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昭和19年

昭和19年(1944)

 (1月7日、九大、田中丸、8時間45分)

 九大、滑空研究所の田中丸特殊滑空士は、九帝11型ソアラーで、午前10時、福岡郊外奈多砂丘よりスタートし、海岸上昇風に乗って、銀翼に日の丸を輝かせて快翔を続け、河辺氏の日本記録13時間41分に挑戦したが、残念にも夕方に風が落ちて、6時45分に着陸した。滞空5時間45分であった。同氏は、「最高高度は850米で、2時間目位から手足ともに寒さのため感覚がなくなった」と語った。

 

 

 (航空朝日、2月号、英軍の「ホルサ」滑空機)

 

 英空軍の軍隊輸送用グライダー「ホルサ」はデハビラント社の傘下にあるエアスピード社製。操縦士2名、武装兵20名、補助席4、スパン26.8m、全長20.4m、翼面102.56㎡、自重3,375kg、搭載量3,448kg、全備6,863kg、翼面荷重67.4kg/㎡。

 

 

 (2月26日より3月3日までク-10公試)

 

 立川の陸軍航空審査部で前田航研KKで作ったク-10無制限曲技用グライダーの公式試験飛行が実施され、所期の成績をあげた。

 

 

 (5月18日から同23日までク-10剛性振動試験)

 

 前田航研、糸島工場で、本機の剛性試験、振動試験が行われた。

(米陸空軍は最近、エンジン付グライダー)を制式に採用し始め、この種の機にはPG(パワード・グライダー)の記号をつけている。現在、大量生産をしている動力を持たぬ輸送用グライダーにはCG(カーゴー・キャリイング・グライダー)の記号をつけ、練習用にはTG(トレイニング・グライダー)の記号をつけている。

 

 

 (滑空機計測についての一考案)航空研究所、阿曽真一郎、航空朝日、6月号

 

 霧研式滑空(距離および降下量)計、滑空速度、沈下速度の測定、昇降舵角計、簡易速度計などを考案している。

 

 

 (ゴータ244、242、メッサーシュミット323)

 

 CG4Aなどのグラビア写真、航空朝日6月号、同11月号

 

 

 (石岡中央滑空訓練所の紙のグライダー)

 

 大日本飛行協会石岡中央滑空訓練所では、1年ほど前からプライマリー2機の主翼や尾翼に紙を張って練習に使っていたが、成績がよいので、さらに紙張りを5機増やした。この紙は茨城県久慈郡諸冨野村の太田製紙会社製の「西の内」という、楮を原料とした和紙で、から傘紙より幾分厚めで、繊維が縦横に交錯して、丈夫である。張るのも簡単で、糊で切り張り修理ができ、スフ羽布のようにビリビリ裂けていかず、局部的ですみ、塗料も少量ですみ、耐水性もよい。重量も軽く仕上るので沈下も幾分小さくなる。決戦型紙張りグライダーの登場である。

 (昭和19、6月末、ク-7の完成審査)

  昭和17年の秋から、京都深草の国際航空で設計をはじめた陸軍の大型輸送用滑空機「ク-7」の完成審査が、6月24日から30日まで、京都の国際航空工場で行われた。

 これは、スパン25m、翼面積112㎡、自重4.5トン、全備13トン、翼面荷重116kg/㎡、最大曳速度350km/時、日本の輸送用グライダーでは最大のものだった。主翼は木村秀政氏の提案で、翼型も平面形も、航研の長距離記録機をモデルにした。

 あとで本機に450馬力のエンジンを積んだ双発輸送機も試作された。ドイツでも1941(昭和16)年にできたMe321「ギガント」220人乗り巨人グライダーに、後になって1,000馬力エンジンを6基積んで、世界最大の輸送機にしている。国際航空機の大型輸送用グライダーの曳航機には爆撃機「飛龍」を使った。

 

 

  また国際航空機KKの平塚工場では、関口技師の設計で、この19年の初めに、陸軍の輸送用グライダー(ク-8)ができている。これはスパン23m、翼面積51㎡、全備3.5トン、搭載量1.8トン、最大曳航速度224km/時、これは空挺部隊の実用機として、終戦までに一番大量に生産された輸送用滑空機であった。

 

 

 

  またこの昭和19年にできた輸送用グライダーには、日本小型飛行機KKの陸軍試作機(ク-11)がある。スパン18m、翼面積40㎡、自重1.26トン、搭載量1.24トン、全備重量2.5トン、最大曳航速度300km/時、滑空比18.2、沈下速度1.94m/秒のもので、これは量産に入らず終戦になった。試作2機(1機は荷重試験用)で計9万円であった。当時ソアラーは1,500から2,000円ぐらいのものであった。

 

 

 

 

