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 (9月1日より6日まで、前田航研ク-1のテスト)

 陸軍航空技研の注文で福岡の前田航研工業KKが設計製作していた8人乗り滑空機「ク-1」の初飛行が太刀洗で実施され、好成績を示した。指揮官は航技研の飛行課長甘粕三郎中佐、テストパイロットは古林忠一少佐、造修監督官は野田親則中尉(現日本航空技術部長)で、会社側パイロットとして九大、滑研、田中丸滑空士が最初の飛行をした。曳航機は九五式1型練習機で、同機操縦者は中西大尉であった。本機は輸送用大型グライダーの曳航練習用に造られたもので、複座以上の大型のグライダーは、これが日本で初めてのものである。スパン17m、翼面積30㎡、空重量650kg、搭載量550kg、全備1.2トン、翼荷重40kg/㎡、滑空比16、沈下1.65m/秒、最大曳航速度180km/時。

 本機は以来、前田、国際航空機その他の工場を合せて約100機生産納入した。なお本機は日本最初の大型グライダーとして、大型輸送用グライダーの設計指針となる多大の資料を提供したので、昭和18年末に、同機の設計、製作に当たった前田航研社長、佐藤九大教授、田中丸一級滑空士に対し、陸軍大臣より陸軍技術有功賞が授与された。
    

 (生駒山滑空記録に5,000円の賞金)9月20日の第2回航空日に、鶴見少将を名誉理事長とする生駒山滑空訓練研究会が、生駒山滑空場で発会した。そしてこの第2回航空日から翌昭和17年の第3回航空日までの1年間に、滞空時間、高度、距離の3種目にわたり生駒山で日本最高記録を作った者に、大日本飛行協会賞と副賞5,000円(愛国公債)を授与するとの懸賞を発表した。

 

 

 (津野式水上グライダーの離水試験)が9月28日、戸田橋ボートコースで行われ、日本機動艇協会のモーターボートで曳航され約1km水上滑走後離水し、3mの高度で滑空した。曳航速度は40km/時、索長150m、ボートの速度が55km/時になれば完全な離水上昇がなされることが判った。

 

 

 

 (光式研究機2型モーター・グライダーの上昇試験)が、10月13日、大阪第2飛行場で、小田一級滑空士の操縦で行われた。本機の上昇能力は計算では2,500米mとなっているが、本試験では3,150mまで昇れた。まだ昇れるが、寒気がひどくなったので降りたのだという。地上風速4m、滑走75mで離陸。午後2時41分。500mの時、(2時50分)1,000m(2時59分)、1,500m(3時9分)、2,000m(3時20分)、2,500m(3時33分)、3,000m(3時44分)、3,100m(3時46分)、3,150m(3時49分)

 

 

 

 

 (石岡でテルミーク上昇1,600m)10月19日、中央滑空訓練所で伊藤式C2型に搭乗し滑翔練習中であった花島三郎滑空士は高度200mでテルミークに入り、800mまで上昇し36分滞空した。次いで10月16日正午に同所の清水六之助教官はオリンピア機で1時間7分のテルミーク飛行をしたが、この時、15分間の雲中飛行で1,600mの高度に達した。

 

 

(中央滑空訓練所で索の離脱確認装置)を考案した。この装置は従来、しばしば索をつけたまま旋回したために事故を起していたのを防ぐ目的で考案したもの、構造が簡単で、価額も安い。近く各関係方面に図面と設明書を配布するはずである。


(朝日新聞社主催の滑空機展)8月から東京を振り出しに日本全国都市を巡回した。9月19日から25日まで、福岡玉屋デパートで開かれた同展は、期待にそむかず「科学する空の教室」で、早朝からすばらしい人波が押し寄せた。会場の中央には久留米明善中学出品の実物プライマリー、前田航研出品の竹製リブの実験では、1本のリブに中学生が3人ぶら下がってもびくともしない。一回りするとジオラマ、写真、ポスターによって構成された立体的解説で、グライダーの生い立ち、滑空原理、列国の現勢、初歩操縦の要領まで、グライダーの綜合知識が、巧みに会得させられる。最後に、九大の佐藤教授特別出品のドイツグライダー界の参考品の数々に目を楽しませる。

 

