 
(東京高等体育学校でも滑空訓練を正課に) 

 文部省直轄の同校では昭和17年度から滑訓を正課とすることに決し、手始めに同校教授の関口隆克氏監督のもとに4月1日から1週間読売飛行場で基礎訓練を行うことにした。

 (日本グライダー・クラブ盛況)東京二子多摩川畔の読売飛行場を練習場として生まれた同クラブ(昭和15年7月誕生)はその後大いに発展し、会員約600名に達した。会員はすこぶる多彩で華族、工場員、重役、店主、学生、婦人と社会の各層を網羅し、タイ国留学生や米国生れの二世などもいる。大倉六郎(喜七郎氏の御曹子)、西園寺二郎(公爵家の御曹子)子爵吉田清重、タイ航空中尉チャルム、同カムロン等々。

 (ショックコード入手難解消か)滑空界が急ピッチで発展しかけたら、機体入手難、ショックコード不足で弱っていたところ、わが勇敢な兵隊さんはゴムの産地を悉く押えてしまい、銃後のゴム饑饉を救うために、無理に船を都合して、いわゆるチャーチル給与のゴム原料を数回にわたって大量送ってきた。商工、文部両省や航空局の計いでショックコードを沢山造って滑空界に配給することになった。
 
 (福田軽飛行機会社の光式5.1ソアラー)
 同社では最近オリンピア改のソアラーを完成し光式5.1型として発表した。(写真、航空時代17年4月号)
 
 (滑空訓練の想い出、山本勲)航時、17年4月号より。
 (仲間なしの練習)
 昭和7、8年頃には関西でグライダーを飛ばしていた者はなかった。又グライダーを真面目に練習しようとした者もほとんどいなかったから私がグライダーを飛ばす時、狂人扱いなされたが、練習には案外都合がよかった。

  練習をしようと思えば子供2、3人に手伝ってもらって、練兵場にグライダーを運び出して休んでおれば、数十人の見物人はすぐ集まってくるので、その中から協力が得られた。

「おっさん、これ飛行機かね」
「いやグライダーというもんじゃ」

「どうして飛ばすんだね。」
「このゴムを引っ張ってくれれば飛ばして見せるよ」

「みんなで引っ張って飛んで見せてもらうか」

そこで12、3人を2列に並べ、ゴム索の引き方を教える。

 2、3回飛ぶと「なんだこれだけか」ということで練習中止になる。そこで今まで飛んだ成績を反省していると、次の見物人が集まってまた練習させてくれることになる。こうして1日に20回から30回は飛べた。これがみんな私1人の飛行回数なんだから、ゴム索は1回も引かんでも相当疲れたものだ。教官はいなかったが、鞍数が上がったので上達は案外早かった。私は当時の初期練習時代の信条として

 1、見物人のための飛行ではない、決して無理してはならぬ。

 2、狂人と言われてもよいが、狂人になってはならぬ。

 3、空中襌の気持を味うのだ。

 4、ゴムの伸度、風速、飛行の関係を調べよう。

この4ヵ条を忘れなかった。私は教官なしで何百回飛んだかわからぬが、グライダーを負傷させたことは、ただの1回だってない。このことは今でも練習生の前で、いつも自慢している。

 (はなし違いのはなし)

 昭和8年春の浜坂砂丘での話。当時、鳥取での人夫賃は弁当持ちで、朝から晩まで働かせて男が70銭、女が50銭だった。男は「もっと高く飛んでみろ」とか「この山の上から飛んでみろ」とか、いらぬことを言って研究の邪魔になるから、よく婦人会や処女会のやさしい方のお世話になっていた。これは初めて処女会に手伝ってもらった時の出来事だ。最初のテストに、うんと飛んでみせようと色気を出したのと、アンカーレリーズを前部胴体につけて、細長い紐で外すようにしていた事が間違いのもとになったようだ。

 さて、その話というのは---きれいな娘さんたちに、ゴム索の引き方、アンカーレリーズのはずし方、または私は狂人扱いにされながらもグライダーをやめないわけまで話して、自分一人でよい気持になって熱をあげた末「各自位置につけ」ということになった。

 「用意、前へ進め」当時私は「曳け」という言葉を思いつかなかった。「走れ」でゴム索は十分に伸びきった。「放せ」と号令したが、機は一向に動きださない。再び「放せ」と大声をあげたがそれでも放さない。「放せ、放せ---」と怒なったところ、ゴム索を曳いている者が、みんなこちらに顔を向けている。ゴムは今にも切れそうである。

 「放せ、放せ、---」と立て続けに怒鳴った。その瞬間右側のゴム索が砂煙をあげて物凄い勢いで飛んできた。「やられた」と思った瞬間ゴムは一塊になって橇の下に深く飛び込んだ。「やれやれ」と思う間もなく、ピシッと音がして今度は左側のゴムが猛りたった。衝動的に左手で顔を隠した。その手の甲をゴム索の端がピシャリとたたいた。見る見るうちに紫色にはれ上がった。

「一同集れ、なぜレリーズを放さなかったか」

「すぐ引っ張ったんですが、引綱が切れました。2度めに放せと言われて、あわてて翼の下に這い込んで外そうかとも思ったが、恐ろしうてマゴマゴしていました。済みません」という。そこで今度は右索曳の連中に「なぜ放したんや」と詰問すると

「誰かが、ここを放すんじゃないか、と言ったので、私は放しちゃいかんと言っとったんです。そんでも、あんまり大きな声で何度も何度も「放せ」「放せ」言いんさるけん、一人二人放しんさった。そしたらゴムに引張られて倒れそうになったので、仕方なしに、みんな放しました」