  日本小型は、この19年には、プライマリーK-14、セカンダリーK-15(若草)を沢山作った。前者は、戦後になって学生航空連盟(朝日)に愛用されたものであり、後者は戦時中、海軍予科練習生の滑空訓練に大量に使われたものである。

 

 

 

 

  さらに日本小型では、19年の秋には、本庄、宮原両技師の協力で、技術院の研究企画1号として、ヱンテ型の複坐グライダー(かも)を試作した。当時イギリスのマイルズM39鴨型戦闘機とか、アメリカのカーチスXP55(アセンダー)鴨型戦闘機、さらにわが国の海軍でもこの型式の戦闘機(九州飛行機で試作)を計画していたのでエンテ型機の性能を研究する目的で、このグライダーを作ったのである。風洞実験は阪大の小谷教授、強度振動試験は中央航研の寺田航空官、飛行実験は大日本飛行協会の藤倉特殊滑空士によって行われた。

 

 

 スパン15m、全長8.4m、高さ2.5m、主翼の両端に方向舵がついている。これは普通の尾部方向舵のようにフート・ペタルを踏んで操作するが、両ペタルを同時に踏めば、左右翼端の方向舵は、両方とも同時に外側に開いて、エア・ブレーキの作用をする。前方小翼の後縁部は昇降舵になっているが、その前縁部分には固定スロットが切ってある。胴体の後端には固定の垂直尾翼がついているが、方向舵はない。

 滑空比は22、この時の速度は83km/時、着陸速度は55.4km/時、沈下速度は0.93m/秒。

 全木製であるが、プラスチック接着剤を使っているので、ガゼイン膠より強度が大きく、また外板の波打ちがなくて、仕上げがきれいにできている。

 主翼を次第に短く切って、翼面荷重を増大した場合、尾部の垂直安定板を除去した場合などのテストを続ける予定であった。

 

 

 (敵空挺部隊の正体を衝く、陸軍航技大尉、保木久雄、航空朝日、昭和19年7月号)

 

 世紀の耳目を集めて、反枢軸軍の北仏における反撃の第一歩は、空挺部隊により6月6日拂暁を期して開始された。一方ビルマ戦線でも、3月5日から10日にかけ、月明の夜に重慶軍の印支補給路の打開を目的として、日本軍の背後に数千の空挺部隊を降ろした。まず初めに幅100m、長さ2,100mの飛行場を2つ互に100km距った位置に設営し、それから空挺部隊を輸送した。

 使用した滑空機はウェコーCG4A100機、曳航機はDC3型45機、滑空機操縦者76名、曳航機正副操縦者90名。CG4A滑空機は正規は、正副操縦士が2名、兵員13名であるが実際は武装兵を20名位乗せている。スパン25.6m、全長15.9m、高さ3.7m、主翼面積80㎡、空重量1,350kg、搭載2,300kg、全備3,650kg、滑空比15、着陸速度120km/時、正規滑空速度140km/時、最大曳航速度290km/時。

 曳航索は、径25mm、2機曳航の時は130と107mの長さのナイロン索を使い連絡電話線がこれに沿うてつけてある。また曳航機の尾部には、グライダーの釣り上げ装置を持っていて、狭い飛行場では、通信筒釣り上げと同じ要領でグライダーを釣り上げている。

 

 

 (空中列車による空挺部隊の理論と効用

 

 阪大教授、三木鉄夫、航空朝日、8月号)

 

 

 米英空挺部隊の滑空機、九大教授、佐藤博、航空朝日、昭和19年9月号)アメリカ、イギリス、ドイツの輸送用滑空機、ホルサをホィツトレーで曳航する場合、CG4AをDC3型で曳航の場合の離陸、上昇を検討した。

 

 DC3型でCG4A(全備3.65トン)を1機曳く場合は、曳航機単独での離陸滑走距離は普通の飛行場(地面摩擦係数0.1程度)で570m位、1機曳航の時は620m位に延びる。

 エンジンの規定高度2,000m(この時のエンジン出力は1基1,000馬力)で単独速度315km/時(巡航出力880馬力で)、1機曳航ならば234km/時。規定高度2,000mでの上昇率は単独4.8m/秒、1機曳航の時2.8m/秒。高度3,000mまでの上昇に要する時間は単独で約11分、曳航時は約20分。上昇限度(実用)はDC3型単独では6,500m、1機曳航の時は4,600mに減る。

(写真世界の航空機、第5集)

 

 

 (昭和19年8月海軍はロケット戦闘機「秋水」の試作)を三菱に命じ、これと同時に本機の練習用に同形のグライダーを空技廠科学部で試作にかかった。空技廠の秋水グライダーの図面により、京都の横井航空、奈良の松田航空、福岡の前田航研、仙台の大日本滑空機で、この生産を始めたが、終戦時に横井の1号機が霞ヶ関で飛行準備中、前田のは1号機が完成直前という状態であった。(航空技術の全貎、上)



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