 (11月1日、第12回明治神宮国民体育大会、滑空訓練部演錬)は午前9時から石岡の大日本飛行協会中央滑空訓練所で開かれ、函館、千葉、神通、新倉の各中学、東京府立航空工、都島工、第一神戸工、熊本県立、下関商工、青森県立商、大阪貿易、松山商、および東京、大阪、福光航空青少年隊の15チームよりなるプライマリー訓練、各地の飛行訓練所所属の高専、大学や一般滑空士よりなる中級、高級機訓練を行った。総員328名は聖恩の旗を奉迎し、堀大会会長、摺沢大会委員長を始め、陸軍航本、文部省、航空局の関係官指導のもとに、プライマリーは3組に編成され、セカンダリーは360度旋回、高級機は特殊飛行など、数万の観衆の前に繰り広げられ、地元は空前の盛況であった。

 

 (11月の半ば日本小型の「ちから」完成)

 本機は海軍の特殊輸送用滑空機の乗員訓練、特に高速度曳航練習用として造られたもので、空技廠で計画し、日本小型飛行機KKに試作を命じた。前後席、複坐の無制限曲技機で、終極荷重係数14、スパン11.25m、全長8.8m、高さ1.8m、翼面積18㎡、アスペクトレシオ7、自量326kg、搭載量190kg、全備516kg、翼荷重29kg/㎡、滑空速度100km/時の時の滑空比18、沈下速度0.9m/秒、最大曳航速度290km/時、九三中練で曳航、97艦攻では2機曳航できる。本機は日本で最初の複座無制限曲技グライダーである。あるいは世界で初めての複座無制限曲技機かも知れない。(世界の航空、第5号に写真)

 

 (海軍特殊輸送機「MXY5」グライダー)

 8月に兵員11名、その他の小火器輸送用のグライダーの設計が空技廠の山本晴之技師を中心にして始められた。本機は九六式陸攻または一式陸攻で2機曳航し、離陸滑走800m以内という要求だった。途中から日本飛行機KKが仕事を引受け、約10機試作した。主翼はヂュラルミン2桁構造、木金混合骨組で、羽布張り、接着はビニール剤を用い、投下車輪とし、着陸は橇だけで行う。翼幅18m、全長12.5m、高さ3.7m、翼面44㎡、自重1.4トン、搭載量1.1トン全備重量2.5トン。本機は昭和19年になり、また数機製作した。

 

 (12月8日) 大本営陸海軍部発表、帝国陸海軍は今8日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり。

 大本営海軍部発表、帝国海軍は本8日未明、ハワイ方面の米国艦隊並に航空兵力に対し、決死的大空襲を敢行せり。帝国海軍は本8日未明、シンガポールを爆撃し、大なる戦果を収めたり。帝国海軍は本8日早朝、ダバオ、ウェーク、グワムの敵軍事施設を爆撃せり。

 

 (12月12日) 初級機組立部分品一式の最高価額が550円と決まった。この部分品は航空局指定のもので、昭和12年遞信省令第40号、滑空機規則で定められた検査に合格したものである。

 

 (中等學校の滑空部の増加)昭和10年初めて男子中等学校に滑空部が設けられた時は6校にすぎなかったが、12年には15校、以来1年間に150から200校の割合で増加し、本昭和16年末には602校に達した。

 

 (中央気象台附属気象技術官養成所報国団航空研究班)で年末に注文の練習機も出来上り、練習方針も決定した。団長は和達主事、航空研究班長は台長藤原博士、鍛練部長三宅教授、指導者小田勇一級滑空士、部員220名、練習場は松戸滑空場、毎土、日曜練習、使用機鳩型プライマリー2機。


~外国~
 50人乗りの軍用グライダー

 ワシントンからの東日外電によると、プラーグの飛行機工場では、ドイツ陸軍の注文で50人乗りの軍用グライダー1,000機建造中で、軍事専門家は、これは英本土進入用のものとみている。ドイツはグライダー部隊を2個師団3万人、英本土に上陸させる計画のようである。ドイツは以上の他に、20名乗りのグライダー、破壊用具と8名の乗員を運ぶグライダー、それに大型の貨物運搬用グライダーなどを作っているといわれる。

 

 (航空朝日、5月号、「滑空の聖地、九州グライダーを語る座談会記事」)  PDFファイルです。少し時間がかかります。拡大して見てください。

  

 (米国エルマイアのグライダー大会)ニューヨーク州エルマイア・ハリスヒルで7月前半に開かれた第12回全米大会では、参加30機、73選手、発航回数ハリスヒルから788回、飛行場から322回、總滑空距離5,149km、距離飛行1等デッカー(ミニモア)360km、高度1等マックセイ4,385mだった。

 



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