「そんなら、左のほうはどうした」

「私らも、ゴムがもう引けんようになったけど、ここは放しちゃいかん思うて持っとったけど、あっちの人が放しんさったけ、こっちも放そうと言って、1、2の3でみんな一ぺんに放しました」

 この事件以来、初めての練習者に説明する時は必ず「放せ」の号令は、尾索保持者にだけの号令で、他のゴム引掛りは絶対に放しちゃいかんと、くどいように説明を加えている。

(信州松本市に信州航空工業KK)というのが文部省の肝入りで生れた。社長は島田徳之助氏、取締役の中には大阪の福田軽飛行機の常務、生田千年雄氏もいる。工員650名、文部省型プライマリーを月産25機の目標で、6月から本格的な生産に入る。

 (4月1日、滑空機規則の改正)昭和12年6月から実施していた「滑空機規則」は今回改正され4月1日から施行される。旧規則は39ヵ条の短いものだったが新規則は2倍の75ヵ条に増大している。前は滑空機の種類が甲、乙2種だったのが、今度は第1、2、3種および特種の4種類になった。また旧令では一級と二級滑空士免状の2種類しかなかったのが、今度の規則では、特級、一級、二級、三級の滑空士および滑空教士の8種類に増した。また年令は、前は一級滑空士満19歳以上、二級は満17歳以上となっていたのが、今度は、特級満18歳以上、一級、二級は満16歳以上、三級満15歳以上となった。(航空時代、昭和17、5月号)佐田侃航空官、「新滑空機規則の要点および規則全文」

 (東亜帆走飛行研究会が4月1日に結成)された。会員は主として極東帆走飛行クラブ員で、約40名。代表者は高村袈裟男氏、指導者は、福島良子。日向美智子、杉山康の各二級滑空士である。

(極東帆走飛行クラブの解散)
 昭和11年、利根川勲一級滑空士の主宰で結成されて以来、初期のわがグライダー界に大きな貢献をしてきた同グラブは、結成7周年記念日の本昭和17年5月3日をもって発展的解散をすることになった。このクラブから出た一流グライダー・パイロットは20名近くに達する。

 

 (東日懸賞募集のセカンダリー)設計は、候補4機を選出して、製作に着手していたが、そのうち、東洋金属木工と巴航空機に依頼した2機が完成し、他の2機も近く完成し、5月末ごろには審査飛行の予定である。
 

 (朝鮮のグライダー界近況)京城に新設された富永軽飛行機製作所では、目下プライマリー機15機を製作中、これが完成すると4月中旬には、華々しく進空式を行い、引続き大量生産をする予定である。同製作所は朝鮮唯一のグライダー・メーカーで、朝鮮国防航空団や官庁方面の支持を得ているので、発展が期待されている。  

 朝鮮総督府発行のグライダー免状数は一級10名、二級約百名であるが、その所有者はほとんど中等教員ばかりである。これらの人々は、昨年3月から11月にわたり5回行われた講習会で免状をもらった、この講習会の1期の期間は55日であった。 

 

(4月5日、平松時善子爵の婚礼)一級滑空士、二等飛行士、の同氏は一条実孝公爵夫妻の媒妁で、宮城県の素封家、小野寺象治氏の長女貞子さんと結婚し、披露宴を同日夜、華族会館で開いた。百数十名の来賓中には、グライダー界の知名人10余名の顔も見られた。
 
 (駒鳥型プライマリーの製作講習会)グライダーの寄贈運動をしている朝日新聞社と、大日本飛行協会の共催で、第1回滑空機製作講習会が川崎市木月の航空局試験所で、4月15日から1ヵ月間行われた。講習生は全国から選出された30名、朝日式駒鳥型プライマリーを作る。
 
 (福田新次氏日本滑空機工業組合専務理事に)
 前毎日航空部長の同氏は、日本国際航空工業KKを辞し、4月11日、日本滑空機工業組合の専務理事になった。
 
 (4月27、8日、前田航研で陸軍註文の「ク―10」モックアップ審査) 
 (航空局航空課の航空官更迭)同課で今まで滑空機工業に関する事務を担当していた畠山義三郎航空官は、この4月、興亜院華北連絡部経済第3局航空班勤務に転出し、任地北京に赴任したので、その代りとして同院から関口規矩二氏がやってきた。同氏は九大在学中に佐藤教授のもとでグライダーを勉強した人で、興亜院に行く前、航空局にいて、大阪で勤務したこともある。
 
 (小島康夫君、文部技手となる)厚木中学の滑空部時代から注目され、卒業すると文部省で滑空訓練関係の仕事に励んでいた同君は3月末日付で、文部技手に昇進した。
 
 (4月15日発行の「関急」に志鶴氏の「生駒山とグライダー」寄稿)、筆無精で有名な志鶴元老が、この相当長文をものしたのは、よほど「関急」の編集員の責め方が上手だったとみえる。大へん面白く書かれているのみならず、文献としての価値も高いと関西滑空界で評判となった。
 
 (清水六之助著、「日本の滑空飛行」)日本滑空界の草分けから献身してきた著者が、豊かな知識経験をもって、技術的、精神的見地から「滑空とはどんなものか」を少年たちに解らせようと、操縦桿を握る手にペンを持ち、興味深く書き下ろされた、図入り物語風の力作である。模型飛行機好きの少年が、プライマリー訓練からセカンダリー訓練を経て、高級ソアラーによる長距離滑翔をするまでの生い立ちを筋として、滑空原理、訓練法、気象、工作、または滑空史など、すべての滑空関係の要項を網羅している。九大教授佐藤博先生、文部省体育官松下弁二先生御推薦とある。東京開成館発行、A5判、435頁、定価2円80銭。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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